解脱したらどうなる? -「輪廻から抜け出す」は誤りである理由

輪廻 解脱

今回は仏教および仏教学の中でも、最大級に理解ミスがあると思われる「輪廻転生と解脱」というテーマで語ってみたいと思います。

この「現脱したらどうなるか」問題は単なる「そういう解釈もありますか」というレベルの話ではなく、仏教を宗教として成立せしめているところの生命線だと思っています。

仏教は宗教

*「仏教は宗教ではなく哲学だ」という人もおりますが、やはり一般論・世界標準では、仏教は「世界3大宗教」のひとつであることは間違いはありません。もちろん仏教には哲学的な側面はありますが、それは仏教の懐の深さのひとつとして解釈すべきでしょう。

目次

解脱は仏教の目的そのもの

まず、解脱とはそのそも何であるか、という定義を確認しておきたいと思います。

解脱と似た言葉に、悟り、涅槃、悟道、脱俗といったものがありますが、とりあえずはほぼ同義と考えてよいでしょう。

結論から申し上げれば、解脱は「悟りを得る」という仏道修行の目的そのものであり、究極の覚醒体験と言っても過言ではありません。

仏教に限らず、ジャイナ教、ヒンドゥー教などインド発祥の宗教では解脱することによって。苦しみや迷いと無縁の存在になるとされています。

上座仏教(小乗仏教)では、解脱によって「阿羅漢」になるとされています。この文脈で言う阿羅漢は「悟った人」ということです。

三法印からみた解脱

仏教の三法印、これは「仏教であるという教えの印」ということですが、この三法印はつぎの3つで構成されています。

  • 諸行無常(しょぎょうむじょう):一切の物事は変転変化していくということ
  • 諸法無我(しょほうむが):一切の存在はそれ自体では存在できないということ
  • 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう):無常と無我の理を知り、執着を断った安らかな境地、悟り

三法印の構造としては、1番目の諸行無常と2番目の諸法無我で世界と自己の真相を知り、そのことによって、3番目の涅槃寂静に至る、ということで、ウエイト(目的論)は涅槃寂静に置かれています。

この3番めの涅槃寂静、”涅槃”と縮めて表現することもありますが、この涅槃と解脱は密接に関連しており、ほとんど同じ意味に使われていると言っても過言ではありません。

それなので、「解脱は仏道修行の目的と言っても過言ではない」ということが言えるわけなのです。

ちなみに、涅槃と解脱は、では全く同じ意味かと言いますと、ちょっと使い方に違いはあります。

解脱の方は、「すべての束縛・煩悩を断ち、そして涅槃に至る」という動的な”過程”のほうに意味的なウエイトがあります。

一方、涅槃の方は、「解脱した結果、得られる安らぎ、至福の境地」という”状態”にウエイトがおかれております。そういった違いがあることは知っておいても良いでしょう。

涅槃

涅槃(ニルヴァーナ)については、下記の記事でも詳述しています。今回のテーマとも重なりますので、参考になさってください。

*参考記事:涅槃(ニルヴァーナ)とは何か? – 仏国土論としての涅槃まで見抜いていく

しかし、結局、「苦しみ(四苦八苦)から解脱して涅槃へ至る」が仏道修行の目的論に当たるのであれば、それはすなわち、仏教の究極の目的も現代的に言えば「幸福論」にあることになります。

仏教というと、ペシミスティックなイメージを持たれる方もいらっしゃいますが、無常・無我あるいは一切皆苦(一切行苦)などの現世否定は、より上位の肯定に至るための手段なのですね。

このことは押さえておきましょう。

三学からみた解脱

「仏教は要するにどういう修行をするのですか?」と聞かれたら、迷わず、「三学です」と答えておけば間違いないです。

三学とは、戒・定・慧(かい・じょう・え)の3つです。

それぞれ、

  • 戒:戒めを守り
  • 定:禅定(瞑想、座禅)に入り
  • 慧:智慧を得る

という順序になっています。

”戒”については、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)が有名ですが、これらは「〜をしてはならない」という戒めです。これを、止持戒(しじかい)と言います。

これ以外に、むしろ積極的に「〜をしていこう!」という自主的な戒があります。これを、作持戒(さじかい)と言います。

要は、ある程度、現世的にストイックな生き方をしていないと、本格的な禅定に入ることができないのです。

というか、むしろ、現世的欲望にまみれた状態で禅定に入るとかなり危険です。悪霊の憑依などの格好の的になってしまいます。

*参考記事:憑依の本当の意味とは? – 特徴、見分け方、対策まとめ記事

戒を守り、禅定をなしていくと、深い智慧を得ることができます。

禅定

この智慧は”知恵”ではなく”智慧”という難しい方の字を使いますが、つまりは、現世的な知恵ではなく、人生や世界、自己の真相について見通していくような奥深い智慧、ということになります。

この”三学”の拡大版とでも言うべきものに、”五分法身(ごぶんほっしん)”という分類法があります。

”法身”とは「法の身」ということですが、これは、仏陀の本質部分を指す言葉です。

そういうわけで、五分法身というと、真なる仏陀を構成する5つの要素ということですね。

さきの、”三学”に加えて、”解脱”と”解脱知見(げだつちけん)”が加わります。

これは結局、戒→定→慧の順序で智慧を得て、その次にどうなるか?ということで、これは、”解脱”が来るということです。そしてさらに、「自らが解脱したことを知る」ということ、これはいわば「如来としての自覚」ということになるでしょう。

このように、三学と五分法身という修行の順序から考慮しても、”解脱”こそが仏道修行の目的であることが分かります。

「解脱とは輪廻から外れること」は大きな誤解

現代の仏教者・仏教学者の多くは「解脱によって、輪廻転生から抜け出す」と考えています。

たしかに、お経を読むとそのように受け取られてもしょうがない箇所はたくさんあるのですけどね。

「もはや迷いの生は尽きた、二度と生まれ変わることはない」といった一種の決り文句がお経の末尾によく書かれてあります。

なので、ストレートに解釈すれば、これはつまり悟り(今回の用語で言えば、”解脱”)のちからによって、六道輪廻を延々と繰り返す生から外れることができるのだ、という解釈が出てもしょうがないところはあります。

ただ、ポイントは「迷いの生は尽きた」という表現です。

これは要するに、カルマ(業)に突き動かされるように、欲界を強制的にぐるぐると輪廻している状態を「迷いの生」と呼んでいるのです。

欲界輪廻

「輪廻」「生まれ変わり」と翻訳されているサンサーラ(サンスクリット語、パーリ語)の原義は、「さまようこと、歩き回ること」を意味しており、必ずしも「輪廻」「生まれ変わり」に限定されないのです(中村元説)。

なので、仏典に、「もはや二度と生まれ変わることはない」とされているところは、「もはや二度と迷いの生を繰り返すことはない」あたりに訳すのが正解だと思います。

こうしたいわば「欲界輪廻」が苦しみであるという考え方は、仏教以前のバラモン教の時代からありました。

そしてその欲界輪廻、迷いの輪廻からいかに脱却するか?で、仏教以外でも六師外道をはじめ当時の新々宗教家・思想家によって修行方法が考えられてきたのです。

ところで、逆に言えば、強制的な欲界輪廻ではない転生の在り方は肯定されうるのではないか?というふうに考える余地があります。

つまり、解脱をすることによって、人生や自己、世界について悟りを得て、その上で「あえて主体的に輪廻する」という方向があるということです。

そうであってこそ、菩薩は衆生救済を為しうるのではないでしょうか?

これについては、大乗仏教では、”無住処涅槃(むじゅうしょねはん)”という考え方が打ち出されています。

これは文字通り、「涅槃に住むことがない」「涅槃に安住しない」涅槃の境地を指します。

無住処涅槃は、伝統的には、「涅槃を得る資格があるのに、あえて涅槃を拒んで菩薩行をなす」というふうに解釈されるむきがありますが、私は、「涅槃を拒む必要はない」と考えます。

要するに、ここにも「涅槃に入ってしまったら地上に生まれられないではないか、そうすると衆生救済ができないではないか」という考えがあるわけですね。

しかし、ネオ仏法では、解脱→涅槃を果たしても、”主体的な”輪廻を選択することができる、という解釈の立場をとります。

この点については、下記の記事でも詳述しておりますので、参考になさってください。

*参考記事:仏教は輪廻転生を否定していない – 解脱論のベースとしての輪廻

いずれにしても、仏や菩薩が慈悲の存在であるならば、迷える衆生を放っておくはずがありません。

菩薩

菩薩はやはり、解脱し涅槃を得ながらも、衆生救済のために地上にときおり生まれてくるのです。そうであってこその、慈悲業です。

慧解脱と心解脱、そして倶解脱へ – 解脱のさまざまな段階

ところで、”解脱”というと、「もう仏道修行の目的は達しきった」と思われがちです。

それは、”涅槃”とか”悟り”という言葉にも付随するイメージです。

仏教用語では”不退転(ふたいてん)”と言いますが、解脱をなし悟りを得れば、それでもはや仏道修行は為す必要が必要がない、という理解です。

ここには、

  • 解脱しているか – 解脱していないか
  • 悟っているか – 悟っていないか

といった、2通りのどちらかであるというデジタル的な思考があります。

ところが、悟りとか解脱というのは、そんなにデジタルなものではないのです。いくつかのプロセスがあり、アナログ的な悟り(解脱)が連綿と続いていくものなのです。

あるいは、プロセスそのものであると言ってもいいでしょう。

修行するというそのプロセスそのものが悟りを明らかにしていく。道元の言葉に即して言えば、「修証一等(しゅしょういっとう)」「修証一如(しゅしょういちにょ)」ということなのです。

禅

解脱にはいくつか種類があるとされていますが、結論から申し上げると、下記の式となります。

倶解脱(くげだつ)=慧解脱(えげだつ)+心解脱(しんげだつ)

倶解脱の”倶”は「共に」という意味ですから、この式からお分かりのように、文字通り、慧解脱と心解脱を兼ね備えた解脱ということですね。これが最高・最上の解脱とされています。

それでは、慧解脱と心解脱とはどういう意味なのか?

ここのところをまた仏教用語で説明すると、非常に複雑になってしまいますが、もっと日常的に考えてみると、じつは理解しやすいのです。

私たちが俗に言う「腑に落ちた」という場合、

  • 理屈でわかった
  • 体感でわかった

の2つを兼ね備えていると言ってもいいですよね。

理屈だけでは、まだ「身についてない」状態ですし、体感だけでは再現性に心許ない。

あるいは、理性と感情と言い換えてもいいです。

このように、

  • 慧解脱:知性的・理性的・教学的な面から「分かった」という解脱
  • 心解脱:感情的・体感的な面から「分かった」という解脱

と、ざっくりとこういう説明の仕方だと分かりやすいかと思います。

最高の解脱、倶解脱のためには慧解脱と心解脱の両者が必要、というのもこれで何となくお分かりになるのではないでしょうか?

さらに、心解脱について深堀りしてみますと、こうした感情面で「分かった」と思うタイプの方は、やはり、感情的なものが入口になっていることでしょう。

仏陀と仏陀の教えを前にして、感情的に受け入れること、これは広く宗教的に言えば、「信仰心」と言っても良いです。

そしてその信仰心によって悟りの入り口を突破することを、”信解脱(しんげだつ)”と呼んでいるのです。

この信解脱を入口にして、禅定などを繰り返して次第に真理を腑に落としていくと、心解脱の段階に至るというわけです。

人間、誰しもが理性的(理屈っぽいとも言う)なタイプばかりではないですから、入り口としては、信解脱→心解脱のルートは比較的、広き門であるとも言えるでしょう。

逆に、男性に多いかもしれませんが、「とにかく信じる」ではなくて、やはり「理性的に納得したい」というタイプの方もいらっしゃいます。

そういう方には、慧解脱の法門から入ったほうが進度が早いでしょう。

ただ、どちらから入るにせよ、究極の解脱、倶解脱のためには、慧解脱と心解脱の両者が必要とされていますので、ふたつの解脱の法門はどちらもくぐっていかなければいけないということになりますね。

そして、心解脱の前提には信解脱、信仰による解脱があるとされていますので、ここのところで、仏教は宗教であることが担保されているわけです。

ときおり、「仏教は宗教ではない、哲学だ」などと言う人がいるのですが、この解脱論をチェックしてみると、「そんなことはありませんよ」と切り返すことができます。

なぜ輪廻転生をするのか?その目的論を解明してみます

輪廻は本当に苦しみなのか?を白紙に戻して考えてみる

ところで、「解脱すると輪廻の枠から抜け出すことができる」という発想の根本には、「輪廻は苦しみである」という価値観がありますよね。

仏教などを勉強していると、「教学的にはそういうものなのだ」と、なんとなくこの点をスルーしてしまいがちなのですが、”そもそも論”として、「本当に輪廻は苦しみなのか?」について考えてみましょう

輪廻が苦しみである、という価値観は、じつは仏教オリジナルではなく、仏教誕生以前のバラモン教(現在のヒンズー教)からあったものです。

バラモン教

より詳しく申し上げると、バラモン教のなかのウパニシャッド哲学で確立されてきた思想です。

*参考書籍:『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 』(竹倉 史人著)

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語

なぜ、そういう哲学が出てきたのか?ということを考えてみると、理由はわりと単純で、当時のインドは「生きることの苦しみ」が現代社会よりもずっと大きかったからです。

現代では、「この世に生きることはむしろ喜びである」と感じている人も多いでしょう。

それゆえに、現世に対する執着が生まれ、「肉体の快楽(食・性・眠)があるから、霊界よりも物質世界のほうが好きだ」ということで、死後、いわゆる”成仏”せずに、この世に舞い戻って、生きている人間に憑依するような人間が増えているわけです。

これは繰り返しますが、単純に、「この世では楽しいこと」が大昔よりずっと増えているからです。

なので、この点から考えてみても、「輪廻は苦しみである」とは一概に言えないことが分かるでしょう。

さらに輪廻については、もっと霊的で高度な観方があります。

それは、まさしく、「人生の意味とミッション」に関わってくるものです。それについて、次に解き明かしてみましょう。

なぜ、輪廻転生するのか?その目的は?

仏教を勉強している方からすると、「そもそも輪廻の目的を問うこと自体がナンセンスでは?」と思われるかもしれません。

仏陀・釈尊の(現代にまで残っている)経典ベースでは、<世界>については目的論的な立場をとらず、あくまで、「世界はこうである」という状態論ですね、そこに留まっていると言われています。それは、無常・苦・無我(三相)の思想においても明らかと思われることでしょう。

ただネオ仏法は、<仏法>という名称を冠して入るものの、それは狭い意味での「仏教」にとどまるものではなく、世界の諸宗教・思想・哲学などすべてを射程距離に収めているつもりです。

そして、セム的一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)が「最後の審判」という、目的論的史観を備えているように、ネオ仏法も同様に広い意味での仏法として、目的論的史観を認めるものです。*「最後の審判」とは趣を異にしていますが

世界は(宇宙は)大いなる有機体かつ意思をもつ存在であり、その存在は人間の理性的認識を遥かに超えるものであるものの、時代や地域性に応じて、<人間に分かるように>さまざまな特徴ある神的存在として顕現してくる。

およそ2500年前にインドに下生した釈迦牟尼仏もそうした絶対的存在が、その当時のTPOに応じて顕現した存在である。そうした理解をします。

ちょっと前置きがながくなりましたが、<真理>を文字通り真に理解するために、この点はとても大事であると思っています。

よろしければ、下記の参考記事などご参照ください。

*参考記事:[仏教とキリスト教の違い]を乗り越えて共通点を抽出するネオ仏法

さて、以上を前提とした上で、輪廻転生の目的について考えてみましょう。

結論から申し上げると、それは「霊性進化のため」ということになります。これが輪廻転生の目的なのです。

どこに向かって進化していくのか?それは、仏教的にいえば、仏陀に向かう旅であり、キリスト教やイスラームの文脈で言えば、唯一神へ向かう旅です。

霊性進化

セム的一神教においては、神と人とは絶対的に断絶しているのではないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、一概にそうとも言えません。それはそれでひとつの解釈に過ぎません。

東方正教会には”神成(しんせい)”という思想もあります。

神の性質にあずかる者となる(「ペトロの手紙二」1章4節)

という聖書の言葉が根拠となっています。

この”神成”については、アタナシオスによる「神が人となったのは、人が神になるためであった」という言葉にも集約されるでしょう。

人は信仰により神の性質に預かり、神近き存在になっていくことができるのです。

話のパースペクティブを少し変えて、「私たち人間の本質」に迫ってみましょう。

じつは私たち人間の本質は肉体ではなく、「ある心的傾向性をもったエネルギー存在である」と言えるのです。

肉体の死を迎えても、生命は存続します。アイデンティティのあるエネルギー存在として存続していくのです。

仏教学者のなかには、「仏陀は霊魂の存在を認めなかった」「釈尊は形而上学的な質問に対して無記(=答えなかった)を貫いた」などという人もいますが、これは近年、反駁されつつあります。

当サイトでもこの点を反駁しております。詳しくは、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

仏典のなかでも古層に属するされる『スッタニパータ』『ダンマパダ(法句経)』などにも、来世および魂の存在をハッキリと述べている箇所はいくらでもあります。

さて、エネルギー存在の特徴として、「エネルギーは一定の波動を持つ」という性質を備えています。これをネオ仏法では、”波動理論”と呼んでいます。

その波動というのは、かんたんに言えば、心の状態がどのようなものであるか?神に親和性のあるものであるか?そうでないのか?どういった趣味・趣向を持っているのか…こうしたものが波動として集約されているのです。

波動

そして、いわゆる「あの世」は、似通った波動をもつ霊存在同士が惹かれ合い、集まって一定の”世界”を形成しているのです。

その世界が神の意思・価値観と相容れないものであれば、そこは”地獄”と呼ばれる世界になります。逆も真なりで、神の御心に即した世界であれば、そこは”天国”と呼ばれる世界になります。

さらに、天国・地獄でも、「波動がいかに精妙なものであるか?」「どうした趣味・趣向を持っているか?」で、さまざまな段階と種類に分かれているのですね。

さて、霊界がそうした世界であるということ、「似通った魂が相集う世界である」ということは、気分的な楽なものでしょう。似た者同士が集まっているわけですからね。

でもそうした状態は楽ではありますが、一定の期間を過ぎていくと、だんだん飽きてきて新たな刺激を欲するようになるのです。

それはこの世でもそうですよね。楽な人とばかり一緒にいても、何となく、新しい世界を覗いてみたくなる時が来ます。

そうしたときが、いわゆる、地上に輪廻して再び肉体を持つ契機になっていくのです。

肉体を持てば、魂レベルでは波動が違う人とも会うことができますからね。

そこで、霊界では得られないさまざまな新しい経験を積み、知見を磨いていくのです。そしてそれが、霊性進化につながっていくというわけです。

そういう意味で、輪廻は辛いばかりでななく、魂の進化という大きな喜びを伴う貴重な機会になっているのです。

輪廻に限らず、「人間存在とは何か?」「人生の意味とミッションは?」という根源的な問題について、下記の記事で詳述しておりますので、ぜひ参考になさってください。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

このように、私たちは「神(仏陀)に近づいていく」そして「それを大いなる喜びとしている」というふうに、輪廻転生に明確な目的論を附与することができるのです。

「解脱したらどうなるか?」を突き詰めると、ここまでの真理が開示されてきます。

この機会にぜひ、輪廻転生について、仏陀(神)へと向かう永遠の旅路について思いを馳せてみてください。

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