無常・苦・無我(三相)とは?仏教学通説の誤りを正す

無常苦無我
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無常・苦・無我(三相)とは?

仏教の中心的思想でありながら、仏教思想に流れている毒水があります。それが無我説に関わってくるのですが、今回は「無常・苦・無我」ですね、この3つを文字通り”三相”と言いますが、仏典の一節を手がかりに探ってみます。

比丘たちよ、色(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。「雑阿含経1-9」

一行目、色(しき)は無常である…云々と続きますが、色は仏教用語で「物質、物体、肉体」の意です。

上記の詩句のあとに、

  • 受(じゅ)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 想(そう)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 行(ぎょう)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々
  • 識(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である・・・云々

と、冒頭の一語だけ変えて、あとは同じ文章の繰り返しになります。

太文字のところをご説明しますと、

  • 色・・・物体、肉体
  • 受・・・感受作用
  • 想・・・表象作用
  • 行・・・意思作用
  • 識・・・統覚作用

ということになります。この色受想行識の5つを仏教では五蘊(ごうん)と言います。

五蘊とは人間を構成している要素を5つに分解したものです。

まず認識の対象である”色”(物体、肉体)があり、それを感受する器官が”受”ですね。感受するとそれに対しての何らかのイメージ(表象作用)=”想”が起きます。

そして、それに対して何らかの意志作用である”行”が生起して、最後にこれらの知覚を統合する頭脳的(知的)な働きである”識”があると。こういう分類をしています。

有名な「般若心経」の冒頭で、

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄…

とありますが、これは「観自在菩薩が深遠なる般若の智慧を行じていると、五蘊は空であることが分かり、一切の苦厄から逃れられるのである」といった意です。

さて、冒頭の文に戻って、

「色は無常である」というのは、物体・肉体というものは無常、常ならざるものである、変転変化の中にある、ということですね。

そして、「無常なるものは苦である」と続きます。これは詩句ですので、多少解釈が必要です。

無常を感じる主体はわれわれ人間ですね。ところが人間は、ともすれば、無常なるものを恒常なるものとして認識しがちです。

たとえば、美貌も移り変わっていきますが、老いを押しとどめたいと思ってもやはり限界はあります。

また、名声や財産なども無常です。死ぬ間際まで保持できたとしても、あの世には持っていくことはできません。

このように、この世の全ては無常であるのに、それを押しとどめたい、我が物にしたいという思いが執着になり、その執着が苦しみの元になっている、というのが仏教の根本的な考え方です。

三宝印

「無常なるものは」という言葉は、後に、有名な「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という言葉に結実します。また「苦である」という認識は、「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉に結実します。

さて、次に、「苦なるものは無我である」の解釈に行きます。

ここの解釈が、仏教を学ぶことによって自由自在の境地を得るか、単なる唯物論に堕していくかの分かれ道になっています。

多くの仏教書(インターネットで検索しても)では、無我は「我がない」ということだから、自己という主体がない、ゆえに仏教は無霊魂説である、という方向へ行っています。

これこそが、冒頭で申し上げた、「仏教の中に流れている毒水」的解釈になっています。

ただ、こういう方向に行くのも分からないでもない、というところがありまして。

インドにおいて、仏教以前からあったバラモン教では、宇宙の根本原理であるブラフマンと人間に備わっている自己=アートマンは本来同一・同質のものである、という思想があったのです。

これを梵我一如(ぼんがいちにょ)と言います。

そうした伝統的なバラモンの教えに対するアンチテーゼとして、仏教は無我を打ち出してきた、という側面があるのですね。

そうすると、仏教は無我、つまり、アートマンを否定したのだから、自己というものはない。自己がなければ霊魂もない、ゆえに仏教は無霊魂説である、という解釈に行ってしまったのですね。

しかし、これでは仏教は単なるこの世だけの哲学で、宗教ではなくなってしまいます。そもそも、仏典にはあの世を前提とした思想・経典が山のように有るわけです。

ジャータカ物語(釈迦の過去生を描いた物語)もそうですし、在家信者相手に説いた基本説法である、「施論・戒論・生天論」は、「善いことをして悪いことをしなければ天界へ生まれることができます」という思想ですね。

*参考記事:布施の精神(心)- 仏教の三施・無財の七施に学ぶ

霊魂がなければ、そもそもあの世もなく、輪廻転生もなくなってしまいますから、在家信者相手に説いた基本説法である「施論・戒論・生天論」は大ウソだということになってしまいます。

妄語を戒めた釈尊が基本説法からして、嘘をつくわけがないではないですか。

他には、釈尊は二番弟子である目連(もくれん)に老母(地獄へ堕ちていた)を供養する方法を教えたりしています(これがお盆の起源です)。これなども霊魂、あの世がなければ成り立たない話ですね。

仏陀・釈尊が霊魂の存在を認めていたことについては、下記の記事でも詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

以上、「無常・無我・苦」について再解釈を行いましたが、

そもそも、”苦”は日本語で言う「苦しみ」というよりも、「空虚」という意味に近いことにも留意する必要があります。

これはつまり、「無常かつ無我な状態は、空虚で不安定なもの、実体ではない」ということでもあるでしょう。

*参考書籍:『ブッダのことば パーリ仏典入門 』(片山 一良 著)p112

ブッダのことば パーリ仏典入門

断常の中道で”無我”を観じる

仏教をマスターするコツは、あらゆる事象を”中道”で観ていくことにあります。

中道にはいろいろな把握の仕方がありますが、いま問題にしている”無我”について「断常の中道」で考察してみましょう。

断常の中道とは、

  • 断見(だんけん);一切が断たれるという見解
  • 常見(じょうけん):一切が続いていくという見解

この2つの見解の中道を行くということです。

「無我だから我という主体はなく、したがって魂もない」という見解では、上記の”断見”に陥っていることになります。これは中道の見方ではありません。

現象としてであれ、思考する主体としての”我”はやはり、「有る」のです。

ただ一方、”常見”も斥けなければなりません。

これは、恒常なるもの、すなわち、「同じ状態でずっと続いていく」という見解を斥けているわけです。

つまり、「現象としての”我”は有るのだけれども、恒常、ずっと同じ状態で続いていく”我”は無い」ということなのです。

「有る」「無い」の下線に注目してください。ここのおいて、「有無の中道」も成立することがお分かりでしょう。まさしくこれこそが”中道”の見解なのです。

より分かりやすく言いますと、「あなたという主体、すなわち、魂は有るのだけれども、それは同じ状態でずっと続いていくものでは無い」ということです。

「あなた」という一定のアイデンティティは継続していくが、同時に、変化しているというこです。

たとえば、昨日のあなたと今日のあなたはアイデンティティとしては継続している、つまり、有るが、今日は昨日と比べると、肉体細胞も多少入れ替わっていたり、本ブログを読んで多少価値観が入れ替わったり…で、まったく同じ状態では無いわけですよね。

  • 常見の否定:常なるものではない、アイデンティティは変化している
  • 断見の否定:断たれているわけではない、アイデンティティは継続している

ということで、一言でいえば、「変化しつつ継続している」ということなのです。これできっちり、”断常の中道”、”有無の中道”になっていますよね。

なので、「魂がある」というふうに考えても、決して中道の見解から離れているわけではないのです。

むしろ、ハッキリ「魂などない!」と主張するほうが断見に陥っていると言えます。

さて、無我についてもう少し別の角度から考察してみましょう。

実際は、この詩句を離れて無我説の展開を追っていくと、「諸法無我(しょほうむが)」の思想へと結実してゆくことになります。

「法」というのはインドの言葉ではダルマと呼びますが、意味は大きく2種類ありまして、

  1. 教え
  2. 存在

の2通りです。

諸法無我というときの「法」は後者ですね、「存在」という意味になります。つまり、諸法無我=諸々の存在は無我なるものである、という思想です。

こちらの無我は、「全ての存在はそれ自体では存在できない、相依存して初めて成り立つものである。ゆえに、自性(じしょう・自ずからなる性質)なるものは存在せず、無我である」という意味に発展していっております。

こちらの無我は、大乗仏教で言う「空」という思想として展開していきます。

というよりも、釈尊入滅後、小乗仏教のなかに無我=無霊魂説がはびこってきたがために、天上界のほうから「空」という概念での修正運動が起きてきた、というのがスピリチュアル的に観た真実です。

ちなみに、「諸行無常」「諸法無我」に「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」を加えて、三法印(さんぽういん)と呼びます。
*「一切皆苦」もしくは「一切皆空」を加えて四法印と呼ぶこともあります。

五蘊の仮和合(けわごう)について

冒頭に戻って「五蘊」について付け加えておきます。

上記で述べたような無我=無霊魂説のひとつの物言いとして、「人間は五蘊の仮和合(けわごう)である」といった言い方がされます。

つまり、人間は、色受想行識の5つの要素が仮に合わさった存在である、という思想ですね。

これも執着を断つという意味で使われるのなら良いのですが、仮和合だから、死んだら分解されて何もかも無くなる、という無霊魂説でよく引用されますので、この点も注意が必要かと思います。

仏教学の再解釈については、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを乗り越えるネオ仏法」シリーズで他にも様々な論点を挙げておりますので、ぜひお読みください。

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