前回の続きで、今回はシリーズ9回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
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色即是空 空即是色
読み:しきそくぜくう くうそくぜしき
現代語訳:物体はこれ空性であり 空性が即ち物体である
前回の、「色不異空 空不異色」とほとんど同じことを述べています。
インドではもともと、「大事なことは三度繰り返す」という言い回しがありまして、ここでもその文脈で二度目を繰り返しているわけです(ただし、三度目は省略)。
なので、意味的には前回と同じことではあるのですけどね、
今回は、”空(くう)”について、前回よりさらに突っ込んで考えてみます。
わりあい親切な解説書では、たとえば以下のように説明しています。
空の原語は”シューンヤ”で、文字通りには、「からっぽ」という意味です。
インドでは「からっぽがある」という不思議な言い回しをするのですね。
数字のゼロもインドで発見されましたが、その”ゼロ”の感覚です。
「ないのだけど、ゼロがある」といったふうに、0(ゼロ)は不思議な数字です。
ただしここで、「からっぽがある」これがつまり”空”である、と解説されても、やはり、今ひとつピンとこないところがありますね。
ネオ仏法的に言えば、「現象に過ぎない」というふうに理解しても良いです。
私たちは、物質的、物体的なものに執着をして苦しみを作っています。お金とかクルマとか、食べ物とか…挙げていけばきりがないくらいです。
なぜ執着をするかというと、それらが「ある」と思っているからです。
ところがそうした物質的なものは自らのコントロール外のものですから、振り回されてしまいます。
これは自分や周囲の人を観察してみれば、よく分かることです。
(価値あるものが)あると思う→だけど思い通りにならない→だけど欲しい(執着)→ああ、苦しい
というふうに、苦しみの元をたどってみれば、「ある」という意識です。
なので、苦しみを滅するために、その正反対の概念であるところの「ない」、すなわち、「空である」というぶった切りをいれていくわけです。
ないものには執着のしようがないからです。ゆえに、苦しみもなくなると。
解説としてはこれで十分なのかもしれませんが、本音を言うと、これでもまだモヤモヤが残りませんか?
私は残ります(笑)。
というのも、
たしかに、「ない」「実体ではない」ということで執着は断てるかもしれませんが、一方、
「ああ、何もかも、ないのだ…」「どうせないのだから…」というふうに、ニヒリズムに流れていく危険性もでてくる。
実際、仏教をニヒリズム、虚無主義だと思いこんでいる欧米の学者もひと昔前はいたそうです。
そしてその直感はある意味、あたっていると言えます。
”空”の理解を、「実体ではない」「現象に過ぎない」「ゆえに、ないものに執着をするなかれ」で止まっていると、
たしかに、執着を断つというメリットはあるのですが、反面、ニヒリズムに流れそうなデメリットもありますよね。
そこで、ネオ仏法では”ニヒリズム的空”を克服していこうと思います。
前回、空の理解に、
空=無常+無我
の式で理解すればよい、とお話しました。
ところが、「無常」「無我」とくれば、もうひとつ思い浮かびませんか?
仏教の三宝印は、
- 諸行無常(しょぎょうむじょう)
- 諸法無我(しょほうむが)
- 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
の3つでした。
無常と無我はむろん、1番めと2番めに相当します。
でもあともうひとつ、「涅槃寂静」が残っています。
そう、”空”理解に、涅槃寂静も代入していきます。
ゆえに、式は、
空=無常+無我+涅槃
ということになります。
要は、”空”というのは、三宝印の悟りを一字で表現したものだ、と。そういう解釈です。
では、涅槃とは何か?
伝統的には、「無常、無我を克服して輪廻から解脱すること」と解釈されています。
この考え方のベースにあるのは、「釈尊は魂もあの世も否定した」という思想です。
しかし、ネオ仏法ではこの解釈は採りません。
仏典をつぶさに読めば、あの世・来世を前提にしなければ話が通じなくなる法話はたくさんあります。
そもそも、魂・あの世がないのであれば、仏教の基本説法である施論・戒論・生天論が成り立ちません。
施論・戒論・生天論とは、
- 施論:善を行い
- 戒論:悪を戒めれば
- 生天論:天界へ生まれることができる
という説法です。
これは在家向けの基本説法ですが、あの世・魂がないのであれば(無霊魂説)、いったい何が天界へ赴くのか?サッパリ分からなくなってしまいます。
方便・たとえ話として捉えるには、あまりにも直接的過ぎるでしょう。
妄語(もうご/ウソをつく)を戒めていた釈尊が基本説法にそのような方便を盛り込むとは考えにくい。
それよりも、「魂・あの世はある」と考えたほうがスッキリします。
このような無霊魂説は、実際はシンプルに
- 今の近代的文明の世界で「あの世・魂」など、荒唐無稽である
という思い込みがまず前提に入っているのではないでしょうか?
無霊魂説を唱えている人は、この「前提となっている価値観」をどれほど検証したのでしょうか?
八正道の始めである「正見」は、如実知見(にょじつちけん)すなわち、「物事をありのままに白紙に戻して考える」が出発点であるはずです。
時代性・地域性に左右される先入観・偏見を白紙に戻して、ありのままに見つめていくのが正見の出発点です。
あの世・魂を否定する涅槃解釈は、ここの正見の点検が不十分であると思わざるを得ません。
涅槃とは、
過去世・現世・未来世を通じて、正しい真理認識のもとに自らの人生を観察し、生ききることができる状態。その結果としての平安な境地のことである、というのがネオ仏法の解釈です。
さて、それでは、空(くう)に涅槃解釈を代入するとどうなるか?
空とは結局のところ、究極の実在である真理が流転するさまを表現している、ということだと思います。
真理全体は実在(=実際に有る)なのですが、その内実の個々の現象を採り上げてみると、無常であり、無我である。現象に過ぎない(=無いとも言える)。
このように解釈してこそ、有無の中道が成立していきます。
この存在論こそが空の本質であり、かつ、そのように存在を認識できる個人のあり方がまさしく涅槃であります。
したがって、
「色即是空 空即是色」は、究極の実在が自己展開するさまを指している
というところまで見抜いていきます。
ここの悟りが、本稿のタイトルであるところの(従来の)「般若心経の悟りを超えて」の第一段階に相当するものである、と自負しています。
このシリーズを通して、ここからさらに奥の奥へ分け入っていくつもりです。ご期待ください。
続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ⑩受想行識 亦復如是