共業(ぐうごう)と不共業(ふぐうごう)の意味は?
原因と結果の法則によって運命が作られてゆくこと。これを、仏教では”カルマ”あるいは”業(ごう)”と呼んでいます。
ちなみに、本来の、”カルマ”・”業”は「行い」というだけの意味だったのですが、そこから、「行いによって派生した結果」というところまでカバーするようになっていきました。
”カルマ”とか”業”というと、なにかしら運命論のイメージがありますが、「原因と結果の法則」ということでありますので、これは運命論というよりは、自己責任論・主体性の原理に関わってくる仏教思想です。
業(カルマ)は、大別して下記の2種類があります。
- 不共業(ふぐうごう)
- 共業(ぐうごう)
それではまず、それぞれを簡単にご説明してまいります。
不共業(ふぐうごう)
”共業”は文字通り「共なる業でない」ということで、個人の業・カルマのことですね。
個人の運命は、過去世をも含めた原因結果の法則に左右されるという考え方です。
これは、通常の業・カルマのことですので、今回は深入りする説明はする必要はないかと思います。
詳しく知りたい方は、下記の記事をご参照ください。
*参考記事:十二縁起(十二因縁/十二支縁起)の分かりやすい覚え方と現代的意義
共業(ぐうごう)
”共業”も文字通り「共なる業」ということで、これは、ある共同体全体の業のことを指します。集合無意識としてのカルマと呼んでも良いでしょう。
共同体とは、小さい順から並べると、家族、地域社会、国家、そして、全世界までをも指すことになります。
こちらの共業も、やはり運命論ではなく、共同体としての自己責任論・主体性の原理と理解することが肝要です。
共業が天変地異・疫病蔓延の原因だった
近年、世界的な規模で天変地異が多発していますし、この日本でも大規模な震災が起きています。
こうした大災害そのものが大きな悲劇ですし、また、突発的に家族や親族、友人などを亡くされる悲しみは、仮に真理を知っていたとしても、やはり、なかなか癒やし難いものはありますよね。
ただ、そうであったとしても、やはり、「なぜ、こういうことが起きるのか」という根本原因を知らなくてはいけません。
根本的な原因を特定することなしには根本的な対策の打ちようがありませんし、また新たな悲劇を引き起こすことになるからです。
起きている現象にはすべて、原因があって結果があります。
この原因・結果の法則は、仏教では、”縁起の理”ということでよく説明されております。
*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる
実は、まさにこの、共業のところが天変地異・疫病蔓延の原因ということになります。
これは、国家であれば、そこに住んでいるところの国民全体の集合意識ですね。
この集合意識がいかなるものであるか、いかなる性質を持っているものであるか、がひとつの原因となり、その原因にふさわしい結果を招くことになります。
つまり、
集合意識が善であれば、善なる結果を引き寄せ、集合意識が悪(真理に馴染まないもの)であるならば、それ相応の結果を招く
ということです。
科学全盛以前の時代においては、天変地異が起きると「為政者の徳が足りない」とか「国民の思いと行いに問題がある」という反省がはいっていまして、実際は、その考え方のほうが真理なんです。
すごく古臭い、原始的・呪術的なイメージですが、ほんとうに、こちらのほうが真理なのですね。
そういう意味では、むかしの人のほうがずっと霊的に進んでいて、むしろそういう面では、現代人のほうが退化しているとも言えます。
なので、震災が起きるたびに、慰霊をすることももちろん大事なのですが、それだけでは根本解決にならないのです。
やはり、今回の文明で溜めに溜め込んだ悪の集合意識の集積というのは、なかなか一朝一夕には解消することは難しいです。
共業を克服する方法は、真理を知ること、伝えること
悪の集合意識の中で最たるものが、唯物論です。
唯物論では、人間であっても”モノ”としか認識されませんので、やはりどうしても自分も他人も”モノ”の一種、という観念からなかなか抜け出すことができません。
なので、唯物論の牙城である共産主義国では、同調しない者に対して大量の粛清が行われるのです。
これは、為政者にとっては、人民をモノ=部品として認識しているので、不良部品は躊躇することなく排除する方向へ行くことになります。まさに、文字通り、「不良分子」扱いというわけです。
こうした直接的な出方でないにせよ、唯物的人生観(自我意識に基づく人生観)からは、やはり悪の意識が出やすいのです。
この世の人生を有限なものとして見るから、自分と他人は別個のものとして見るから、そこにワガママが発生することになります。
ところが、真理スピリチュアル的人生観をもてば、損得勘定で考えたとしても、善因善果・悪因悪果を知っていますので、悪なる思いと行いは損である、ということで、歯止めがかかるのです。
知らないということは、歯止めがかからないということです。
「知って侵す罪よりも知らないで犯す罪のほうが重い」と言われるのは、まさにココが原因なのですね、歯止めがかからないということ。
また、真理スピリチュアル的真理を知っていることによって、仮に天変地異・疫病で命を失ったとしても、永遠の生命という観点からは救いが入ることになります。
この地上での生活は仮のものであり、本来の私たちの住むべき世界は、実在界(スピリチュアルワールド・あの世)です。
このたったひとつの真理を知っているだけで、亡くなった本人も残された家族もどれだけ癒やされるか、救いになるか、計り知れません。
こうした真理をまったく知らずに、あっという間に地上生命が絶たれてしまうと、本当に行き場がないのですね。
そして、家族に聞こうと思っても、家族も真理を知らなければ教えてあげることもできません。
では、もう一度、不共業(ふぐうごう)と天変地異・疫病の蔓延の原因を整理しておきましょう。
- 共業とは、共同体の集合意識のカルマである
- 集合意識の性質によって、またその集積によって反作用が起きてくること。これが天変地異・疫病の原因である
- ゆえに、根本解決としては、やはり真理を知らなければならない
ということでした。
この記事を読んで、「そうなのかもしれない」と少しでも思っていただけるならば、たとえば、すでに亡くなられている方に対して、思いの中で大丈夫ですので、伝えていただきたいのです。
- この世(現象界)は仮の世界であること
- 肉体はいわば仮の乗り物なので、死後も痛みを引きずる必要はないということ
- 本来の世界は、あの世(実在界)であること
- 縁起はくらますことができず、実在界まで含めれば、善因善果・悪因悪果は確定しているということ
- ということは、悪い結果を引き寄せているとすれば、内省(悔い改め)が必要であること
- 内省をすることができれば、生命エネルギーの波動が変わるので、いわゆる天国へ戻ることができること
- そもそも、天国こそが本来の住むべき世界であるということ
こういった内容です。
こうした基本的な「人生の意味とミッション」については、ぜひ下記の記事を一読されることをお勧めいたします。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
また、今地上に生きている家族・友人・知人に知らせることが大切です、これが未来への予防策になります。
「こういうこと、言うのは恥ずかしいなあ」と思われるのであれば、「ちょっと、こないだこういう考え方を聞いたんだけどね」という又聞き的な物言いなら言いやすいですよね。
これでも、やらないよりやったほうが全然マシなんです。
「どこかでこういうことを聞いたことがある」というのが、いつかの時点で救いになるからです。
さて、
たとえば日本の中でも、特定の地域の、特定の方が亡くなったということは、その地域全域に住んでいる方々の集合意識の結果であるのか?という論点がありますね。
ここはまたちょっと複雑なのですが、かならずしもそうは言い切れないところもあります。
「集合意識の反作用で天変地異が起きる」ということを述べましたが、
これはたとえて言えばですね…
私たちの腕に蚊が止まって血を吸われそうになったと。そしたら反射的にパチンと腕を叩いたりしますよね。
ところが、腕を叩く位置は必ずしもヒットするとは限らないという、ある意味でのいい加減さがありますね。
それと同じように、「実在界からみると、現象界は仮の世界である」という意識が徹底していますので、あまり特定せずに(実行部隊は)、どかん!とやってしまうこともあります。
これは、「ひどい…」と思われるかもしれないですが、「真実の世界観はどこにあるのか」そして、やはり、「人間と神様では立場が違う」、という謙虚な認識が大事です。
一言でいえば、現代では人間があまりに偉くなりすぎているということです。
*「立場が違う」といっても、それは「現時点で」ということであって、本来の仏教理論では、人間は修業によって悟りの世界へ入ることができます。
キリスト教で言う”罪”の原義は、「的外れ」という意味です。非本来的であるということですね。
なので、いまこそ、本来性へ回帰することが肝要です。
本来性のあり方とは、自我中心の生き方から(神的)実在中心の生き方へ帰ることです。これが共業を克服するための根本的な方法でもあるのです。
コメント
コメント一覧 (2件)
>山本裕美子様
そうですね、良い視点だと思います!
本記事ではとりあえず、共業と不共業を分けて書きましたが、両者を関連付けて考えるのも大事です。
つまり、自らの業(カルマ)を良い方向へ整えていくことがすなわち、全体の業(カルマ)を良くしていく、
という視点です。
共業においては、善人であっても災害に巻き込まれることもありまして、
「なぜ、善人まで…?」と思われがちなのですが、
「もっと善を為せたかもしれなかった、十分でなかった」という視点を入れると無限の反省点があることに気づきます。
不作為の反省ですね。
共業が集合意識体のカルマなら、共同体の数だけカルマがあるということなのですね。
家族のカルマ、地域のカルマ、会社のカルマ、国のカルマ、地球のカルマ・・・
それぞれの一員として、どんな種を蒔くべきかどう育めばいいのか、考えていきたいと思います。