「現象界での成功と実在界での成功をLINKさせる」ということは、本来の仏教的精神そのもの
用語としては、現象界=この世、実在界=あの世、ということになります。
珍しいことを言っているようですが、実はコレ、本来の仏教的精神そのものなんです。
- 原始仏教においても、この世で悟りを得ることがすなわち、苦しみの輪廻からの解脱(げだつ)、という理解であった。
- 天台教学の十界論(じっかいろん)では、この世の心境とあの世の心境が一致している、と考える。
と、教学的には2つ挙げておきます。
が、これではよく分からないですよね。笑
まず、2.の論点からご説明します。当サイトで実によく使っている十界論の構造をもう一度ながめてみましょう。
*参考記事:「 天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」
この世(現象界)でどのように生きてきたのか、その心の平均値が、あの世(実在界)で住む世界が決定されるということでしたね。
上の世界から順に書きますね。
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仏界(ぶっかい)・・・ほとけ、如来
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菩薩界(ぼさつかい)・・・利他に生きる境地
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縁覚界(えんがくかい)・・・自意識的な悟りの境地
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声聞界(しょうもんかい)・・・真理の縁にふれて学ぶ境地
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天界(てんかい)・・・もろもろの喜びの境地
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人界(にんかい)・・・平均的な人間の境地
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修羅界(しゅらかい)・・・喧嘩上等の境地
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畜生界(ちくしょうかい)・・・欲望のままの境地
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餓鬼界(がきかい)・・・貪り(むさぼり)多い境地
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地獄界(じごくかい)・・・上記以下の地獄すべて、最下層は無間地獄(むけんじごく)
この十界論で言うと、「自分らしく成功したい」「きらきらと輝いて生きていきたい」「わくわく成功したい」という境地は「天界」に相当することになります(まあ、とりあえずそう仮定してみてください)。
くだいて言うと、その発想は「一般ピーポーから抜けだして、もっと輝きたいんだ!」ということであって、それは要するに「人界」から「天界」へ移行したい、ということなんですね。
実在界を信じている/信じていないに関わらず、結果的に、です。
ところが、ココで問題が生じがちです。
つまり、実在界(あの世)の存在と階層構造を知っていないと、「成功しているつもりが蓋を開けてみたら(つまり死後、精神界へ行ってみたら)、真っ逆さまに下の世界へ行ってしまった!Σ(゚Д゚)」ということがありえるんです。
そして、この世(現象界)が仮の世界であり、あの世(実在界)こそが本当のスピリットとしての生存の世界であるならば、それは結局、失敗であったということになりますよね。成功したつもりでいたのが…。
この世とあの世を貫いて、本当に自分自身であると言えるのは、「あなたの心・精神だけ」、なんです。
ゆえに、この世の外面的な(物質的な)成功だけに気を取られてしまうと、「とんでもない心」(=つまりそれが、あなた自身)をあの世に持って還ってしまう可能性があるというわけです。
たとえば、「人をちょっと騙しても、成功してお金をたっぷり稼げればいいや」という精神性で暮らしていくと、この世では成功するかもしれません。
念を集中すれば、善悪にかかわらず実現してしまうので、それは当たり前に有り得ることです。
ところが、心=あなた、という公式に当てはめると、あの世に持って還ってしまうのは、
- 「人をちょっと騙して、成功しても」
の部分になってしまいます。
これは、実在界の階層でいえば、やはり、地獄界・餓鬼界・畜生界などの世界に還ることになってしまいます。これが本当に成功と言えるのでしょうか?
一方、
- 「お金をたっぷり稼げれば」
のところは、実現するかもしれませんが、お金はあの世に持って還れないんです。
ゆえに、こうしたこの世に基づいた発想(肉体自我的人生観)は損得で考えても、割に合わないんですよ。
成功していたつもりが、失敗になってしまう原因とは
それではなぜ、成功していたつもりが失敗になってしまったのか、を順を追ってご説明しますと、
- この世(現象界)を去って、あの世(実在界)へ持っていけるものが心しかないのに、持っていくことのできない外面的なもの(お金、高級車、高級マンション、ステータス、名声など)を追い求めてしまった。
- その原因は、そもそも、あの世なんてあると思っていなかった。
- ゆえに、この世の心境とあの世の階層が一致しているなんて、思いもよらなかった。
- したがって、スピリチュアルな真理を学ぶ重要性なんて考えたこともなかった。
ということですね。
「それならそれで、神様はなぜもっと分かりやすく言ってくれないのか。居るならいるで誰もが見えるように姿を現して、語ってくださいよ」という疑問もありますよね。
でも…。
目に見えるモノ=物体を物体として認める、という心境には何の尊さもないんです。誰にでも確認できるんだからアタリマエのことですよね。
この物質世界に生きておりながら、目に見えないスピリチュアルな価値を信じることができるから尊いんです。
そして、物質界に肉体を持って生まれるということは、まさにそれを試されているのですね。
「物質の世界にあっても、あなたはスピリット(魂)としての自覚が持てるか」という試験(テスト)。
ゆえに、できたら一日一回、週一回、月一回でも、上記の十界の構造を思い出すと良いんです。
「今日の(今週の/今月の)心境でこの世を去ったとしたら、十界のどこの世界に行くことになるかな?」というふうに。
そのために、内省とか瞑想、そして内省の基準になる真理知識の吸収が大事なんですね。
そして、
その、「では、真理知識の勉強をしよう」と思い立った時、あなたは実は天界を通り越して声聞界にいるのです。「きらきら自己実現」する天界より上の世界です。今、まさに。
そして、思い立った時→→→いつも思えるようになる、それが喜びであるというふうに習慣化されると、この世を去っても声聞界へ赴くことになります。
解脱(げだつ)、涅槃(ねはん)のほんとうの意味とは
ここが実は冒頭の1.の論点でもありまして、
この世でそうした真理知識の大切さに目覚める(=菩提心→一定の悟りを得る)ことが、この世を去った世界、さらには次に輪廻転生した世界へも思いを致すことになり、単なるカルマの刈り取り型人生から抜け出すきっかけになるんですね。
解脱(げだつ)というのは、この世の現象界に生きながらにして、王道スピリチュアル的価値観(本来の仏教的価値観)を持って生きることのできる心の自由性を指している言葉なんです、本来は。
ちなみに、解脱(げだつ)した結果、得た安らぎの境地を涅槃(ねはん)と理解すれば良いと思います。
この世の現象界に生きておりながら、一定の悟りを得て解脱し、涅槃の境地を得ることを仏教の専門用語では、有余涅槃(うよねはん)と言います。
「有余」というのは、「いまだ肉体が有る」、その状態での涅槃なので有余涅槃と言うのですね。
*有余依涅槃(うよえねはん)とも言う
涅槃の種類がまた沢山ありまして、それはまた別記事で書きますが、
いろいろな涅槃があってもベストな涅槃は、現象界に生存しながら涅槃を得てしまう有余涅槃がベストかと思います。
死んで実在界に入ってから真理に気づくことは比較的容易ですからね。この世にいながらにして気づくほうが当然レベルが高いのです。
長くなりましたが、タイトルに戻りますと、
「現象界での成功と実在界での成功をLINKさせる」こと。これを時折、意識している人、意識していない人、では決定的な差がつくということになります。
そして、いかに「現象界での成功と実在界での成功をLINKさせる」か?が、ネオ仏法のテーマでもあります。
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