総願(そうがん)というのは、全ての菩薩が発するべき4つの誓願のことで、四弘誓願(しぐぜいがん)とも言われています。
一方、別願(べつがん)というのは、各々の仏菩薩がそれぞれの立場から総願とは別に立てる誓いのことを言います。
別願でよく知られているものは、阿弥陀如来の四十八願、釈尊の五百の大願、薬師仏の十二の上願、普賢菩薩の十の大願などがあります。
本稿では、総願と別願について振り返りつつ、さらに、実際に「菩薩になりたい」「菩薩でありたい」と願う現代人にとって、総願と別願をどのように考えるべきか、どのように実生活に活かしていくべきか、について考えてみたいと思います。
総願 – 四弘誓願とは何か?
如来・仏は、菩薩時代に誓願を立て、それが成就したからこそ如来・仏になっているわけです。なので、逆に言えば、菩薩というのは仏に成らんとして誓願を立てるものなのですね。
四弘誓願(しぐぜいがん)
総願とは、大乗仏教の菩薩が初めて発心したとき(初発心時)に立てるべき4つの誓い(願い)のことを言います。具体的には、四弘誓願に集約されていきます。
四弘誓願は下記の4つです。
- 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど):あらゆる衆生をすべて救済するという誓願
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煩悩無量誓願断 (ぼんのうむりょうせいがんだん):煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
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法門無尽誓願智 (ほうもんむじんせいがんち):法門は無尽だが、すべて知るという誓願
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仏道無上誓願成 (ぶつどうむじょうせいがんじょう):仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願
願文として列挙されていますので、まとめて、「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」とも言われています。
四弘誓願の言葉は宗派によって、微妙に違ったりしていますが(例:煩悩無量誓願断→煩悩無尽誓願断、法門無尽誓願智→法門無量誓願学)、内容的には同じです。
真言宗では、上記の4つと実質的に同じものに、「如来無辺誓願事(にょらいむへんせいがんじ)」を加えて五大願としています。
真言宗では、大日如来が一者であるが、具体的顕現としてまずは諸如来として現れる、と考えます。有名なところでは阿弥陀如来がいらっしゃいますね。これは「無量寿如来」とも言われます。
なので、
- 如来無辺誓願事(にょらいむへんせいがんじ):如来は無数にいらっしゃるが、すべての如来にお仕えするという誓願
これを加えて五大願としているわけです。
上求菩提・下化衆生
上記、四弘誓願の内容を見ると、「衆生無辺誓願度」は利他行になっていますが、残り3つは、自己を高めるという自利行になっていますね。
そうすると、いわゆる「自利利他(じりりた)」を4つに展開した誓いであると考えても良いでしょう。自利利他は、「自覚覚他(じかくかくた)」とも言うことがあります。
「覚」は「悟る」ということで、「自覚しなさい!」というのは「悟りなさい!」ということであるのですね。
- 自覚:自ら悟る→智慧の獲得
- 覚他:他を悟らしめる→慈悲の発揮
自覚覚他が菩薩の願い、成仏への道であるならば、「智慧と慈悲」こそは仏陀の内実そのものだとも言えるでしょう。
自利利他、自覚覚他の他に、今回は、「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」という言葉も覚えてみましょう。
- 上求菩提:上に向けては、限りなく悟りを求め(智慧の獲得)
- 下化衆生:下に向けては、限りない衆生を救っていく(慈悲の発揮)
ということです。
宇宙の三大原理(智慧と慈悲と幸福論)
総願は四弘誓願であり、四弘誓願は「上求菩提・下化衆生」を具現化したものである、ということを上述いたしました。
- 上求菩提:智慧の獲得
- 下化衆生:慈悲の発揮
ということですね。
そして、智慧の獲得と慈悲の発揮をスパイラル状に実践していると、そこに幸福が現れます。幸福こそが目的論です。
要約すると、「智慧と慈悲と幸福論」ということになりますね。
これは菩薩の願い(誓願)でありますが、菩薩は仏陀を目指しています(成仏)ので、「智慧と慈悲と幸福論」は実は仏陀の内実を現しているとも言えます。つまりは、仏陀の三大構成要素です。
仏陀は法を説きます。そして仏法は三法印に集約されると言われています。
- 諸行無常:あらゆる事象は変化していく(時間論)
- 諸法無我:あらゆる存在はそれ自体で存在することができない(存在論)
- 涅槃寂静:無常と無我を観じることにより執着を離れ、涅槃の境地を得る(幸福論)
この3つですね。そして、より積極的には、
- 諸行無常:時間的な流れ(時間論的縁起)を観察していくと智慧が得られる
- 諸法無我:関係性(存在論的縁起)は結びつきであり、慈悲の発揮である
- 涅槃寂静:智慧の獲得と慈悲の発揮により、幸福が現れてくる
ということで、
- 諸行無常:智慧
- 諸法無我:慈悲
- 涅槃寂静:幸福論
というふうに、仏法すなわち仏陀の内実は、「智慧と慈悲と幸福論」の3つで構成されているということになります。
*参考記事:縁起の法とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる
法身仏としての仏陀は真理であり、真理は世界そのもの、宇宙そのものです。
ゆえに、「智慧と慈悲と幸福論」は個人(ミクロ)の実践の徳目であると同時に、宇宙(マクロ)を構成する三大原理であると言えるのです。
総願・四弘誓願と話がずいぶん逸れているように感じられるかもしれませんが、仏法は実際は体系的に構築されているということの証明のために、この項目を設けてみました。
ヘーゲルが言うように、「真理は全体である」のです。法は壮大な建築物のよう(体系)でもあり、同時に、私たち一人ひとりの実践徳目でもあります。
ここにおいて、体系哲学と実存哲学(実存主義)は総合されることになります。
キェルケゴールやカール・ヒルティなどは、「人は体系哲学などでは幸福になれない」という趣旨のことを述べておりますが、実際は、
体系哲学 – 実存哲学
と二元化したものではなく、真の意味での体系哲学(仏法)は実存哲学(倫理)をそのうちに含むものなのです。
あるいは、「体系哲学の理解によって、実存哲学の実践が進む」というふうに言っても良いでしょう。
このように、ネオ仏法的な視点では、体系哲学と実存哲学も総合されていきます。

キルケゴール
四弘誓願の二重構造
さて、四弘誓願に話を戻してみます。
四弘誓願は文字通り、「4つの誓い」であるのですが、内容をチェックしてみると、最初の「衆生無辺誓願度」だけが下化衆生で、残り3つが上求菩提、という構造になっています。
そうすると、「大乗の菩薩の誓いなのに自己の悟りを高めるという方向に重点が行き過ぎでは?」という疑問も出てくるかもしれません。
そもそも、この四弘誓願の起源は、中国の天台大師智顗(ちぎ)が著した『釈禅波羅蜜次第法門(しゃくぜんはらみつしだいほうもん)』が初出とされています。
*参考書籍:『菩薩とはなにか』(平岡聡著)
少し、引用してみましょう。
四弘誓願とは。一には未だ度せざる者をして度せしむ。亦た「衆生無辺誓願度」と云う。二には未だ解せざる者をして解せしむ。亦た「煩悩無数誓願断」と云う、三には未だ安んぜざる者をして安んぜしむ。亦た「法門無量誓願知」と云う。四には未だ涅槃を得ざる者をして涅槃を得せしむ。亦た「無上仏道誓願成」と云う。此の四法は即ち四諦に対す。
漢文の読み下し文ですが、それほど分かりにくい文章ではないですね。
ここで、「なるほどー!」と思うのは、智顗の文章では、たとえば、「煩悩無数誓願断」では、「未だ解せざる者をして解せしむ」というふうに、これは「衆生の煩悩を絶つお手伝いをする」というふうに利他的に解釈されているというところです。「法門無量誓願知」と「無上仏道誓願成」も同様です。
そうすると、「衆生無辺誓願度」以外の3つについては、上求菩提の要素は当然に入っていながら同時に、下化衆生の内容も含まれていると理解することもできるでしょう。少なくとも智顗をベースにすると、そのような解釈も成り立ちます、
やはり、大乗の菩薩たるもの、あらゆる願いに上求菩提・下化衆生、自利利他、自覚覚他を込めていき、実践していくことが望ましいですね。
それから、「此の四法は即ち四諦に対す」というふうに、四弘誓願を四諦に対照させているところもなかなか興味深い理解です。
- 苦諦:衆生無辺誓願度
- 集諦:煩悩無数誓願断
- 滅諦:仏道無上誓願成
- 道諦:法門無量誓願知
というふうに、四諦をも上求菩提・下化衆生の二重構造で捉えるということになります。まさに、「大乗の四諦」とでも言うべきものでしょう。
別願 – 阿弥陀如来の本願を例に
別願については冒頭でもいくつか触れましたね。
ここでは、有名な「阿弥陀如来の四十八願」から例をとってみましょう。
阿弥陀如来は、菩薩時代は「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」という名前でした。そして、「仏に成らん」として四十八の誓願(別願)を立てたわけです。これは『大無量寿経』というお経に書かれています。
四十八願のなかでも、浄土教に関わるものとして一番大事に考えられているのが第十八願です。引用してみましょう。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(読み下し文)わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。(現代語訳)
そして、法蔵菩薩が現に今、阿弥陀如来になっているということは、「すでにこの誓願が成就した」ということになりますよね。

鎌倉の大仏(阿弥陀仏)
これを、「法蔵菩薩の誓願が阿弥陀如来の本願になった」と理解します。
この本願こそが阿弥陀仏の慈悲の象徴になっているわけですから、もともと別願から出発したものとは言え、なんだか総願よりも重要観があるようなウエイトの置かれぶりですね。
*参考記事:”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで救われるのは本当なのか? – 極楽往生にも段階がある
現代における総願と別願をどう考えるか?
さて、では実際に、現代において「大乗の菩薩でありたい」と願う私たちにとって、総願と別願をどう捉え、実践していけばいいのか、考えてみましょう。
別願は総願の具体的展開であると考える
まず、押さえておかなければならないのは、「総願と別願の関係性」です。
仏教用語の説明としては、「総願はすべての菩薩に共通する誓いであるが、それとは別に総願がある」といった把握の仕方です。文字通りの、「別願」ということですよね。
しかし、総願も文字通りに考えるのであれば、「総ての願い」ということですから、「別願は総願に含まれるもの」あるいは、「別願は総願の具体的展開である」と考えたほうが、より実践的になると思うのです。
たとえば、「医療を通じて仏国土づくりに貢献したい」という別願を立てたとします。
しかし、医療は医療として独立してあるわけではなく、医療の向こう側に「癒やし」という真理価値があるわけですよね。真理価値と切り離して医療があるのであれば、それは仕事というより単なる「作業」になってしまいます。
このように考えると、「医療を通じて仏国土づくりに貢献したい」というのは、総願(四弘誓願)の「衆生無辺誓願度」の具体的展開としての願いである、と把握すべきだと思うのです。
ゆえに、「別願は総願に含まれる」ということで
総願 ∋ 別願
という図式になります。
現代における菩薩行の3つの形態
現代において「別願」というと、たいていは仕事あるいはボランティアを通じた実践項目になると思うのですね。
そもそも菩薩と言っても、地上に生まれている以上は衣食住を確保しなければいけませんので、たいていは何らかの仕事をしなければならないはずです。
釈尊の時代のように、仏陀の悟りを目指す者が続々と出家して、乞食(こつじき)で生活をするというわけにはなかなかいかないでしょう。
現代においては「別願としての仕事」という位置づけが菩薩行として、かなり重要度を持っていると考えるべきでしょう。
そうすると、現代における総願と別願はだいたい以下の3つの分類に当てはまると思うのです。
- 出家して総願をストレートに実践するパターン
- 仕事を通じて別願を実践しつつ、別願を総願に結びつけていくパターン
- 仕事は仕事として割り切りつつ、余暇を使って総願を実践していくパターン
1. 出家して総願をストレートに実践するパターン
このパターンはごく少数派になるでしょうが、現代においても一応は実践可能な形態であります。
仏教であれば、出家・得度してどこかのお寺の住職になる。あるいは、仏教学者になるという方向性もあり得るでしょう。
そうして、ストレートに仏法の広宣流布を使命としていくという実践です。これは総願を思いっきりストレートに実践するパターンであると言えるでしょう。
2. 仕事を通じて別願を実践しつつ、別願を総願に結びつけていくパターン
このパターンは、たとえば、芸術家として真理価値の高い作品を作るなどして、真理を拡げていくやり方です。
「芸術を通して、真理を知らしめていきたい」ということになりますので、形態としては総願ではなくて別願ということになりますね。
ただ、上述しましたように、別願は総願に含まれます(総願∋別願)ので、この方向性も立派な菩薩道になります。
芸術家として生涯を送って、如来格まで到達している偉人もいらっしゃると推定しています。
3. 仕事は仕事として割り切りつつ、余暇を使って総願を実践していくパターン
この世の仕事はたいていの場合、「利便性」に奉仕していく内容です。この世の生活が便利になるように取り計らっていく、ということですね。
それはそれでもちろん立派なのですが、「もう少し、真理価値が欲しい」という感じもします。
そこで、仕事は仕事として割り切って行いつつ(あるいは主婦業をしつつ)、余暇を仏教の広宣流布に使う、というような方向性です。
現代では土日休みであったり、とくに日本ではだいぶ祝日も増えていますので、このやり方も実践しやすい菩薩道であると言えるでしょう。
とりあえず、「現代における菩薩行の実践方法」として3つ挙げてみましたが、たとえば、2と3を組み合わせるとか、多芸な人であれば1と2を組み合わせるとか、そうした方向性もあるでしょう。
いずれにしても、万人が実践できる菩薩道を考えるにあたり、「現代における世俗内禁欲」がキィワードになるのかな、と思われます。
全員が全員、出家するわけには生きませんからね。ほとんどの方は世俗の仕事をしながら…というパターンになるでしょう。
「菩薩でありたい」「菩薩になってみたい」と思われる方は、ぜひ自分なりの日々の実践方法を考えてみましょう。
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