天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧

十界論

人間は心の修業によって、天使(菩薩)になることができる、と繰り返し言っているのですけど、本来の大乗仏教理論によれば、それ以上でして、最後は仏陀になることができる、というところまで行き着きます。

釈尊の時代は、悟りを得たものを阿羅漢(アラカン)と呼び、そういう意味では、少なくとも原始仏教では、釈迦も阿羅漢のひとりである、という分類だったのですね。

修学旅行で京都などに行くと(関西の人は違うのかな)、お寺に、十六羅漢像とかいろいろありましたね。この、羅漢(らかん)さんが阿羅漢です。*原典のサンスクリット語では「アルハット」。

大乗仏教の時代に入ると、小乗仏教への批判もあって、阿羅漢は自分の独りの悟りしか考えていないのだ、仏道を志すものは自らの悟り(自利)だけではなく、利他に生きなければならない、そして仏陀になることができる。それが菩薩である、という思想に行き着くわけです。

自分を磨きながら、その智慧でもって他者や世の中に貢献していくことを自利利他(じりりた)といいます。

つまり、菩薩(天使)とは、一定の見識・リーダーシップを持ちながら(かつ、磨きながら)、他者への愛と奉仕の生活を送っている存在です。

十界論はスピリチュアルな出世の段階

実在界での出世の段階(?)を天台教学に従うと、下記のとおり、十段階に分類されています。これが十界論(じっかいろん)です。
*小乗仏教で言う「阿羅漢」が声聞界・縁覚界に相当するととりあえず考えてください。

  1. 仏界(ぶっかい)・・・ほとけ、如来

  2. 菩薩界(ぼさつかい)・・・利他に生きる境地

  3. 縁覚界(えんがくかい)・・・自意識的な悟りの境地

  4. 声聞界(しょうもんかい)・・・真理の縁にふれて学ぶ境地

  5. 天界(てんかい)・・・もろもろの喜びの境地

  6. 人界(にんかい)・・・平均的な人間の境地

  7. 修羅界(しゅらかい)・・・喧嘩上等の境地

  8. 畜生界(ちくしょうかい)・・・欲望のままの境地

  9. 餓鬼界(がきかい)・・・貪り(むさぼり)多い境地

  10. 地獄界(じごくかい)・・・上記以下の地獄すべて、八大地獄などがある。最下層は無間地獄(むけんじごく)

*下線で引いた境涯は僕ら真理を学ぶものが目指すべき境地

天台教学では、上記の十分類が、死後赴く世界というだけではなく、現世、今ここにいる僕ら一人ひとりの心境が上記の十段階に通じているという考え方をとります。これを十界互具説(じっかいごつせつ)といいます。

ここが、小乗仏教の六道(ろくどう・りくどう)の考えでは、下から、「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」の6つだけになります。というか、オリジナルはこっちなんですけどね。

それはそれで良いとしても、問題は、

餓鬼とか畜生が、この世のことなのか?あの世のことなのか?イマイチ判然としないということで、「人界」もおそらくは、いま私たちが生きているところの現象界を指しているのでしょう。

そうすると、「畜生道に堕ちるぞ!」ということは、肉体の死後、すぐ地上の動物に魂が宿ってしまう、という理解なのかな、と思います。

これはインド的な、「人間に生まれられるとは限らない、次回は虫に生まれるかもしれない」という因果応報説が基礎になっていると思われますし、今ひとつは「生まれる」という解釈の問題です。

インドでは、死後、ある世界へ赴くことも「生まれる」という表現を使います。あるいは、死後の世界、たとえば天界から現世へ生まれてくることも、「天界の寿命が尽きた」という表現を使ったります。

ここが誤解と混乱を招いているところではありますね。

そういう意味では、十界論とそれを発展させた智顗の十界互具説(じっかいごぐせつ)は、

実在界で10段階になっており、現象界でも心のあり方において10段階になっている。しかもそれがキッチリ対応している、ということで、より真実に近い世界観だろうと私は思っています。

ただ、十分類はともかくとして、現世での心境が死後赴く世界を決める、というのは釈尊在世当時からあったので、そういう意味では、釈尊オリジナルに忠実であるとも言えます。

たとえば、カーっと怒った瞬間に「修羅界」に通じていると。で、そういう心境が人生の平均点になったら、死後も修羅界に赴く、ということですね。

上記の分類で言うと、「自己実現で喜びに満ちています!」という段階が「天界」に相当しますかね(自己実現の内容にもよりますが)。

そして、真理に目覚めて学ぼうと決意した段階が「声聞界」、一定の悟りを得た段階が「縁覚界」ということになるかもしれません。

注意1)
・大乗仏教では、声聞・縁覚=おのれ一人が悟ればいいという境涯とみなし(小乗仏教=上座部仏教への反発)、菩薩界=仏法を学び利他へ生きる境涯、と広く分類している。その際、菩薩界のなかに小乗仏教で言う声聞などの段階が含まれたりしているが、説明が煩雑になるので、菩薩界は狭義の菩薩界、たとえば華厳(けごん)教学で言うところの、十地(=聖の境涯)と定義する
・縁覚は「独覚(どっかく)」=一人悟りの段階という定義が一般的だが、声聞より上の境涯に置かれているところから、「広く真理を学び、知識を思索と経験を経て智慧に変えることが出来た一定の悟りの段階」という意味で使う

私が、しつこく、「天使(菩薩)を目指しましょう!」って言ってるのは、天界もいいけど、もっと上を目指しましょうよってことなんです。

実際、今の日本に生まれて自己実現に夢中になっている方は天界(レベルの差はありますが)出身の方が多いのです。

そして実は、天界から声聞界へのコースはそんなに難しくないんですね。なので、目指さないのはとても勿体ないんです。

また、こうした実在界の成功の階段を知っておかないと、「この世で成功したと思っていたら、蓋を開けてみたら失敗(地獄行き)していた」とか。

逆に、「この世ではたいした成功をしていないが、蓋を開けてみたら意外に成功していた」ということがありえるんです。

この世の成功とあの世の成功をLINKさせるのがベスト

そういうわけで大事なことは、実在界と現象界の関係性を熟知して、この世(現象界)での成功が、あの世(実在界)での成功へとリンクさせる生き方がベストなんです。

こうした声聞界の悟りを固める、ということに関しては、別に講座も設けますし、また、当サイトのブログを読み続けていけば数多くのヒントが見つかるはずです。

注意2)華厳教学(「華厳経入法界品」)では、善財童子(ぜんざいどうじ)が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の勧めにより、53人の善知識(=指導者)をめぐって修行を重ね、最後に普賢菩薩(ふげんぼさつ)に出会って悟りを開く、という経典の内容から、菩薩に52段階アリ(最後の1段階は仏界)としています。東海道五十三次の”五十三”は、この53段階から来ているという説も。ほか、経典によって、頭がくらくらするくらい、細かな分類がされています。そこらへんも面白いは面白いのでまた別の機会に書きますね。

仏界→大日如来の思想は、世界への福音になる

さて。

十界論は上記のとおりなのですが、大乗仏教では、釈迦如来以外にも、時間軸(過去・現在・未来)そして空間軸(十方世界)の様々なところに如来がいらっしゃるという思想になっていきます。

そして密教では、如来の頂点に大日如来(華厳経で言う、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ))が座しまして、その周りに4種の如来がおわす、ということになります。
*奈良の大仏が毘盧遮那仏です。

そのうちのひとり、西方にいらっしゃるのが有名な阿弥陀如来ですね。

そうすると、菩薩の上に如来があり、最高位に大日如来(大毘盧遮那仏)、という序列になりますかね。

ただし、ポイントは、

大日如来がトップと言っても、トップの下に、だっーーーとトップダウンで並んでいるわけではありません。

大日如来が一者であり、かつ全者である、のですが、時代・地域・役割に応じて諸如来・諸菩薩の存在が<内部に>ある、という意味です。少なくとも私の解釈ではそうです。

「<内部に>ある」というところが重要で、もし他の偉い存在が外部にあったら、大日如来は一者でも全者でもなくなってしまいますね。

たとえて言えば、人間のボディはひとつですが、その<内部>に役割に応じて、肝臓や心臓などの各器官がある、というイメージです。

つまり、キリスト教のような、私たちを離れた絶対的な超越者ではなく、個別的な存在をすべて(つまり、最下層の地獄までも)包含した一者である、という思想なんですね。

ここは誤解されやすいところですが…。

要は、悪というものも時間軸を入れて考えると、それは一時的な歪(ひずみ)に過ぎないと。

川で言えば、ところどころ岩にぶつかって逆流しているところ、ですかね、悪というのは。

でもその逆流は一時的なものに過ぎないわけです。

そうした悪も方便として自らのうちに包含しつつ、自らを生成発展させていく存在、として大日如来は考えられています。

ここのところはなかなか理解が難しいところで、これが腑に落ちると、一転して、ドイツ観念論哲学の最高峰であるヘーゲルの言葉、

真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。(『精神現象学』)

という言葉が理解できたことになります。

そして実は、この「多様性を包含した一者」という考え・思想こそが、次代の文明の軸になっていくのだと思います。

つまり、多民族・多国家・多宗教…を、包含しつつ総合していく思想、本当の意味での初の世界的価値観の核となる思想になりうる、と私は思うのです。

その場合、もちろん、「大日如来」という名称にこだわる必要はありません。むしろ、「名前がある」ということは、<究極の一者>ではない、というふうに受け止められてしまいます。

ある名前がある、ということは、逆から見れば、その「名前以外の何か」ではなくなってしまいますので、論理的な帰結として、「一者ではない」ということになってしまいますね。

たとえば、「これはコップである」と言ったら、それは同時に、「本でもない、椅子でもない…(ずっと続く)」というふうに捨象していくことになります。名詞にはそうした限界があります。

ただ、名前がないと呼びようがない、という不便さはありますので、そこのところは「仮に〇〇」」と呼ぼう、ということでいいと思います。

そういう意味では、大日如来は、華厳経で言うところの「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ」に当たりますが、毘盧遮那仏は、原語で「マハー・ヴァイローチャナ」となります。

インドの言語・思想はドイツ、ギリシャ、イランなどと同じくアーリア的な考えを基礎にしていますので、「マハーヴァイローチャナ」という呼び名は、もちろん仏教起源ではあるものの、西洋・中東にも配慮がある、ということで、意外に世界性がある名称かな、とも思っていますけどね。

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2 件のコメント

  • コメントありがとうございます。

    末法でも、鎌倉時代では、戦乱の中、民衆の教育レベルも低く、難しい教学を学ぶことができないので、
    ある意味、緊急避難的に、「信心で解脱する」ということをオススメしていたと思うんですね。

    そうすると、「成仏」というのが、どの程度の成仏か?ということになるのですが、

    信心による解脱では、十界論でいう、「人界」のあたり、上の方でも「天界」のあたりを
    目標にしているかなあと思います。最低限、地獄へ行かない、天国部分へ行く、ということですね。

    法華経でいう一仏乗が真理か?あるいは、「声聞乗・縁覚乗・菩薩乗」の三仏乗が真理か?
    というのは、日蓮上人以前に、最澄と(法相宗の)徳一がずいぶん論争しています。

    が、厳密な意味での、成仏→仏界の悟りを得る、というのは、やはりお題目とか
    信心による解脱だけでは無理で、三仏乗の修行の段階論のほうが真理だと思っています。

  • 初めまして。興味深く拝見させて頂いております。
    末法では、日蓮大聖人が説いた南無妙法蓮華経のみが仏の境界につながる修行で、他の方法では返って毒になるという日蓮大聖人の教えについては、どう思われますか?
    仏界より上の次元に、この世界の衆生も修行なしに行けるのでしょうか?

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