ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

弁証法

西洋哲学のなかでもウルトラ難解で知られるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(名前の時点で難解ですね)の弁証法について、簡略版ではありますが、解説していきたいと思います。

*参考書籍:『精神現象学』(G.W.F. ヘーゲル 著)

精神現象学

なぜこれを解説したいかというと、弁証法の論理は、次代の新文明を理解するために最適のツールになる、と思えるからです。

また、個人や社会、国家、大きくは宇宙がどのような意図で、どのような経緯で発展していくか、を理解するのにも最適と思われるのですね。

以下、Wikiの解説を引用させて頂いた「弁証法(的)論理学」ですが、読むのが面倒な方はすっ飛ばしても構わないです。

「弁証法(的)論理学」

ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。

全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。

このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである

目次

コップは円形か?長方形か?

さて、西洋哲学に不慣れな方にとってはやはりこのWikiの説明ではよくわかりませんよね。

なので、弁証法を図解イメージとたとえ話を使って解説していきます。

まず、画像にあるような円筒形のコップをイメージしてください。

**以下、たとえ話**

ココにAくんと、友だちのBくんがいます。AくんとBくんが住んでいる村では、まだコップというのが普及していないのです(そんな村あるのか?というツッコミはさておき・笑)。

生まれて初めてコップをチラ見したAくん。コップを真横から見て、

なるほどー、コップというのは長方形なんだ

と納得します。

そして、同じく生まれて初めてコップをチラ見したBくん。Bくんは、たまたまコップを真上から見たので、

へー、コップっていうのは、円形なんだね

と理解します。

友だちであるAくんとBくんは、初めて見たコップの感想を述べあいます。

Aくん:「コップって、長方形なんだねー」

Bくん:「いやいや、コップは円形でしょうー」

Aくん・Bくんの内面:(はあ?( ̄◇ ̄;)こいつの観察力はどうなってんの?)

と、意見の対立が出ます(笑)。

そこで、AくんとBくんは、村長さんのところへ行って、もう一度、コップを見せてくれるように頼みました。

今度は、まじまじとコップを観察したAくんとBくん。

コップというのは平面ではなくって、立体なんだと気づきます。

そして、その立体のカタチは?……そう、円筒形、ですよね。

村長さんは言いました。

「そうそう、ふたりとも間違ってたわけじゃないんじゃよ。

横から見ると、長方形に見えるし、上から見ると、円形に見えるわな。
でも、全体を見ると、円筒形ってことなわけじゃ

AくんとBくんは、それぞれの意見がまったく間違っていたわけではないのだ、と。円筒形だったんだー、ということでコップの認識を新たにして仲直りをしましたとさ。

**たとえ話、ここまで**

このたとえ話で言えば、

「コップは長方形である」という見方を、”正(テーゼ)”とします。

すると、

「コップは円形である」という見方は、”反(アンチテーゼ)”となります。

相反する意見、矛盾が生じているわけですね。

そして、

「コップは円筒形である」という見方が、”合(ジンテーゼ)”となるわけです。

テーゼとアンチテーゼは一見、対立していました。

そして、その対立の原因は、AくんもBくんもコップを平面で見ていた、ということに由来していることに気づくでしょう。

ところが、コップを立体で見ると、対立は解消しましたよね。

そう、ふたりとも各々、一面的には正しかったのです。平面でコップを観察した限りでは、です。

合(ジンテーゼ)の正体とは!?

この、正(テーゼ)ー 反(アンチテーゼ)の対立を解消した、合(ジンテーゼ)のキモはどこにあるか?を考えてみましょう。

そのキモは、

二次元平面のレベルでは対立していた意見も、より上位の次元すなわち、3次元立体で見ることによって、解消された

というところにあります。

次元がひとつ上がっている。最近のスピ用語でいうところの、次元上昇(アセンション)しているわけです。

AくんもBくんも2次元のレベルでは意見が対立していたけど、ひとつ上の、3次元の見方を取り入れることによって、対立は解消され、より上位の認識を持つことができた、

ということですね。

この次元上昇(アセンション)を弁証法の用語では、止揚(アウフヘーベン)と言います。

繰り返しますが、AくんもBくんも本質的には間違っていたわけではない。二次元平面から見たら、という仮定ではふたりとも正しかったのです。

ただ、三次元立体の見方をとりいれる(1次元分上昇している=アセンション)ことにより、対立は解消され、各々の2次元的な見方(本質部分)は保存されながらも、より上位の認識に至ったわけです。

この、”本質は保存しつつ、より上位の認識に至る”というのが、弁証法理解のキモであります。

つまり、”合(ジンテーゼ)”というのは、単に、対立する2つのものを足して2で割ったわけじゃあないんですね。

”正(テーゼ)と”反(アンチテーゼ)”を、次元上昇させることによって対立を解消し、認識の高まりを得ること。これをもって”合(ジンテーゼ)”というんです。

そしてさらに、ネオ仏法的に翻訳すると、ジンテーゼとは

  • 正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)を超えた認識を得た、という意味では、智慧
  • 正(テーゼ)と反(アンチテーゼの対立を解消し、調和に導いたという意味では、慈悲

という見方ができます。これは超重要な視点だと思います。

言葉を変えれば、

私たちは、「智慧と慈悲」といったふうに、別々の用語を使っていますが、

実際は、ひとつの真理を進歩という側面から眺めたのが智慧であり、調和という側面から眺めたのが慈悲、ということも言えるかと思います。

もちろん、これは哲学的な認識ではこのように定義することもできる、ということであって、実践論としては、智慧と慈悲に分けて考えたほうが分かりやすいですけどね。

中道とは弁証法のこと

釈尊の悟りであるところの、「中道」も、弁証法と理解するとすごく分かりやすいんです。

仏教書を読むと以下のように書かれています。

「釈尊は成道(じょうどう)の際に、苦楽中道を悟られました。肉体を痛めつける苦行を離れ、また、王宮での安楽な生活を離れ、それらを両極端であるとし、中道のなかにこそ悟りがある、と発見されました」

これはもちろん、正しいです。

が。「なるほどー…」というあたりから、あまり先に進まない感じもなきにしもあらず、で。

これを今回の、弁証法的でもって考えてみましょう。

テーゼとアンチテーゼの本質部分は保存して、より上位の認識へ進むのがジンテーゼでした。

それでいくと、

  • テーゼ:苦の本質的部分…おのれに厳しくある(智慧の前提)
  • アンチテーゼ:楽の本質部分…喜び・優しさも大事にする(慈悲の前提)

ということになりそうです。

そして、本質でない部分を捨象した後、

  • ジンテーゼ:中道の悟り…智慧の獲得と慈悲の発揮

となります。

中道論としては、従来の解釈とはまた違った味わいと応用が出てくるのではないか、と思っています。

”中道”については、下記の記事でさらに詳しく解説をしています。参考になさって下さい。

 *参考記事:”中道”の意味とは?- 仏教における弁証法の論理と実践

広告

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

【菩薩になる方法】無料プレゼント

関連記事

コメント

コメント一覧 (4件)

  • >山本裕美子様
    富士山の例えは、まさに弁証法のあり方の一側面を表していますね。
    頂上まで行けば、すべての「正しい」が立体的に視えるようになります。

    「あれもこれも正しい」というふうに言う人もいますが、正確に言うと、「ある位置づけにおいては正しい」というのがむしろ正確で、
    ネオ仏法がやっていることは、たとえば、「3合目の南東の角度から見るとこう観えます」といったものです。

    立体的に具体的な認識(山の形)を示すことで、諸宗教・諸思想が衝突せず、「切磋琢磨」というかたちで相携えていければと願っています。

  • 私が高校生のときのことでした。様々な宗教の人が自分の信じる宗教を勧めてきたのでした。ある宗教はこれが絶対真理であの宗教は間違っている。私の信じるものだけが真理だ。とそれぞれが他の宗教を批判しあっていました。高校生のとき、倫理社会という学科が私は好きでした。ヘーゲルの弁証法は難しくてよくわからなかったのですが、そのいろんな宗教を勧めてくる人たちの話を聞いているうちに、自分の頭の中に一つのイメージが浮かび上がりました。
    それは富士山のような山でした。そこを登山する人たちがいます。
    真理は山のようなものなのかなと、それは東西南北それぞれ違った方角から見ると、その姿も違う。
    どのルートをたどって山頂にたどり着くかは、その人その人の選択に任されていて自由で、
    何合目まで登ったのかも人それぞれ。
    同じ山を違った方角から眺めてお前は間違っている、俺が一番正しい、と、また、少しばかり山頂に近いところまで登った人がそこまで至らない人を見下げている、そんな風に感じてしまいました。
    結論、真理ってきっと一つなんだろうけれど、それを人がそれぞれ違った方法論で違った名前をつけて同じ道を究めようとしてるのに仲良くなれないのかな。と思ったことを思い出しました。
    これってひょっとして弁証法的にたどり着いた認識なのかなとこれ読んで思いました。
    これからも読み深めて学ばせていただきます。ありがとうございました。

  • Wakkaさま
    お返事遅れて申し訳ありません!
    引用していただけるとのこと、ありがたいです^^
    よろしければ、サイトなど教えていただければ嬉しいです!^^

  • 突然のコメント失礼致します。
    私はWakkaと申します。
    今回の記事を興味深く拝読させて
    頂きました。
    そこで大変差し出がましいお願いなのですが、とても深く心に響いた部分を、私自身の個人的なブログの検証記事を裏づける考え方として
    引用させていただければと思いコメントさせて頂きました。
    何卒よろしくお願いいたします。

コメントする

目次