仏教の基本はセルフ・ヘルプ
前回(照見五蘊皆空 – カント認識論よりすごい?”五蘊”)の続きで、今回はシリーズ6回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→摩訶般若 – 仏教的グノーシスの経典としての『般若経』
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
度一切苦厄
読み:どいっさいくやく
現代語訳:一切の苦しみから逃れることができるのである
前回の「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」の結果、どのような功徳が得られるのか?という回答の部分です。
「照見五蘊皆空」の部分をざっくり復習・現代語訳してみますと、
人間は5つの構成要素(肉体+精神作用4つ)からできているが、その構成要素それぞれは、間断なく変化している無常なもの、それ自体では存在できない無我なるもの、つまりは空(くう)なるものであることがハッキリと分かった
といった内容でした。
このような認識を得ると「度一切苦厄」という結果になると、そういうことです。
「度」とは、「度する」という言い方をしますが、これは仏教の文脈では、「(仏陀が)悟りの境地に導く」という意味です。
なので、直訳的には、「一切の苦しみを悟りの境地に導く」ということになりまして、この文脈では、「苦しみが悟りへと昇華される」と言ってもよろしいのかもしれませんが、
ちょっと意味が取りづらくなりますので、まずは簡便に「(人が)一切の苦しみから逃れることができる」と翻訳しました。
人間は、「それが確かなもの、確固たる存在である」と思うからこそ「価値がある!」「失いたくない!」と執着をします。
逆に、「仮そめのもの、本来は”無い”と言えるもの」に対しては執着しないでしょう?
なので、
- 照見五蘊皆:五蘊はみな空であることが明らかに分かったので(原因)
- 度一切苦厄:一切の苦しみから逃れることができる(結果)
という流れになっています。
「一切の苦しみから逃れることができる」というのは、いわば「救済」ですが、その救済のための方法論として、「肉体も精神作用もみな空なるものではないか、それがハッキリ分かった」という「認識」がある、と。
つまりここでは、
仏陀や観音様の他力の光が差し込んできて苦しみから逃れる、ということではなく、あくまで、「五蘊は空なるものである」という認識の獲得によって救済(=解脱)が可能となる、という思想が提示されています。
他力か自力か?という二者択一で言えば、やはりこれは自力の思想ですね。セルフヘルプの精神です。
なので、観自在菩薩は「何でも救ってくださる法華経/普門品の観音様」とはだいぶ性格が違います。
そういう直感が働いたからこそ、玄奘は「聖観音菩薩」ではなく、「観自在菩薩」の訳語に決めたのでしょう。
信解脱と慧解脱のバランス
ただし、自力とは言っても、そもそも「釈尊を仏陀と認めよう、信じよう」「観自在菩薩の説法を聴いてみたい」と思わなければ、そもそも自力すら発揮できないわけです。
この「仏陀を信じよう」という心的態度から解脱(=悟りの彼岸へ行くこと)を果たしていくことを信解脱(しんげだつ)と言います。信仰による解脱です。
対して、仏陀の説法を理性的に理解することによって解脱していくことを慧解脱(えげだつ)と言います。智慧による解脱ですね。
このように考えると、自力と言っても、前提条件として、「仏陀を信じる」という信解脱的な要素はどうしても必要ですよね。
なので、「自力か?他力か?」は、「ニワトリが先か?卵が先か?」と同じで、どちらが先とも言い難い側面はあります。
ネオ仏法では、「絶対力」という言葉を使うこともありますが、つまりは、セルフヘルプ(=自力)と恩寵(=他力)の双方をバランス良く大事にする中道的スタンスをお勧めしています。
やはり、わざわざこの地上に生まれてきたのに、一方的に救われておしまい!であれば、「そもそも何で生まれてきたんだっけ??」になってしまいますので、
ここは、「六波羅蜜の修行をして般若の智慧を得た!そして、”五蘊皆空”という真理をつかんだ!」というプラスアルファがあったほうが人生としてはやはりベターです。輪廻の目的という観点からは、ですね。
もっとも、この「輪廻の目的」という観点自体が、現代の仏教解釈では真逆に捉えられていますので困ってしまうのですが、この点は、「上座仏教(テーラワーダ仏教)では悟れない理由 – ④ 涅槃の解釈に誤りがある」という記事をご参照ください。
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