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三法印と四法印はどのように関係してくるのか? – 一切皆苦と涅槃寂静をめぐる考察

三法印 一切皆苦

どの宗教でも、その宗教特有の特徴というものがあります。

仏教では、他の宗教(バラモン教や六師外道の教え)との違いを明確化するために、「これこそが仏教であるという印(シルシ)、旗印」として、三法印(さんぽういん)あるいは四法印(しほういん)というものが掲げられています。

ただ、教えの旗印であるのにも関わらず、3つ(三法印)と4つ(四法印)と二種類出揃っていますので、結局どっちが正解なのか、どちらも正解なのか、あるいは増減になにか意味があるのか、ちょっと気になるところではありますね。

そこで本稿では、

  • 三法印と四法印とは何か
  • 三法印と四法印はどのような関係になっているのか

一般的な仏教の解釈をまずは踏襲しつつ、ネオ仏法独自の解釈も示していきたいと思います。

三法印、四法印とは何か

要点だけ簡潔に知りたい方のために、先に基本的な定義を述べておきます。

三法印と四法印の定義

  • 三法印:諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
  • 四法印:諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、一切皆苦(いっさいかいく)
    *一切皆苦は、一切行苦(いっさいぎょうく)とされることもある

要は、三法印に”一切皆苦”を足すと四法印になるということですね。

三法印と四法印のそれぞれの内容は?

  • 諸行無常:一切の現象は過ぎ去っていくものである(常なるものではない)
  • 諸法無我:一切の存在は、それ自体では存在できない
  • 涅槃寂静:煩悩を吹き消すことで安らぎを得ることができる
  • 一切皆苦:一切の形成されたものは苦である(この意から”一切行苦”の漢訳が正しいとする説がある)

「諸行」と「諸法」をそれぞれ「一切の現象」「一切の存在」と訳していますが、ほぼ同じ意味と解して大丈夫です。

仏教的には、「一切法」「有為(うい)」などと言いますが、現代風に言えば、”現象”ということです。

”法”はパーリ語で”ダンマ、サンスクリット語で”ダルマ”と言いますが、原義は「保たれるもの」ということで、「存在」を意味します。

存在について語るとき「教え」になりますので、法(ダルマ)には「教え、教法」という意味も派生してきます。「仏法」というときの”法”は後者の意味ですね。

以上が、三法印と四法印の定義およびその内容です。

「これだけじゃ分からん!もっと深く、正確に理解してみたい」という方は、続きを読んでみてください。

三相(無常・苦・無我)から三法印へ

じつは、仏陀・釈尊の時代に”三法印”という言葉があったわけではありません。三法印としてまとめられたのは、のちの部派仏教の時代に入ってからとされています(中村元説)。

有為の三相の説法

ただ、三法印のもとになる思想は当然、釈尊は説いています。それが、無常・苦・無我の3つで、合わせて”三相(さんそう)”あるいは”有為の三相”と呼ばれています。

*”有為”は「一切の現象的存在」のこと

比丘たちよ、色(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(「雑阿含経」1-9)*下線は高田

下線で引いたところですね、「無常なるものは苦である。苦なるものは無我である」という流れが”三相”を示しています。

ここは一種の詩句ですので、解釈が必要です。

「無常なるものは苦である」というのは、「一切の現象が過ぎ去っていくにも関わらず、物質的なものに執着を作っている人間のあり方が”苦”である」という意味です。

「苦なるものは無我である」というのは、「そうした”苦”の状態にあるものとして、同様に”無我”であることを知らなければならない」ということです。

人は、金銭や肩書、名声、クルマ…様々なものに執着を作っていますが、それはそれらが「存在するもの」「実体あるもの」と思い込んでいるからです。”無い”ものには執着するはずがないですよね。

”無我”、「我がない」というのは、永遠不滅の変わらない実体というものはこの現象世界(一切法、有為ともいう)にはないのだ、という思想です。

すべては、様々な関係性の中でひととき”有る”ように見えているだけだということです。あらゆる存在は、それ自体では存在できない。これを「無自性(むじしょう)」「自性なるものがない」あるいは、相互依存的に在りますので、「相依性(そういせい)」とも言います。

少し分かりづらいかと思いますので、かんたんな例えで示してみましょう。

2本の縄(ロープでも紐でもいいです)を縦と横に十字形に結んでみてください。もちろん、イメージで良いです。

そうすると、結び目ができますよね。

この結び目はたしかに「有る」ように見えます。ところが、縄を解いたらとたんにこの結び目は消滅してしまいます。

そう、結び目は縦の縄と横の縄の”関係性”のなかで、たまたま出現して、ひととき「有る」ように見えただけなのです。

このように、それ自体では存在できない、自性なるもの(自ずからなる性質)がないものを”無我”というのです。

これも執着を断つための教えです。「本来的に”無い”ものに執着しているから、それが”苦”になるのだ」ということなのです。

”無常”と”無我”はちょっと似ているようですが、「ある時間的流れのなかで変化していくので実体(本当に存在する)ものではない)」というのが”無常”で、「空間的な関係性のなかで、ひととき有るように見えているだけで、実体ではないのだ」というのが”無我”です。

どちらも、仏法の根本である”縁起”が貫いています。「縁(よ)って起こる」ということですね。平たく言えば、「原因と結果の法則」ということになりますが、

縁起を時間的な系列で観察したもののが”無常”であり、空間的な系列で観察したものが”無我”です。

水野弘元博士は、無常・無我をそれぞれ、時間的縁起・論理(空間)的縁起と整理しております。

原始仏教

ネオ仏法では、これを、

  • 諸行無常:時間論的縁起
  • 諸法無我:存在論的縁起

と整理して理解しています。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

本来的に”無い”モノに執着して苦しみを作っているのが私たち凡夫の姿です。これが詩句として説かれているのですね。ぜひ、もう一度、この言葉を味わってみてください。

無常なるものは苦である。苦なるものは無我である

そして、

まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。

というふうに、正しく観察していくと、執着を離れることができる。この無執着の境地が”涅槃(ねはん)”なのです。

”涅槃”とは、パーリ語で”ニッパーナ”、サンスクリット語で”ニルヴァーナ”と言いますが、原義は「吹き消すこと」という意味です。

ここでは、「執着、煩悩の火を吹き消して平安な境地に至ること」という意です。

以上の通り、初期経典で説かれている順序としては、「無常→苦→無我→涅槃」という順になっています。

「三法印」や「四法印」というまとめはされておりませんが、この4つを順に並べて説かれている例は他にもいくつかあります。

たとえば、少し用語に異同はありますが、

一切諸行無常、一切所行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂 (「増一阿含経巻18」)

などがあります。

以上、「無常→苦→無我→涅槃」の流れに沿ってかんたんに解説させて頂きましたが、これら4つがのちに四法印と呼ばれることになるのですね。

  • 無常:諸行無常
  • 無我:諸法無我
  • 苦:一切行苦(一切皆苦)
  • 涅槃:涅槃寂静

となります。

龍樹(ナーガールジュナ)による三法印へ

「八宗の祖」とも呼ばれる大乗仏教の論者、龍樹菩薩の『大智度論』に三法印への言及があります。

仏は三法を説いて法印となす。
いわく一切有為法無常印、一切法無我印、涅槃寂滅印なり。(『大智度論』巻32)

龍樹

ここにおいて、龍樹によって、「仏教の旗印」としての三法印が整備されたのですね。

三法印と四法印の関係

三法印に”一切行苦”を加えると四法印になるのでした。

ところが、”涅槃寂静”と”一切行苦”では、

  • 涅槃寂静:(煩悩の火を吹き消した)平安な境地
  • 一切行苦:一切の現象(形成された一切のもの)は苦である

というふうに、ほとんど正反対の意味となっています。

そうすると、四法印として、そのなかに涅槃寂静と一切行苦の2つが入っているというのは教えとして矛盾するのではないか?と思われそうです。

結局、「この世の現象は無常でかつ無我である」という真理を知らずに、さまざまな物事に執着して苦しみを作っている状態が”一切行苦”であるということであり、

逆に、「この世の現象は無常でかつ無我である」という真理を知って、執着から離れ(=解脱)、平安な境地を得た状態が”涅槃寂静”ということなのです。

かんたんに言えば、「使用前/使用後」という違いとも言えるでしょうか。「真理を知る前/真理を知ったあと」という違いです。

これは実はどちらも大事な視点です。

ハイデガー流に言い直せば、

  • 非本来性:一切皆苦
  • 本来性:涅槃寂静

とも言えましょうか。

まず、私たちは、自らが”非本来的”な状態にあることを知らなければならないのです。俗にまみれたままでは真理を求めることもありません。

楽を求めつつ、苦に陥り、苦であることにすら気づいていないのが私たち凡夫の姿です。

俗を「俗であるがゆえに、苦しみである(=一切皆苦)」と気付き、それが非本来的状態である、と気づいて初めて、「本来的な状態とは何か?」という探求が始まります。

そして、聖なるもの・真理との邂逅が待っているという順序なのです。

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