”空(くう)”をどれだけ理解できるか?が悟りの段階
結局のところ、人間としての悟りの最高段階は、「空」(くう)を理解することだと思っています。
まず、理論で理解し、それをさらに瞑想によって、腑に落とし込むこと。悟性的認識に変換すること。
しかし、その、理論で説明する段階で、ハタと手が止まってしまうのです。
「空」はひとつの見方だけから説明できるものでもなく、否定に否定を繰り返してやっとその姿が見えてくるようなもの。
そういうわけで、あの手この手で記事を書き続けています。
スピリチュアルな話題も政治・外交・軍事も、すべて「空」なるものです。
今日は、話が飛びとびになるのを承知でタッタカと書いてみます。
変化こそが実在
大学時代、自宅で夜、トイレに起きた時なのですけど、突如、
「変化に意味があるのだ。変化こそが実在である」
という言葉が降ってきました。
まだ仏教哲学をまったく学んでいませんでしたし、西洋哲学も、デカルトをちょっとかじった程度。
受験勉強はそこそこ頑張ったけど、いわゆる知的生活とは程遠い時期でした。
そんな私に、なぜこのような言葉が臨んだのか。
しかも、トイレに起きた時って、考えごとをしていたわけではなく、本当に、ただ単にトイレに起きただけなんですね(笑)。
ただ、降ってきた言葉、
「変化に意味があるのだ。変化こそが実在である」
この言葉をてがかりにして、のちに思考を固めていく作業が始まったように思います。
数年後、ヘーゲルの弁証法を学び、主著『精神現象学』の一節、
「真なるものは全体である。しかし全体とは
これ、Facebookの「好きな言葉」に書いておいていますが、まあなんて色気のない言葉か(笑)。
でも、
このたった一行に哲学者としての最高の悟りがあり、仏教的にいう「空」(くう)の悟りと一致することに気づくことになります。
これが私にとっての悟りです。
それがどの程度の悟りであったか、というのは別途、議論があると思いますが、サイトのプロフィールに書いてあることはそういうことですね。
それとほぼ同時期に、非常に霊的な体質になっていきました。
が、本当は私は、霊が苦手なんですよ(笑)。
「霊能力全開にだけは絶対しないでください、好きじゃないんで、ほんと勘弁してください」
と、なんど守護霊に頼んだことか(笑)。
でもなんていうんですかね、
先日、某所でクルマの車検を頼んだら、ティッシュが5箱付いてきたんですけど、
それと同じように(?)、一定の悟性的認識に達すると、最低限度の霊能力は
避けられないというか、「もれなく」ついてくるみたいです。
ただこれは多分、体質によって程度の差があると思われます。
私から見て、「なんてすごい認識力だろう!!」と尊敬する方であっても、
そういう霊的な自覚はまったくないかたもいらっしゃいますからね。
そういうわけで、霊能力の有無と大小は霊格(人格)と、ほぼ無関係です。
愛知者であること
”哲学”っていう言葉(翻訳語)があまり好きじゃないんですね。
原語はギリシャ語だと思いますが、英語の翻訳がストレートに意味を伝えてまして、
philosophy(フィロソフィー)
といいます。
この言葉を分解すると、
- philo…愛する
- sophy…知
ということになります。
「知を愛する」ということですね。
お。愛知県とはココから来ているのか(?)。
”哲学者”は、
philosopher(フィロソファー)=知を愛するひと=”愛知者
ということで、直訳してくれた方がよほど良かったのですが…。
クリスチャンになりたくて
そういえば思い出したのですが。
私はなぜだか、高校時代から、「大学を卒業したらクリスチャンとして洗礼を受けなければいけない」と思い込んでいたんですよ。
中高一貫でカトリック系の学校だったのですが、とくに信心深いわけでもなかったのに。
でも、なぜだか、学校内のミサに参加したり、近所のカトリック教会に通ったりはしていました。
うーん……謎だ(笑)。
それがですね、
大学の中ばごろか終わり頃だったか、Kという友人と一緒に、クリスチャンたち(カトリックではなくてプロテスタントだったと思います)と論争してしまったんですね。
たぶん、「無料で音楽の演奏があるから」って何かで誘われて、Kとふたりで入室したら、音楽終了後、ふたをあけてみたら、キリスト教の勧誘だったんです(笑)。
Kも議論好きでしたが、私も若かったので、納得のいかないところは容赦なく、反論していたと記憶しています。
その議論で、洗礼はやめておこうと(その当時は、カトリックとプロテスタントの違いがよく分かっていなかった)、
つまり、私を納得させてくれる宗派ではないな、と思ったんです。
「信じる」と言っても、最低限度の理性的な”納得”は必要だと思っています。
それが今、ブログを書き続けている原動力にもなっています。
輪廻転生は真理に必須
でもね、イエス・キリストは本当に救世主だと思っているんですよ。
あの当時も今も。
ただ、教会とか教義の多くは、人間の都合でだいぶ解釈がゆがめられていたり、削除されているんだな、
って今になって思います。
リズ・ブルボー(カナダの心理療法家)のなにかの本で、「転生輪廻を受け入れるようになって初めてキリストを信じられるようになった」と書かれていたかと記憶していますが。
私もまったく同感で。
輪廻転生の削除(イエスは絶対に説いていたはずなんです)は教義的には致命的だと思います。
輪廻転生を入れないと、本当の意味で、ヒトの平等性は担保できないし、また、国家間・民族間の対立も終わらないのですね。
そのことは、以前、別の記事で書きました。
神は光なり
「空」を私なりに理解してのち、山手のカトリック教会でひとり静かに祈る機会があったのですが、それは本当に厳粛な体験でした。
圧倒的な光が降り注いでくる感覚。
イエス・キリストの教えが、主なる神から出ていることは、私にとって疑いようのないことです。
でも。
それと、同じように、伊勢神宮で感じた、圧倒的な光の奔流。
それから、先日書いた、
善通寺(弘法大師空海の生誕地)での同様な感覚。
…ただ、なんていうのか、
光に個性の違いというか、そういうのはある気がします。
個性差はあるけど、山手カトリック教会も伊勢純宮も善通寺も、有無をいわせない光が降り注いでくるのは同じ。
理論以前に、こういう”体験面”から、〇〇教だけが正しい、というのは納得しがたくて、
後付けの理論として、神仏習合とか、あるいはその基礎になっている
曼荼羅ですね、
午前中に仏壇の設置でアップした真言宗の思想、
すなわち、法身(宇宙の理法・存在そのもの)とての大日如来が
方便として、さまざまな如来・菩薩・神々として化身してくる、
という考えが馴染むんです。
「大日如来」は華厳経では、盧遮那仏とか大毘盧遮那仏(マハーヴァイローチャナ)といいますが、これは固有名詞というよりも普遍名。
老子が「名付けようがない、あえて言えば、道(タオ)」といったようなものです。
珍しくエッセイ調の記事になってしまいました(笑)。
コメント
コメント一覧 (2件)
ありがとうございます。
いま書いている記事は、ある意味すべて、
「真理はみずから自己展開しながら(現象化して”変化”する)真理としての自己実現をしていく」
という考えをさまざまな衣装で語っているだけですので、
結局、大本の元はこの、
「変化に意味があるのだ。変化こそが実在である」
の言葉にあることが分かります。
この2文がネオ仏法のすべて、とも言えるでしょうね、
ネオ仏法にしては珍しく,エッセイ調の記事ですね。でも,面白かったです!「変化に意味があるのだ。変化こそが実在である」この天からの声から,ネオ仏法が始まったのですね。たったの2文ですが,物凄いパワー(言霊)を感じました。