神経症・うつ病撃退大全 – その真理スピリチュアル的対処法①

そもそもこの世はストレスが多い世界

まずは前提として、「そもそも、この世に生きることはストレスフルなものなんだ」ということを認めるところから始めます。

ここのところを、「人生は喜びに満ちているはず!」という前提から入ると、「喜びに満ちていない自分」にしょっちゅう愛想をつかして、また後戻りになってしまいます。

むろん、「喜びに満ちて」そのまま人生を漕ぎ渡っていける人はそれでよろしいかと思いますけどね。

この点については、「ぷち鬱になるくらいは当たり前」という記事に書いていますので、参考になさってください。

かんたんに要約すると、

釈尊がおっしゃるように、誰もが人生の「四苦八苦」からは逃れられない、という前提です。

「嫌な人と会う苦しみ」をきっかけに社交不安障害になったり、「愛する人と分かれる苦しみ」でトラウマを作ったり、そもそそも、「生まれてきたこと」そのものに根源的な不安を感じることもあるでしょう。

そして、こうした心理的経験を積み重ねていくうちに、「生きている圧力」にすら耐えづらくなり、ずぶずぶと、鬱のなかに沈んでいくこともあります。

このような書き方をしているということは、私(高田)にも当然、経験があるということです。

ひとくちに神経症と言っても、今(2020年時点)では、いろいろな病名がありますが、私の若いころは「不安神経症」か「うつ病」というおおざっぱな分類で、たいていは括られていたかと記憶しています。
*神経症と精神病は違う、というご意見もあるかもしれませんが、それは人間が作った「医学上の区分」ですので…。個人的な経験上、治し方に共通性がありましたので、とりあえず、ひとまとめで話を進めます。

「パニック障害」とか「社交不安障害」とか、あるいは、神経症ではないかもしれませんが、ADHDとか、そういう名称も当時はありませんでした。

私よりもさらに前の世代になると、世間一般では「ノイローゼ」か「ヒステリー」で片付けられていたのかな、と思います。

いずれにしても「そもそも、この世に生きることはストレスフルなものなんだ」ということを認めれば、「ストレスフルな自分」を特別視・罪悪視することがなくなり、その分だけ気持ちが楽になってきます。

感情や気分は「天気」のようなもの

釈尊の「生老病死」というのは、時間的な経過を現しているもので、一言でいえば「諸行無常」ということですね。

キリスト教的な文脈では、教父アウグスティヌスが主著『告白』で以下のように述べています。

見よ、そこに在るものは過ぎ去り、別のものがその後に現れる。このようにして、それぞれの部分からなる全体によってこの地上の世界は存立している。(第4巻第11章)
*この翻訳は、『アウグスティヌス著作集5/1告白録(上)』(翻訳:宮谷宣史) による

告白録

この文章は、前半がいわば、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」にあたり、後半がいわば、「諸法無我(むが)」にあたるように思えます。

無常・無我を整理してみましょう。

  • 無常:一切のものは過ぎ去っていく。変転変化の中にある(時間論)
  • 無我:一切のものはそれ自体では存在できない。実体ではない(存在論)

おおざっぱに言えば、この無常と無我をミックスしたものが”空(くう)”であると、ネオ仏法では捉えています。

あらゆるものが変転・変化していくのに、固定的なものであると考えてしまうから、そこに苦しみが生まれます

不安な気分・鬱な気分が出てきたときもそうです。

よくよく考えてみれば、いくら不安だの鬱だの言っても、一日のなか、あるいは一週間のスパンで心を観察すると、気分が高揚していたり、平安なときもあるはずです。

それなのに、不安・鬱な状態イコール自分、というふうに固定的に考えるから、よけいに辛くなってきます。

また、たとえば、純真な幼子に話しかけられると、今までの気分が嘘のように転換していくことがあります。

これは、”気分”というものが固定的・実体的なものではないことを示しているでしょう。

このように、気分は天気のようで、あるときは曇りで鬱々とし、あるときは晴々しているときもあるわけです。

天気の場合は、「自分ではない」と思うからこそ、曇が続いても「午後は晴れるかな?」くらいの気持ちであまり深く気にしないでしょう?

しかし、自らの気分のときは、やはり、気になってしまいます。それは、文字通り、自分の感情の”渦中”にいるからです。

逆に言えば、自分の気分・感情とは言え、一歩離れたポジションで「これも天気のようなもので、やがて過ぎ去っていくな…」と客観視すれば、だいぶ気が楽になります

渦中に巻き込まれるのではなく、このように対象化してしまえば、それは”自分ごと”ではなくなりますので、この時点で不安・鬱からは離れている自分に気づくことがあります。

神経症の治療でむかしから有名な森田式療法では、「あるがまま」を重視しています。

私は受診はしたことはなく、森田式療法の解説書を読んだことがある程度ですが、一読して、「仏教とそっくりだ」と感じました。実際、森田式療法は仏教理論の影響を受けているようです。

「不安・鬱になったら困る」という意識でいると、兆候があらわれた瞬間に、「ほらきた」と思ってしまいます。

これを「予期不安」と言いますが、この「ほらきた」がさらに、不安・うつを呼び込んで、「あーあ、やっぱり今日も」となってしまいます。

しかし、不安や鬱がきても、天気を眺めるように、「ふーん、まあそういう時もあるかな。どっちでもいいや」と思うことです。

実際に、誰であっても、不安・鬱なときはあるのですが、いわゆる神経症・鬱病の場合は、不安・鬱の気分を特別視しすぎて、さらに自ら呼び込み、拡大しているというメカニズムです。

なので、特別視しないで「まあそういう時もあるかな、曇りですね」くらいの捉え方で行けば、これは「あるがまま」に受け流していくことができます。

以上、基本の心構えとして、

  1. そもそも人生は誰にとってもストレスフルなものであると認める
  2. 鬱・不安は天気のようなもので、特別視しない。気分もまた、無常・無我であり、実体ではない

ということですね。

「そう言われても、なかなかそう思えないよ」というところもあるでしょうが、そのために次回以降では、もう少し実践的な打ち手をご紹介していきます。

 

 

 

 

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