全能の神がましますのであれば、世界にはなぜ悪があるのか?悲惨なことがあるのか?
この問いは「神義論(しんぎろん)」と呼ばれていまして、古来より喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が戦わされているところでもあります。
また、「神など信じられない」と言うひとが、根拠としてこのように説明するパターンも多いですよね。
「全能」の定義そのものを吟味する
この問いをもう一度書いてみましょう。
全能の神がましますのであれば、世界はなぜ悪があるのか?悲惨なことがあるのか?
これを前半/後半に分けると、
- 全能の神がましますのであれば
- 世界はなぜ悪があるのか?悲惨なことがあるのか?
となります。
神義論についての主張をいろいろ読んでみると、上記の2のほうにウエイトを置いて論じられていることに気づきます。
「1.全能の神がましますのであれば」については、「〜であるならば」という前提条件として語られています。
私が思うに、ここの部分ですね、「全能の神」(全知全能と言ってもいいです)とはそもそも何であるか?あるいは、「全能」とは「全知」とは何であるか?…についての吟味が足りてないのではないか?
足りていないのに、当為(とうい)=当然であるかのように話が進められてしまっているように思えます。
なので、この「全能とはそもそも何か?」という前提をまずは吟味してみます。
宗教的な文脈で「全能」あるいは「全知全能」という場合、これは文字通り、今・すべてをなし得る(今・すべてを知っている)という、一種の静的状態、「これ以上はない」という状態をイメージしているでしょう。
しかし、この定義からいくと全能の神は、じつは「これ以上はない」という一種の「限界性」を帯びていることになりますね。
逆説的ではありますが、静的な「全能」のイメージにおいては、「限界を持つ存在」という「非全能性」を有することになるわけです。
したがって、本当の意味での「全能性」を担保するのであれば、この限界を打ち破っていかねばなりません。
全能とは動的な状態
結論から申し上げると、
1.全能の神は、いま現在も拡大をつづけている
ということになります。これで、「限界性」をまずは取り除きます。
…しかし、そうすると、「拡大しているということは、逆に言えば、今、不完全である」ということになってしまうのでは?という疑問が出てきますね。
これはですね、じつはまたもや、「不完全」という定義についての「思い込み」にやられているんです。さっきと同じです。
「完全であること」は一切の存在をその内部に包含しつつ、自らをも拡大している、その持続的な状態である、というふうに再定義してみましょう。
ここの議論が分かりづらい方は下記の記事(できればシリーズ全体)をご参照ください。
*参考記事:上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを乗り越えるネオ仏法
そういえば、「七つ」という数は、洋の東西を問わず、「完成」を象徴する数字ですが、
日本語の「七つ」は、「鳴りなりつづく」→「成りなりつづく」が語源という説もあるようです。
「なりなりつづく」がつづまって、「ななつ」になった。
この「なりなりつづく」は読んで字のごとく、「つづく」という持続性・継続性・動的な状態を明らかに現していますよね。
つまり、
七つ=完成=動的な状態
という図式です。
この説明でもかなりざっくりはしていますが、とりあえず今回の記事ではここを仮に前提条件として使っていきます。
全能とは部分を含むところの全体
上述した「なりなりつづく」というのは、時間的な経過のなかでの全能性ですよね。
つぎに、空間的な意味での全能性について考えてみます。
これはもう述べてしまっているのですが、「全能の神は全体である」と考えねばなりません。
もし私たちを超越した別物・他者が全能の神なのであれば、これは矛盾を含んでいることにお気づきでしょうか?
ここもイラスト化すると分かりやすいのですが、
神が私たちを離れて超越しているのであれば、これは「神以外の領域がある」という限定性を有することになり、またしても全能性が損なわれることになります。
したがって、
2.全能の神は、私たち(動植物、鉱物なども含めた一切)を包含するところの全体
と捉えなければ、全能性を担保することができなくなってしまいます。
このように考えて初めて、超越者と実在者(超越と実在)が矛盾なく総合できることになります。
さて、とりあえず、仮定が出揃いました。
- 全能の神は、いま現在も拡大をつづけている
- 全能の神は、私たち(動植物、鉱物なども含めた一切)を包含するところの全体
これをひとまとめにすると、
全能の神は私たち(有限者)を包含しつつ、いま現在も拡大をつづけている全体である
となります。
このように考えてこそ、
あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えている
(マタイ10:30)
という聖句が理性的にも腑に落ちてきます。
現象世界に起きていることは、私たちの髪の毛一本にいたるまで、「神ご自身の内部の出来事」であるからです。
また、宗教的に「神と一体である」というのも、もともと「神の一部である」と前提すれば納得できます。
神と離れているように感じる孤独感というのは、自分で勝手に自我の殻を作って閉じこもってしまい、「全体」を感覚できなくなっている状態です。
イメージ的に語ると、
「水をたたえた盥(たらい)」を神としましょう。
その盥のなかに透明なガラスコップを何個か逆さまに沈めてみます。
コップA、コップB…と個性があるように視えますが(それもその限りで真実なのですが)、コップをつまんで引き上げてみると、その水の部分も全体の水の一部だったということが分かりますね。全体に還元されてしまいます。
そうすると、他のコップBも同様です。同じ水の一部であることが分かります。
瞑想などで「神と一体になる」あるいは「自他一体である」という感覚はまさにこれなんです。
もともと一つであるものを、肉体に基づいた自我意識(コップのガラス部分)で隔てているので、自分は孤独である、と感覚してしまうのです。
なので、時折、できる限り「自我の殻」を破ることをイメージングして、「全体の一部である」「他者とも繋がっている」ことを意識してみましょう。
さて、
ここまで述べてきたように、まずは全能性のところを吟味→再定義してから、悪の問題に移るのが本筋だと思います。
今回は、「全能性」についての再定義を行いました。悪についてはまた別の記事で考察していきます。
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