今回は、仏教は輪廻転生を否定したのかどうか?という論点で語ってみたいと思います。
「仏教 輪廻転生」でネット検索すると、「仏陀(釈迦)は輪廻転生を否定した」「輪廻は迷信である」との見解をブログ等で発表している方が何人かいらっしゃるようで、それらの記事が検索上位にも上がっていることに衝撃を受けました。
また、輪廻否定論は、ウィキペディアの「輪廻」の解説(仏教内における輪廻思想の否定)にも書かれていました
この見解にはちょっと唖然とすると言いますか、仏教学者の唱えている説の誤謬のなかでも、もっともレベルの低いものと言えると思います。半端な合理主義、科学主義に毒された悪見、邪見の極みと言えましょう。
実際は仏典の中でも古層と言われている『ダンマパダ(法句経)』の第一章にハッキリと来世への生まれ変わりを説いている箇所がありますので、そこを指摘するだけで済む話でもあるのです。
中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(第一章)から引用してみます。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
それでも、ここのところは仏教の根幹にも関わってくる問題ですので、もう少し詳細に、反駁しておこうと思った次第です。
ちなみに、”輪廻転生(りんねてんせい)”はサンスクリット語の”サンサーラ”に由来する言葉です。人や動物など「命あるもの」が何度も生まれ変わる様を表現しています。
人は行為によってバラモンになる
上述した”仏教における輪廻否定派”の根拠のひとつは次のようなものです。
「輪廻転生はバラモン教(ヴェーダの宗教)の教えであり、それはカースト制度の正当化に使われた。しかし、カースト(ヴァルナ)の違いによる悟りの可能性の有無を仏陀は否定したのだから、当然、輪廻転生も否定しているのだ」と、概略、そのような主張です。
しかし、「人間は生まれによってバラモンになるのではなく、行為によってバラモンになる」という主張が仏陀(お釈迦様)の本意であって、輪廻転生そのものを否定しているわけではありません。
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(『スッタニパータ』蛇の章136)
バラモン階級が自らの地位(カーストのトップであること)の正当化のために輪廻転生の思想を援用したことは事実ではありますが、仏陀はその「正当化の仕方が間違っている」「因果応報の理解が間違っている」と主張しただけなのですね。
”輪廻があること”そのものを否定したわけではありません。
無我説は輪廻転生否定の根拠にはならない
上に挙げたウィキペディアの解説の中に、
松尾によれば和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという
と書かれています。
該当の論文にアクセスする方法が分からなかったので、予想になってしまいますが、おそらくは、「無我=無霊魂説」を根拠にしていると思われます。
要するに、「無我イコール魂が無いということだから、輪廻する主体もない、ゆえに輪廻もない」という主張でしょうね。
時代背景的には、当時のインドの、バラモン教の”梵我一如(ぼんがいちにょ)”の思想、すなわち、ブラフマンという宇宙原理と個人のワタクシ(”アートマン”と言います)というのは本質において同一のものなのだ、という見解がありました。
それに対して、釈尊は無我説をもって、我=アートマンを否定したのだ、アナートマンなのだ、だから魂はないのだ、という主張です。
この無我解釈は、近代仏教学最大の負の遺産でしょう。この説に対しては下記の記事で反駁しております。
*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
詳しくはこの参考記事をお読み頂ければと思いますが、2点だけここで申し上げるとすれば、
- 肉体の死で完全に生命活動が停止するという考えは断見に陥っている
- 仏典には、霊魂の存在を明言している箇所がいくつも見いだせる
ということです。
実際、お寺のお坊さんでも大学でこのような仏教学を学び、「魂は存在しない」と思っている方が多いのですが、それだと、葬式・四十九日法要・先祖供養…など執り行っていることは詐欺的なことになってしまいますよね。
そういうわけで、それぞれ見ていきましょう。
1. 肉体の死で完全に生命活動が停止するという考えは断見に陥っている
この見出しだけで反駁になっていると思います。
断見(だんけん)というのは、別名、断滅論とも言いますが、「肉体の死をもって生命活動が絶たれる」という見解ですね、釈尊はこれを明確に否定しています。
一方、こうした主張する方は、肉体の死後も生命が続くという考えは常見(じょうけん)に堕している」と解釈していらっしゃるのでしょう。
釈尊は、常見も断見も両極端だとして、「断常の中道」を唱えられました。
しかし、この”常見”には落とし穴があります。
上記の主張をする方は、「釈尊は、肉体の死後も続く”永遠不滅の魂”を否定された」という書き方をします。
ここの”永遠不滅の魂”というところがクセ者であり、微妙なすり替えなのです。
魂があるからと言って、それが「永遠に変わらず続く」ということにはなりません。
「魂は変化しつつ続く」という解釈もなりたつわけです。そして、この解釈で「断常の中道」はキチンと説明できていますよね。
別に死後を持ち出すまでもなく、昨日のワタシと今日のワタシ、では肉体面でも心理面でも変化しています。変化はしていますが、”ワタシ”としての自己同一性は担保されています。
「変化しつつ続く」で、断常の中道になっているわけです。
したがって、常見と魂の存在はまったく矛盾しません。”常見”は魂、霊魂の否定の根拠にはならないのです。
さきのアートマンとの兼ね合いで言えば、仏典(律蔵)に下記の記述があります。
釈尊「では、無常であって思い通りにならず、損壊する性質を持つものを、どうして”これは私のものである”とか”これが私である”とか”これが私のアートマンである”などと見なすことができようか」
比丘ら「いいえ、できません」
釈尊「それゆえに、ありとあらゆる身体、感受作用、表象作用、形成作用、認識作用は(略)”これはわたしのものではない””これはわたしではない””これはわたしのアートマンではない”と、如実に、正しい智慧をもって理解しなくてはならない」
大事なことは、ここでは、「アートマンではない」と言っているのであって、「アートマンがない」と言っているわけではないですよね。
無我について正確に言えば、釈尊は無我(我がない)ではなく非我(我ではない)」と主張しているのです。
さらに、仏典には下記の決定的な記述があります。
アートマンが存在する、と断定すると常見に陥る
アートマンが存在しない、と断定すると断見に陥る
(サンユッタ・ニカーヤ(相応部)44・10)
それから、無我と同様に、大乗仏教で展開された”空”の思想を持って、輪廻転生を否定する人もいます。
”空”というのは、伝統的な解釈では、「存在というものは、自性(自ずからなる性質)なるものはなく、そのもの自体では成立できない」ということです。
これは先に述べた「非我説」(無我ではなく、非我です)の大乗仏教的展開と考えてよろしいでしょうから、やはり先に述べた理由により、輪廻の否定の根拠にはなりえません。
輪廻の主体のことを唯識派では、「阿頼耶識(あらやしき)」と説明しています。阿頼耶識とはかんたんに言えば、心理学で言う”潜在意識”の奥の奥…ととりあえず考えても良いでしょう。
実際は、輪廻転生と業(カルマ)の整合性をつけるために、阿頼耶識が考案されたと言っても過言ではないくらいなのですが、かほどに無我説と輪廻の折り合いに仏教史は苦労してきたわけですね。
唯識派、阿頼耶識については重要な論点がありますので、また別記事で考察してみたいと思います。
2. 仏典には、霊魂の存在を明言している箇所がいくつも見いだせる
たとえば、サンユッタ・ニカーヤ第一集の第四篇以降に霊魂の話が載っています。ここのところは、『悪魔との対話』(中村元著)という文庫本で読むことができます。
超かいつまんでご説明しますと、
ある時、ゴーディカという仏陀の弟子が亡くなられた。遺体を仏陀と弟子たちが見舞いに行くと、遺体の上に「モヤモヤしたものが見えるだろう」と仏陀がおっしゃるのです。
この「モヤモヤ」したものが”悪魔”なのですね。悪魔はゴーディカの”ヴィンニャーナ”を捉えようとして、うろうろしている、というのです。
”ヴィンニャーナ”については、注では「一種の魂、霊魂のようなもの」とハッキリ解説されています。
ゆえにここでは、
- 悪魔の存在
- 霊魂の存在
と二つ説かれているわけです。
仏説(五支縁起、三明、施論戒論生天論)からの反駁
上記以外にも仏典および仏教学からいくらでも反駁できます。ここでは4つ見ていきましょう。
殺人鬼アングリマーラの逸話
これは仏典の中でもけっこう有名な話です。
殺人鬼アングリマーラが仏陀に帰依し、修行を重ねていくのですが、なにせ元・殺人鬼ですから、町にお布施を受けに行っても、石をぶつけられたりしてしまします。
その時、仏陀はアングリマーラに次のように説きました。
比丘よ、忍び受けるが良い。なんじは、なんじの行為の果報によって、幾とせも幾とせも、他生において受けねばならぬ業果を、いま現在において受けているのである。(南伝 中部経典『アングリマーラ経』)*下線は高田
読めばお分かりのように、「他生において」とハッキリ書かれています。
この『アングリマーラ経』に限らず、南伝の仏典のなかからも、輪廻の存在を示唆している箇所がいくらでもあります。
五支縁起
十二支縁起(十二縁起)には、過去世→現世→未来世という順が見て取れますので、輪廻がないと十二縁起は成り立たなくなってしまいます。
*参考記事:十二縁起(十二因縁/十二支縁起)の分かりやすい覚え方と現代的意義
が、「十二縁起は後世にできた理論」との説もありますので、十二縁起の原初的な形態と言われる五支縁起、もしくは三支縁起でチェックしてみましょう。
- 五支縁起:愛→取→有→生→老死
- 三支縁起:愛→有→生老死
それぞれの語句は、愛=愛着、取=執着、有=心のクセ、くらいの意味です。
五支縁起、三支縁起、どちらで見ても、「生、老死」の前に、「愛、取(もしくは有)」がありますよね。
仏教において、”生”は「生まれる」という意味です。
*たまに、「生きる」と解説している本がありますが、これは誤りです。ですので、有名な四苦の「生老病死」の”生”も「生まれる苦しみ」です。
…ということは、「生まれる前に」”愛”や”取”や”有”という「生命活動」があったということになりますよね。
これは明らかに、”過去世”のことでしょう。
過去世があってから、生=生まれる、わけですので、これは現世ですね。
過去世→現世
の流れが明確にあるのです。これは輪廻の思想がないと成り立ちません。
三明(さんみょう)
釈尊は、菩提樹下の悟りで、「三明を得た」と言われております。
三明とは、「過去世、未来世、現世を見通す力」のことです。
仏教用語ではそれぞれ、
- 宿命明(しゅくみょうみょう):過去および過去世を見通す力
- 天眼明(てんげんみょう):未来および未来世を見通す力
- 漏尽明(ろじんみょう):現在の煩悩を滅尽する力
となっています。六神通のなかの3つでもあります。
この三明の思想も、輪廻転生を前提としなければ成り立たないでしょう。
われは種々の過去の生涯を想いおこした。……われは清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち、卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、としてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。(阿含経)
施論戒論生天論(せろんかいろんしょうてんろん)
施論戒論生天論(三論)は仏陀の基本説法です。ここを入り口にして次第に高度な説法へ移行していくのですね。これを次第説法(しだいせっぽう)と言います。
- 施論:施し(利他行)をして
- 戒論:戒めを守れば、
- 生天論:天界へ生まれることができる
という説法です。
生天論、「天界へ生まれる」ですよね。
明らかに、輪廻転生、六道輪廻(ろくどうりんね)の思想を下敷きにした説法です。
「無記」は無霊魂説の根拠にはならない
ところで、仏教における輪廻転生ひいては霊魂を否定する人がよく取り上げるのが「無記(むき)」です。
無記とは「何も記さず」と書きますが、この場合は、「(仏陀が)回答をしなかった」という意味です。
『箭喩経(せんゆきょう)』というお経の中に「毒矢のたとえ」というのが出てきます。
あるとき、マールンキャプッタという青年が仏陀に、死後の生命をはじめ様々な形而上学的な質問をしました。
それに対して仏陀は、次のように答えます。
ある人が矢で射られて、毒矢が刺さったので、みんな驚いて抜こうとしたが、その人は、
「ちょっとまった。この毒矢はどこから飛んできたのだろうか?
矢を射たのは男か女か。この毒の成分は何だろうか。興味がある。
それが分かってから抜こう」と、毒矢を抜かずに調べているうちに、死んでしまった。
(『箭喩経』)
人間には様々な人生上の差し迫った問題や苦しみがあります。いわば、毒矢が刺さっている状態です。
私たちがまずしなければならないことは、まず毒矢を抜くこと、すなわち、苦しみの原因を探求しそれを取り除くことである。
「如来の死後はどうなるか?」などという形而上学的な議論にふけっているうちに、毒がまわって死んでしまうのだ…。
仏陀はマールンキャプッタにこのような説法をしたのでした。
ただこれは、マールンキャプッタという青年の性質を考慮に入れて、「対機説法を行った」と解釈すべきでしょう。
実際は、「仏教は哲学である」と言われるくらい(これには一部異論がありますが)、釈尊は高度に形而上学的な理論も構築できるタイプでした。
また、すでに上述したように、「死後の生命」については、さまざまな仏典の中で明確に説かれております。
なので、「無記」「毒矢のたとえ」をもって、無霊魂説の根拠にするのはあまりに極論と言うべきでしょう。
解脱と輪廻転生
そもそも、仏道修行の目的は「解脱をして涅槃の境地を得る」というところにあります。
伝統的な仏教理解では、解脱(げだつ)を「輪廻のサイクルから外れること」としています。
これは「輪廻が苦しみである」という前提で成り立っている考え方です。
業(カルマ)に突き動かされて、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という”欲界”への再生を繰り返すことは苦である、という認識です。
この解脱論は仏教および仏教学のオーソドックスな解釈です。
ここでも、輪廻転生がベースになっていることが分かります。輪廻がなければ、そもそも解脱する必要もなく、仏道修行そのものの根拠が崩れます。
じつは、当サイト(ネオ仏法)ではこの解脱論を採用しておりませんが、とりあえず百歩譲ってオーソドックスな仏教解釈に従っても、輪廻が前提になっていることが証明されます。
ちなみに、ネオ仏法では、解脱を「迷いの輪廻から外れて、主体的な輪廻へ移行すること」と捉えています。詳しくは下記の記事をご参照ください。
*参考記事:解脱するとどうなる? -「輪廻から抜け出す」は誤りである理由
いろいろ検証してきましたが、結局、仏典・仏説のどの角度から考察しても、「仏教は輪廻転生を否定していない」としか結論は出せないのです。
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