上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違い – いかに対立は解消されるか?

小乗 大乗 違い

異端認定で”正統”を絞り込んでくるキリスト教と違って、仏教はおおむね寛容な歴史を展開してきたと言えるでしょう。

異説が生じても論争はしますが、「まあ、それはそれで」ということで、袂(たもと)を分かっていくだけなのですね。

解釈の違いは歴史的に無限に近いくらい生じてきますので、お経や論書の数もどんどん増え続けていくわけです。

また、仏教は対機説法を重視していることもお経の数が多いことの一因です。

説法する相手の機根に合わせて説かれていますので、経典に説かれている様々な教えであっても、単純に比較すると、矛盾したようなことが説かれている場合があります。

正典(カノン)を制定するキリスト教とはこの点、だいぶ違いますね。かく増広していった仏教は一般に「八万四千の法門がある」と言われているぐらいです。

法門

このように実に守備範囲が膨大な仏教ですが、大きな枠で見れば、現代においては上座仏教と大乗仏教の2つに分類することは可能でしょう。

*密教は、別名、金剛乗(ヴァジラヤーナ)と言いまして、大乗仏教とは区別する分類法もありますが、とりあえずは、密教についても大乗仏教の一形態として捉えていきます。

今回の記事では、上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを、その歴史的経緯を振り返りつつ、なるべく分かりやすく叙述していこうと思います。

そしてさらに、上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教を単純に「違うもの」として捉えるだけではなく、一段大きな視点から、両者を総合する道も探ってみたいと思います。

「あらゆる宗教・思想・哲学の違いは違いとして認めつつも、より高い視点で総合していく」というのがネオ仏法の使命です。

*参考:ネオ仏法とは

目次

上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いとは?

上座仏教(小乗仏教)は”自利”中心、大乗仏教は”利他”中心

お釈迦様が起こされた仏教については、年代的にはおよそ二説あるのですが、とりあえずは、今から2500年ほど前と考えておきましょう。紀元前6世紀頃です。

釈尊の仏教は釈尊没後およそ100年で、戒律の解釈を巡って上座部系と大衆部(たいしゅぶ)系に別れます。これを「根本分裂」と言います。

ざっくばらんに申し上げると、

  • 上座部系:戒律を厳しく解釈する
  • 大衆部系:戒律をゆるやかに解釈する

と、こうした違いがあります。

その後、上座部系と大衆部系はさらに細かくいくつかの部派に別れていきます。これを「枝末分裂」と言いますが、この時代を「部派仏教」の時代と言います。

釈尊の仏教から、部派仏教以前(プレ部派仏教)の時代までを初期仏教とか原始仏教と呼びます。

部派仏教の時代は、釈尊の教説を細かく哲学的に議論することが盛んでした。

これはある意味で思想の発展とも言えますが、一方、あまりに煩瑣な議論に熱中して、大衆への布教がおろそかになってしまった面があるのですね。

実際に、部派仏教では「悟りを開く(阿羅漢になれる)のは出家者だけ」とされています。在家者はせいぜい出家者にお布施をして功徳を積み、天界に生まれることが希みとされています。

仏教においては、天界(神々も住む世界)であっても、これは「迷いの世界」のひとつであり、輪廻の軛からは逃れられないので、最終的な救い(仏教的なタームでは、解脱→涅槃))にはならないわけです。

それに対して、「自分の悟りだけのことを考えているのは、釈尊の真意と違うのではないか?」という、いわばアンチテーゼとして、紀元前後に大乗仏教が興隆してきました。

大乗仏教はみずから「大きな乗り物」と称しています。これは、「自らのみならず多くの衆生を悟りの彼岸に渡すことができる大きな乗り物」という意味です。

そして、衆生救済がおろそかになっている部派仏教の徒たちを、「自分の悟りのことばかり考えている。自分ひとりしか悟りの彼岸に渡せないので、小さな船(乗り物)だ。小乗仏教だ」と呼び始めたのですね。

大乗仏教

なので、”小乗仏教”というのは、大乗仏教側からの蔑称です。小乗仏教は公平には、上座部仏教/上座仏教(以下、上座仏教と呼びます)と言います。教科書的にも最近では”小乗仏教”と呼ぶことはなくなってきました。

自ら悟りを目指すあり方を、仏教用語では”自利(じり)”と言い、一方、数限りない衆生を救っていこうとするありかたを”利他(りた)”と言います。

なので、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いをひとつだけ、一言で述べよ」ということであれば、

  • 上座仏教(小乗仏教):自利中心の仏教
  • 大乗仏教:利他中心の仏教

と、とりあえず定義することも可能でしょう。

もちろん、大乗仏教においても、「自ら悟りを求めつつ(自利)、多くの衆生を救っていく(利他)」というふうに、いわゆる”自利利他(じりりた)のあり方を求めた、と言うことも可能です。

ただ、大乗仏教ではよく「自らの悟りはさておいても、衆生を苦しみの此岸から幸福の彼岸に渡す」という物言いをしますので、ウエイトとしては、利他に重点があるのは間違いないでしょう。

上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教については、もちろんこの他に仏陀観の変遷など、いろいろな違いがあります。このことは後述します。

ただ、とりあえず、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教って要はどう違うのよ?」という質問に対しては、

  • 上座仏教(小乗仏教):自利中心の仏教
  • 大乗仏教:利他中心の仏教

と答えておいて、間違いはないかと思います。

この上座部系の仏教が南方(スリランカ、タイ、ミャンマーなど)に伝わって、現代の上座仏教(テーラワーダ仏教)に至っているわけです。

一方、大乗仏教の方はおもにインドから中央アジアを経て、中国、朝鮮、日本へ伝わっていきました。

なので、

  • 上座仏教:南伝仏教
  • 大乗仏教:北伝仏教

と分類することも可能です。

*大乗仏教がどこからどのように出現したのか?ということについてはいくつかの見解がありますが、議論が煩瑣になりますので本記事では省略させて頂きます。

こういう経緯がありますので、現代の上座仏教(テーラワーダ仏教)の人たちが、「われらは釈尊の仏教をそのまま受け継いでいる”根本仏教だ”」などと主張しているのは間違っています。

20いくつかの部派仏教の一派がスリランカに流れて現代の上座仏教に至っていますので、やはり、「釈尊の仏教のひとつの解釈の一派」であるに過ぎません。

この点については、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:テーラワーダ仏教批判① – テーラワーダ仏教は部派仏教の一派の流れに過ぎない

上座仏教(小乗仏教)は”阿羅漢(アラカン)”を、大乗仏教は”仏陀”を目標にする

仏教は、基本的には、「修業によって悟りを目指す」宗教です。もっとも、浄土系のように、ある意味で修行を放棄し、阿弥陀仏の恩寵(本願)に托む、という宗派もありますが、大枠では、「修行→悟りの宗教」と考えてよろしいかと思います。

その修業の結果、求める境地ですね、ここのところが上座仏教と大乗仏教では違いがあります。

そこのところをかんたんに要約すると、

  • 上座仏教:阿羅漢を(アラカン)を目指す
  • 大乗仏教:仏陀を目指す

という違いがあります。

大乗仏教においては、「仏陀の悟りを目指して修行に励む人」を”菩薩”と呼んでいます。

菩薩

菩薩というのは、菩提薩埵(ぼだいさった)の略で、もともとのサンスクリット語では”ボーディ・サットヴァ”です。これが漢訳で音写されているわけなのですね。

  • ボーディ(菩提):悟り
  • サットヴァ(薩埵):衆生

の合成語がボーディ・サットヴァ(菩提薩埵)であり、その略語が”菩薩”なのです。

さて、そうすると、「阿羅漢と仏陀はどう違うか?」ということが問題になりますよね。

じつは”阿羅漢”も”仏陀”も仏教固有の用語ではなく、釈尊以前に存在していた言葉です。

どちらも「悟った人」という意味です。

なので、初期経典では、阿羅漢と仏陀をそれほど区別しない使用例が多いのです。

釈尊のことを「阿羅漢にして仏陀」とか呼んだり、あるいは逆に、悟りに目覚めた弟子を”仏陀”と呼称する用例も見られます。

そうすると、釈尊だけではなく、悟りに目覚めた弟子たちも「阿羅漢にして仏陀」ということになり、まったく同じになってしまいます。

しかし、「それでは畏れ多い、やはり、釈尊と弟子は違うだろう、区別しなければ」ということで、弟子の達成した境地を阿羅漢、釈尊のことを仏陀、というふうに、次第に区別していくようになったのです。

つまり、仏陀というのはもともとは(釈尊を指す)固有名詞ではなく、一般名詞であったわけですね。それが次第に、釈尊のみを指す固有名詞に変化していったのです。

ところが後述いたしますが、大乗仏教の時代になると、「釈尊以外にも仏陀はいらっしゃる」という多仏思想が出てきました。

そして、釈尊のみを指していた”仏陀”という固有名詞が、ふたたび、一般名詞に還っていったわけなのです。

そうすると、”仏陀”という言葉は、

一般名詞(仏教以前)→固有名詞(釈尊のみ)→一般名詞(多仏思想)

という変遷を経たことになりますね。

部派仏教の時代では上述したように、「釈尊と自分たち(弟子)を同じ呼称で呼ぶのは畏れ多い」さらに、「釈尊の悟りと弟子の悟りはやっぱり違うのではないか?」ということで、目標とすべき境地も”阿羅漢”に固定していった経緯があります。

*原始釈尊の教団でもすでにこの傾向は出ていました。

大乗仏教興隆以前の(上座部系)部派仏教の一派の流れを汲んでいるのが現代の上座仏教(テーラワーダ仏教)ですので、かれらが目指している境地は”阿羅漢”であり、かつ、「仏陀は釈尊のみ」ということになっています。

ただ、前項で述べましたが、こうした部派仏教のありかたが、「独善的だ」という批判・アンチテーゼで大乗仏教の運動が起きてまいりましたので、部派仏教の徒が目標とする”阿羅漢”という呼称にもなんだか独善的なイメージがついてしまったのです。

そこで大乗仏教の徒は、自らの目標とすべき境地を”仏陀の悟り”に再設定したのですね。

そして次第に、阿羅漢の境地を目指す輩を”声聞(しょうもん)”と呼ぶようにもなりました。

ちなみに、「仏教はおおむね寛容な歴史を展開してきた」と冒頭で書きましたが、それは、「仏教以外でも悟った人はいる」という思想にも現れています。

仏陀:釈尊の教え以外の道をたどって悟ろうとする人たちを”縁覚(えんがく)”あるいは”辟支仏(びゃくしぶつ)”と呼びます。この”縁覚”も声聞同様に、「自らの悟りのみを求めている」というニュアンスが含まれています。

なので、初期の大乗経典では、声聞・縁覚・菩薩の3つが区別されており(三乗思想と言います)、さらに「彼ら(声聞と縁覚)の実践は利他の要素が欠けているので仏陀になることはできない」ということで、声聞と縁覚、とりわけ声聞を蔑視するような設定がお経にも反映されるようになりました。

その”声聞”の代表格が、釈尊の一番弟子である”シャーリプトラ(舎利弗)”でありますので、初期大乗経典では、けっこうシャーリプトラが道化役として設定されているという…いわば失礼な事態になっているわけです。有名な『維摩経』などはその一例です。

つまり、

シャーリプトラを虚仮(コケ)にする→声聞を虚仮にする→阿羅漢の悟りを虚仮にする→小乗仏教を虚仮にする

という意図があるわけなのです。

もっとも、大乗仏教でも『法華経』になると、声聞・縁覚・菩薩の三乗は方便であり、ただひとつの乗り物、”仏乗”のみ(一仏乗)があり、これら三乗の人々も仏陀になることができる、という思想に行き着きます。

まあ、いわば「余裕が出てきた」ということでもありましょう。

上座仏教(小乗仏教)の信仰対象は”釈迦一仏”、大乗仏教では”多仏”

信仰の対象としては、上座仏教では釈尊のみを”仏陀”としますので、信仰の対象ももちろん釈迦一仏ということになります。これは現代の上座仏教(テーラワーダ仏教)でも事情は同じです。

一方、大乗仏教においては、釈迦仏以外にも、阿弥陀如来とか毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とか…様々な仏陀が出現し、信仰の対象とします。

なぜこうなったか?と言うことについては、さまざまな歴史的経緯があります。

まず、根本的な信者(修行者)としての心情として、「釈尊がこの世からいなくなったのは寂しい」ということがあったでしょう。

そこで、釈尊の遺骨を祀っている仏塔(ストゥーパ)などに集まって、そこを礼拝の場所などにしていく動きが生じていきました。

ストゥーパ

仏教にはとくに仏伝(本生譚、ジャータカ物語)で、「過去七仏」の思想がありました。

過去七仏というのは、釈尊以前にも複数の仏陀たちが過去に存在したという思想です。

その思想から、「それでは、釈尊以前にも仏陀がいらっしゃったのであれば、未来にも仏陀が出現するのではないか」ということで、”未来仏”の思想もでてきたのですね。

有名なところでは、弥勒菩薩が現在、兜率天(とそつてん)で修行中で、56億7千万年後に新たな仏陀として下生する、という思想があります。

しかしまあ、「56億7千万年も待ってられないよ」というのが人間の自然な心情ではありますよね。

そこで、「現在においても釈迦仏以外の仏陀は世界のどこかにいらっしゃるはずだ」という希望的観測が出てくることになりました。

これはひとつには、仏陀になるためには、仏陀から「あなたは将来、仏陀になりますよ」というお墨付きが必要とされていることにも起因しています。このお墨付きを”記別(きべつ)”と言います。

ところが、釈迦仏はいらっしゃらないわけですから、記別の受けようがないですよね。

さらに困ったことには、「ひとつの世界(三千大千世界)にはひとりの仏陀しか出現しない」という考えがありましたので、「さて、それでは記別の受けようがないではないか」と修行者たちは困ってしまったわけです。

そこで信者は、トリッキーなことを思いつきます。

すなわち、「ひとつの世界(三千大千世界)以外にも世界はあるのではないか?」という、今風に言えば、パラレルワールドの思想と言うんですかね、そういうことを考えついたわけです。

たとえば、有名なところでは、この世界の西方には、阿弥陀如来の極楽浄土がある、という考えです。阿弥陀如来以外にも、薬師仏とか阿閦如来とか…いろいろ思いつきますが、まあ、阿弥陀仏が一番有名ですよね。

なので、釈迦仏から記別を得るのが不可能であるならば、パラレルワールド・極楽浄土などで記別を受ければ良い、ということになったわけです。

浄土系の思想については下記の記事をご参照ください。

*参考記事:”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで救われるのは本当なのか? – 極楽往生にも段階がある

一方、「多方世界にそれぞれの仏陀がいらっしゃる」という思想以外にもべつな展開が生じます。

釈尊は入滅してしまわれたが、その地上に生きていらっしゃった釈尊は仮の姿であり、本当の姿は”法”そのものであるのだ、という思想です。

  • 色身(しきしん):地上に現れている仏陀
  • 法身(ほっしん):法そのものとしての仏陀(仏陀の本質)

という”二身説”です。

この二身説がさらに展開していく流れもある(こうした分類法を”仏身論”と言います)のですが、本記事のテーマからはずれるところがありますので、今回は割愛しますね。

さて、上記の”法身”からさらに様々な考察がなされます。

法身、法そのものとしての存在ということであれば、これはもう「大宇宙に遍満する過去・現在・未来を貫いた仏陀、時間も空間も超越した仏陀というあり方があり得るのではないか」という思想に発展していきます。

有名なところでは、『法華経』の”久遠実成の仏陀”がその思想に近いですし、直接的には、『華厳経』における”毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、そしてそれを密教的に再解釈した”大日如来”などが想定されるようになります。

ここまで偉大極まる仏陀観になりますと、さまざまな仏陀たちも、大日如来のひとつの变化(へんげ)、現れである、という位置づけになります。

密教における曼荼羅なども大日如来を中心に、諸如来、諸菩薩、明王…などが”化身”として配置されていますよね。

曼荼羅

まあ、上座仏教からみると、「大乗仏教の仏陀(あるいは菩薩たちも)というのは後世のものでかつ”創作”なのだから、とうてい認められん!」ということになっております。

これはこれで大きな反撃ですよね。

そもそも、仏陀観に限らず、お経を創作したりしているので、大乗仏教は仏説ではない…という「大乗非仏説」が唱えられています。

この点については後述もしていきますが、かんたんに申し上げておきますと、

  • そもそも、釈迦仏以外にも仏陀はいるという過去七仏の思想は部派仏教の時代にあった
  • 上座仏教の経典・論蔵なども歴史的な改変を免れているわけではない

という打ち返しができます。

そして一番大きな反論としては、”法性(ほっしょう)”の思想が初期仏教からあったという事実です。

”法性”というのは、これは、「法に適っていればそれは仏説として認められる」という、これも初期仏教から存在した思想です。

そうであるならば、修業によって新たに真理を認識し、体得した人が書きあらわしたものは仏説、経典と認められうる、という考えもあるわけです。そして、この考えはかなり正当性があると思われます。

仏教というのは、仏陀が説いた教えであるとともに、「仏陀になるための教え」でもあります。

なので、地域や時代性に応じた仏説というのはやはりあるべきであるし、仏陀の理想が「あまねく衆生を救済したい」ということであれば、上述した多仏思想なども正当化されうると考えます。

この点、『ブッダたちの仏教』(並川孝儀著)は、かなり説得力のある論を展開しておりますので、興味あるかたにはご一読をお勧めいたします。

ブッダたちの仏教

上座仏教(小乗仏教)の修行は”四諦八正道”、大乗仏教の修行は”六波羅蜜多”

次に、修行方法について検討していきます。

タイトル通りに、

  • 上座仏教:四諦八正道
  • 大乗仏教:六波羅蜜多

というのは、簡略化し過ぎのきらいもありますが、まあ修行方法の中心ということであれば、成り立つ考察だろうと思えます。

四諦八正道と六波羅蜜(六波羅蜜)について説明していると、それだけで1−2記事になってしまいますので、詳しいところはそれぞれ下記の記事をご参照ください。

*参考記事①:四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方
*参考記事②:行深般若波羅蜜多時 – 六波羅蜜多の実践スパイラル

四諦八正道は、苦・集・滅・道の順序の通り、重点としては最後の(苦の解決策であるところの)八正道に重点があると考えて良いでしょう。

八正道の各項目については、やはりどちらかというと「〜ではなかったか?」という内省的な振り返りであって、積極的に「こうしなさい」という行動指針にウエイトがあるわけではありません。

たとえば、正語については、不妄語(嘘をついてはならない)・不悪口(悪口を言ってはならない)・不両舌(二枚舌を使ってはならない)・不綺語(無駄話をしてはならない)、となっておりまして、これらは抑止事項ですよね。

言葉としては、「善を進める」ということで、実践を重視するのであれば、”真実語”を含めるのもひとつですが、少なくとも直接的にはこの項目には含まれておりません。

対して、六波羅蜜多(六波羅蜜)においては、筆頭に”布施波羅蜜”が来ております。

”布施”は現代的言えば、衆生の利益(りやく)になる実践をしていく、ということで、これはキリスト教的に言えば、「隣人愛の実践」です。

また、闡提波羅蜜(せんだいはらみつ)というのは、別名、「耐え忍びの完成」と言いますが、これが6項目のひとつに入っているのは、やはり、「仏法の広宣流布」が念頭にあるからでしょう。

伝道をしていると様々な誤解や嘲笑を受けることもあります。そこで、「これらも修行だと思い、耐え忍びなさい、受け流しなさい」という趣旨が含まれているわけですね。つまり、やはり”実践”が前提となった項目であるのです。

やはり、六波羅蜜多はまさに菩薩道、菩薩の実践業として重視されていたと考えて良いでしょう。

六波羅蜜については、初期仏教から見られる、あるいは、初期仏教においては”十波羅蜜”まで説かれていた!と誇らしげに主張するテーラワーダ仏教の方もいらっしゃるのですが、経典に出てくる頻度などを考えると、やはり”修行の中心”として重視されていたとは思えません。

修行論としてはあとは戒律の問題があり、

  • 上座仏教(小乗仏教):五戒
  • 大乗仏教:十善戒

という分け方もできそうですが、出家という観点からは、比丘の250戒、比丘尼の348戒ということで、授戒についてはおおむね共有していると言えます。

”おおむね”というのは、日本の最澄が尽力した大乗戒なども存在するから、なのですが、これはまあ日本独自の展開と考えて良いでしょう。

以上、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違い」ということで、4項目挙げてみましたが、分類の仕方によってはまだまだ挙げることもできます。

「無我と空」についても比較のテーマにできますが、こちらは、「上座仏教と大乗仏教の違いを乗り越える」理論の方で考察してみたいと思います。

無我については、テーラワーダ仏教におけるヴィパッサナー瞑想の対象である”三相”に含まれています。

三相は、

  • 無常
  • 無我

の3つですね。

対して、大乗仏教に入ってから、正式に(?)整えられた三法印に、

  • 諸行無常
  • 諸法無我
  • 涅槃寂静

があり、それに

  • 一切行苦

を加えた四法印になると、結局、「四法印と、初期仏教の三相は共有されている」と考えることができますからね。

上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教をいかに総合するか?

さて、ここまでで上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いについて書いてまいりました。

ここからは、「上座仏教と大乗仏教の違いは違いとして認めつつも、どのようにして一段高い視点から総合されうるか」というテーマで書いてみたいと思います。

そのために、上記で挙げさせて頂いた4つの観点ですね、

  1. 上座仏教(小乗仏教)は”自利”中心、大乗仏教は”利他”中心
  2. 上座仏教(小乗仏教)は”阿羅漢(アラカン)”を、大乗仏教は”仏陀”を目標にする
  3. 上座仏教(小乗仏教)の信仰対象は”釈迦一仏”、大乗仏教では”多仏”
  4. 上座仏教(小乗仏教)の修行は”四諦八正道”、大乗仏教の修行は”六波羅蜜多”

これらを順に検討していきたいと思います。

”自利利他円満”のために涅槃解釈を更新する

わりと平凡な結論ではありますが、やはりまずは、

  • 上座仏教(小乗仏教):自利中心
  • 大乗仏教:利他中心

のところを総合して、”自利利他”をいかに実現させるか?というところに焦点を当ててみたいと思います。

釈尊オリジナルの仏教においては、自利と利他の両者が実現・実践されていたと見て間違いないと思います。これを自利利他円満と言います。

そもそも、釈尊が大悟した際に、そのまま「一人悟り」でも良かったわけです。

ところが、”梵天勧請(ぼんてんかんじょう)”ということがありまして、これは説法をためらわれていた釈尊に、梵天が「どうぞ法をお説きください」と懇願したのですね。

そして釈尊は「衆生の利益(りやく)のために」法の広宣流布を決意されたわけです。そして、最初の説法、初転法輪(しょてんぽうりん)へと繋がっていき、その後、入滅まで45年間、釈尊は法を説き続けたのでした。

初転法輪

釈尊の時代はやや出家中心のウエイトではあったかもしれませんが、決して在家信者がおろそかになっていたわけではありません。

出家者が在家者の家々をまわって”乞食(こつじき)”をしたのも、「食べるため」の目的以外に、「在家信者に布施の実践の機会を与えるため」という側面がありました。

いわば、「布施の機会を与えるという布施行」です。布施は”利他”と置き換えることも可能ですので、「利他の機会を与えるという利他」と言い換えることもできますね。

そして、もちろん、在家信者に対しても法を説いておりました。

説法の内容として有名なものは、三論(さんろん)として知られる”施論・戒論・生天論(せろんかいろんしょうてんろん”です。

これは、かんたんに言えば、

  • 施論:善いことをして
  • 戒論:悪いことをしなければ
  • 生天論:来世は天界に生まれることができる

という、超ストレートな説法です。

少し話がはずれるようですが、この三論の説法からして、「釈尊は霊魂の存在を否定した」とか「釈尊は輪廻転生を否定した」という学説(?)が可怪しなものであることが分かります。

「天界に生まれる」という時点で、輪廻を前提としておりますし(インドでは来世、別の世界に赴くことも「生まれる」と表現します)、また、来世天界に生まれるためには、赴くための主体すなわち”魂”が必要ですよね。

ここのところ、「釈尊は無我を説いたのだから、永遠不滅の我(われ)=魂という実体はない」などという学説が長らく学会にも行き渡ってきておりましたが、今となってはなんとも荒唐無稽な学説だと思います。

以下の記事で詳細に反論しておりますので、よろしければ参考になさってください。

*参考記事①:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
*参考記事②:仏教は輪廻転生を否定していない – 解脱論のベースとしての輪廻

ちょっと脇に逸れたようですが、けっこう「仏教無霊魂説」は根深く残っていますので、一応、確認です。

さて、自利利他の方へ話を戻します。

私は、自利利他を実現するための根本思想として”涅槃”の解釈を更新する必要があると思っています。「更新」と言いますか、実際のところは、(文献的に辿るのが難しいにせよ)、「仏陀の真意に立ち返る」ということなのですけどね。

一般に、「仏教は輪廻からの解脱を目指す」と言われています。たしかに仏典には、「もはや迷いの生は尽きた」といった文言があちこちに見られます。

涅槃というのは、「解脱の結果、(煩悩が吹き消されて)得られる平安な境地」ですので、まずはこの”解脱”ですね、ここを再検討してみます。

結論から申し上げれば、「仏教は輪廻からの解脱を目指す」というのは、間違いとまでは言いませんけれど、かなり誤解を含んだ理解になっていると思います。

ポイントは、「迷いの生が尽きた」の”迷いの”のところです。

これは逆に言えば、「迷いの生でなければ、輪廻も肯定されうる」という可能性を示唆しています。

実際、「解脱して涅槃を得て、生命はどうなってしまうのか?」。仏教を随分と勉強された方であっても、的確に説明することができるでしょうか?

生命は雲散霧消してしまうのでしょうか?それが本当に修行の目的なのでしょうか?

「そうではない」と私は思います。

そうではなく、「迷いの生から悟りの生へ移行する」ということなのです。輪廻をからめて言えば、「迷いの輪廻から悟りの輪廻へ移行する」あるいは「受動的な輪廻から主体的な輪廻へ移行する」という理解です。

結局、カルマに突き動かされた”受け身”の状態で、ぐるぐると洗濯機に回されるように輪廻をしている状態が問題であるということです。

そうではなく、生老病死から逃れられないこの世の実人生の意味を深く見抜いているところにキモがあるのです。

そのためには、立脚点をこの世におかず、別の観点からこの世を逆照射して観察することが肝要なのです。

別の観点とはなにか?

それは、「来世の観点」「あの世の観点」、ネオ仏法的に言えば、「実在界の観点」です。

私たちの本当の有り様は、老病死がまとわりつかない”実在界”における生が本拠地なのです。

実在界では私たちは、「個性あるエネルギー存在」「思惟するエネルギー存在」として”在り”ます。

デカルトは人間を「思惟する精神と延長する物体」と二つに分けて考えました。

エネルギーであるということは、「思惟する精神」のみの存在に移行するということなのです。これが実在界での在り様です。

精神

逆に、この世においては、肉体を持っており、肉体は物体のひとつですので、”延長”という性質から逃れることはできないのです。

この場合の”延長”とは、単に「延びる」だけではなく、「消滅を含むところのあらゆる形態の変化」を意味しています。

そう、「消滅を含むところのあらゆる形態の変化」が(肉体を持った)この世の生に不可避的に付随しているからこそ、「老病死の苦しみ」があるのです。

ところが、「思惟する精神」には”延長”という概念・性質がありません。これは逆に言えば、「老病死の苦しみがない」ということなのです。これが実在界での生の本質です。

そして、実在界こそが私たちの本拠地であるならば、「思惟する精神」のあり方こそが、私たちの本当のあり方なのです。用語を戻せば、「知性あるエネルギー存在」こそが私たちの本当のあり方である、ということです。

そこには「生老病死」の苦しみもなければ、”八苦”、愛別離苦・怨憎会苦などの苦しみもありません。

なぜならば、精神エネルギーには「精神の状態に応じた波動を持つ」という性質があり、波動の違う魂とは接する機会がないのが、実在界での基本的な在り方だからです。

実在界は、波動の性質が似た者同士が惹かれ合い、それぞれの世界を形成しているのです。それが「善悪」を基準にすれば、おおざっぱに「天国と地獄」に分かれるということなのですね。

波動の似通った者同士が「老病死」から解き放たれた状態で過ごすわけですから、少なくとも天国領域に住む魂にとっては、安楽な世界であるのです。まさに”涅槃”の状態です。

ところが、安楽ではあるものの「波動の似通った者同士」がずっと一緒に住んでいると、刺激が足りないと申しますか、だんだんと飽きてくる面がありますよね。

そこで、ときおり、肉体をもってこの世(現象界)に生まれてくるのです。

肉体を持つことによって、波動が違う魂とも接することになります。ご飯を食べなければいけませんので、働かなくてはならない。…ということは、職場や学校における「怨憎会苦・愛別離苦」などの状況が生じてくるということです。

一方で、嫌なことばかりでなく、実在界では会えないような霊格の高い人とも会うことができますし、今までの自分とは違う趣味・関心領域をもった魂とも出会うことができます。

そこに大きな学びがあり、魂の飛躍的進化の機会が生じることになるのです。もっといえば、「怨憎会苦」すなわち「嫌な人と会う苦しみ」というのも、ある意味で”勉強”の機会になりうるのです。

このように、「この世(現象界)にわざわざ生まれてくる意味とミッション」を知ることによって、この世の生命活動を最大限に意義あるものにしていくことが可能になってくるのです。

ここのところ、「人生の意味とミッション」についてはぜひ下記の記事をお読み頂ければ、と思います。「目からウロコ」の連続になると思います。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

実在界での生が本当の在り方である、と知ることは、文字通り、”本来性”を取り戻すことに繋がります。

この世・現象界は魂の学びのための仮の世界と知ることによって、はじめて「不死の門」をくぐることができるのです。

耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。(サンユッタニカーヤ)

言葉を換えれば、この世・現象界は、智慧の獲得と慈悲の発揮という「人生の意味とミッション」のために生まれてくるということです。

この智慧と慈悲は宇宙の二大原理でもあり、またそれぞれが、

  • 智慧:自利
  • 慈悲:利他

に相応しています。

そう、智慧と慈悲が「人生の意味とミッションである」と深く知ることによって、自利と利他の歯車が噛み合ってくるのです。

このように、実在界に立脚点を置くことによって四苦八苦を実質的に克服していくことができます。出来事としての四苦八苦は存在しますが、超越した平安な視点からその”意味合い”を最大限に活かせることになるということなのです。

これが実は本当の意味での”解脱”であり、”涅槃”なのです。ここにおいて、輪廻は受動的な輪廻から、主体的な積極的な意味を帯びた輪廻へ転換することになります。

そして、自利と利他、言葉を換えれば、智慧と慈悲でしたね、これらが別個のものではなく、一体のものであることを知るようになります。これが”自利利他円満”です。智慧即慈悲です。

そしてこの悟りがいわば、”小乗即大乗”、本記事のタイトルであるところの「上座仏教と大乗仏教を総合する」道になっていきます。

阿羅漢=仏陀の図式に戻す

「上座仏教は阿羅漢を目指し、大乗仏教は仏陀の悟りを目指す」と上述しました。

しかし、これも上述したことですが、釈尊の仏教では実際は、阿羅漢も仏陀もそれほど区別して用いられていた用語ではなかったのです。少なくとも初期の頃はそうでした。

そして、釈尊は「甘露(不死)の門は開かれた」と仏説の広宣流布宣言をしており、弟子たちもそれに従っていたわけなのですから、阿羅漢と仏陀、どちらの名称を使うのであれ、仏陀教団では本来は、自利利他の双方を兼ね備えていたわけです。

なので、時代が下って、

  • 阿羅漢:自らの悟りを求める(上座仏教)
  • 菩薩:仏陀の悟りを目指しつつ、衆生救済に重点を置く(大乗仏教)

というふうに対比されますが、そもそも、釈尊の真意からいけば、両者を分けること自体に問題があると考えることができましょう。

なので、もう一度、阿羅漢と仏陀の区別を廃止して、目指すべき境地は”自利利他円満”を兼ね備えた仏陀の境地、に統合してしまえばいいと思います。

実際は、大乗仏教の自利利他解釈にも若干の問題があると私は思っています。それは”涅槃”観に現れているのですけどね。

大乗仏教では、ちょっとむずかしい漢字ですが、”無住処涅槃(むじゅうしょねはん)”という言い方をすることがあります。

無住処涅槃というのは、「涅槃という境地に安住しない涅槃」とでも言いましょうか。

でもこの解釈には、裏を返せば、「涅槃に留まることは自利に留まることである」という価値観が明らかに潜んでいます。

しかし、もともとの釈尊の悟り、これを涅槃と言ってもいいですが、繰り返し申し上げているように自利利他円満なのですから、本当の意味で涅槃に入ったのであれば、それは必然的に利他を含んでいるものなのです。

こうした大乗仏教の、いわば「自利軽視」はやはり若干、問題があると思いますね。

ここで聖書を引用するの違和感があるかもですが、

盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(「マタイによる福音書」15章14節)

というイエスの言葉があります。

これを援用すれば、「涅槃を得ていない者は、他の人を涅槃へ導くことはできない」ということになります。

なので、”無住処涅槃”という言葉自体に、矛盾があるとも考えられます。

もっとも、この問題の”涅槃”そのものについても、大きな誤解があると私は思っていますが、それは上述致しました。

復習で申し上げておきますと、涅槃とは、「実在世界の価値観に立脚点をおきつつ、この現象世界(この世)の四苦八苦を転じて智慧とすることができる境地」ということです。

実在世界にはいくつかの段階がありますので、人にはそれぞれ、「その人なりの涅槃」があるといういうことになります。

なので、涅槃に入らなければ人を導けないのであれば、永遠に人を導けそうにない…という考えも間違っているのです。自らの霊格に応じた”涅槃”に入ることによって、自利利他円満は実現できるということです。

そして、そこにおいて、自利→利他→自利→利他……というふうに、スパイラル状に自利利他の質と量も高まっていくというわけです。

スパイラル

一即多多即一

さて、次に3点目です。信仰対象は、

  • 上座仏教:釈迦一仏
  • 大乗仏教:多仏

という傾向があると上述しました。

そして、”多仏”の根拠のひとつとして、二身説、すなわち、

  • 色身:地上に現れている仏陀
  • 法身:法そのものとしての仏陀(仏陀の本質)

が使われている、という指摘も致しました。

『世界大百科事典 第2版』(平凡社)で”色身”を調べると、下記の記述となっています。

…しかしその場合でも,法(真理)の絶対性は失われず,仏は真理の体現者(如来,すなわち如=真理に来至し,また如より来至する者)とされている。仏の本質は法そのもので(法身),諸仏はその具体的顕現である(色身)。

この解説によると、元(仏の本質)は一つであるが、地上(あるいは実在界)に顕現するときに、方便として様々な仏陀の姿を取りうる、ということでしょう。これが、法身と色身の関係です。

例えていえば、粘土の塊がひとつあったとします。

ところが、ちぎっていけば、無数に近いくらいの小さな、個別的な粘土にもなりえますよね。そしてそれら個別的な粘土も、こね合わせれば、また一つの粘土に戻ります。

言い換えれば、「一が多になり、多が一になる」ということです。これは大乗仏教でも”華厳宗”系統の思想でもありますが、「一即多多即一(いっそくたたそくいつ)」という仏教用語にもなっています。

華厳宗では、一なる仏を毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)/マハーヴァイローチャナと呼んでいます。奈良の大仏はじつはこの毘盧遮那仏なのです。

この毘盧遮那仏が密教的に再解釈されて大日如来という名称になりました。

曼荼羅(マンダラ)をご覧いただくとお分かりのように、大日如来のまわりに諸如来、諸菩薩、諸明王が配置されています。これは、「大日如来と一族郎党」ということではなく(まあそうとも言えますが)、「大日如来が様々に化身して、諸如来・諸菩薩・諸明王になるのだ」という思想が表現されているのですね。

まさに、一即多多即一です。

曼荼羅

そのように考えると、仏教の開祖はもちろん釈迦仏(釈尊)で間違いはありませんが、釈迦仏も法身の現れのひとつ(色身)である、というふうになりますので、一仏と多仏は矛盾しない、という結論を導くことができます。

そんな強引な…と思われるかもしれませんが、多神教的な風土では割合によくある考え方でもあるのですよ。じつは、ヒンズー教では釈尊もヴィシュヌ神の化身とされています。

こうした一即多多即一の思想は、上座仏教と大乗仏教の関係のみならず、世界の諸宗教・諸思想を総合していくおおきな契機になっていくとネオ仏法では考えています。

結論をもう一度、まとめますと、「釈迦一仏も多仏も、法身の顕現(色身)というふうに考えれば、たがいに個性を尊重し合いつつ、総合していくことができる」ということになります。

六波羅蜜と八正道の融合

さて、では最後の「修行方法」の観点から考察してみます。

  • 上座仏教:八正道中心
  • 大乗仏教:六波羅蜜中心(実践原理→利他)

ということでしたね。

まあこれも、いわば、

  • 八正道:内省原理→自利
  • 六波羅蜜:実践原理→利他

ということで、「自利か利他か?」という問題に置き換えることができます。

そして、釈尊の真意においては、自利と利他を分離して考えない”自利利他円満”が本来の修行論である、ということはすでに述べましたね。

つまり、「自利即利他」であるということです。

これを八正道と六波羅蜜に代入してみると、「八正道即六波羅蜜」ということになります。内省原理と実践原理をひと繋がりのものとして総合していくということですね。

では、具体的には、どう考えたら良いのか?

私は、六波羅蜜のなかの”禅定波羅蜜”に八正道を組み込んでしまえばいい、と考えます。

考えてみれば、”内省”と言っても、実践から切り離された内省にどれほどの意味があるのか?という観点がありますよね。

部屋に一人でずっとこもりっきりで内省!と言っても、それではそもそも内省するネタがあまりないということになります。

実践しているからこそ、他者や社会からのレスポンスもあり、内省すべきことがたくさん出てきます。

そもそも、内省というのも、心の”動き”である以上、これは実践の一形態であるとも考えられるわけです。

そうであれば、六波羅蜜のなかに八正道を組み込んでいくことはむしろ理にかなっている言えるのではないでしょうか?

このようにして、六波羅蜜の”果実”とでも言うべき、般若波羅蜜の内実も豊かになっていくのです。

般若の智慧は、言葉を換えれば、「空(くう)の悟り」ということです。

空というのは「何もない」という意味ではなく、仏の智慧と慈悲が自己展開している様(さま)を表しています。ここらへん、伝統的な「空理解」と違っているようですが、詳しくは下記の記事をご参照ください。

*参考記事:色即是空 空即是色 の違いと意味は?-『般若心経』の悟りを超える新解釈

真理は全体です。部分であるのであれば、それは例外領域が生じてしまいますので、それはすでに真理ではない。ゆえに、真理は常に全体なのです。

そして、全体は同時に仏自身でもあり、それは智慧と慈悲を内実とするもの、すなわち”空”であるのです。

そうであれば、私たち一人ひとりの”個”というものも、空という全体性から切り離されたものではなく、空の内実のひとつであるということになります。

智慧と慈悲はスタティック(静的)なものではなく、つねに展開しているダイナミック(動的)なものです。

動的であるということは、つねに作用してやまないもの、実践原理そのものであるということです。そして、”内省”も実践原理の一形態であるならば、ここにおいて、六波羅蜜と八正道は総合されることになります。

以上、「上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教を総合するネオ仏法」というテーマで考察してきました。

ネオ仏法の”ネオ(Neo)”は「新しい」という意味ですが、同時に「復活」という意味もあります。つまり、釈尊の真意を復活させつつ新時代に適応するようにアップデートを施しているということです。

ゆえにネオ仏法は、狭義の”仏教”という枠組みさえも超えていきます。ぜひ、ともに学んでまいりましょう。

ネオ仏法

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