メシアとは何か? ーユダヤ教、キリスト教、イスラム教におけるメシア思想

メシア

「メシア」とは簡単に言えば「救世主」という意味です。

英語読みでは「メサイア(Messiah)」になりますが、元々のヘブライ(ヘブル)語では「マーシアハ(משיח /mashiach)」と言いまして、これが転訛してメシア(マシア)になったのすね。

そして、メシアをギリシャ語読みにしたのが、「クリストス(Christos)」であり、日本語では「キリスト」と読まれているのです。

なので、イエス・キリストの「キリスト」は個人名ではないんですね。「救世主イエス」ということです。

目次

ユダヤ教が、イエスを”メシア=救世主”として認めないのはなぜか

さて、メシアとは元来、「油を塗られたもの」「聖油によって聖別された者」という意味なのです。そして、元来は宗教指導者である以上に王様、統治者を指していました。

歴史的あるいはイメージ的には、サムエルに油を注がれたダビデ、そしてソロモンのような存在です。イスラエルの統治者ですね。

その文脈でいくならば、ユダヤ人たちが期待している”メシア=救世主”とは、宗教的な指導者であるというだけではなく、同時に、政治的な指導者も意味していることになります。

モーセのように”現実に”圧政からユダヤ人を解放して、ユダヤ国家を作り、かつ統治してくれる人物を待望していたわけです。イエスを救世主として認めていませんので、ユダヤ教では今でもメシアを待望しているのです。

そして、そうした人物を「メシア」=「油を塗られた者」として認めるという構図になっています。
*モーセは、当時、エジプトで奴隷になっていたユダヤ民族をカナンの地へと導いた。途中で没したので、実際に王国を建てたのは後継者のヨシュア。

その文脈では、新バビロニア王国を倒し、ユダヤ人たちをバビロン捕囚から(結果的に)解放したアケメネス朝ペルシャのキュロス二世もメシアとされています。

ヤハウエは普遍神であるがゆえに、他民族の王もメシアとして使う、という理解です。

そういうことで、

イエスは「神の王国」「心の王国」を説いたけれども、政治的には何も成すことがなく(成す気もなかったようですが)、この世を去っていったという事実を鑑みると、ユダヤ教の文脈では、「とうていメシア(救世主)とは認められない」

ということになります。

この点に関しては、聖書を読む限り、十二弟子たちも半信半疑…という状況であったのではないかと思いますね。

イエスは捕らえられると分かっていて、エルサレムへ入城したわけですが、

弟子から見ると、「いやいや、なんだかんだ言って、エリヤのときのように天から火柱が降ってくるとか、天使たちが救出に来るとか、何か奇跡あるいは秘策があるに違いない」と期待していたのではないかと思います。

ところが、何も”奇跡”は起こることなく、あっけなく十字架で刑死してしまいました。

弟子や信者からみると、「予言の成就とは言っても、いくらなんでもこれは…」という思いは、あったでしょうね。

そういうわけで、弟子たちは気が動転して、一番弟子のペテロでさえ、「いえ、イエスは知りません」と3回も言ってしまうという狼狽ぶりです。

その後、イエスの復活を契機に弟子たちの伝道がようやく本格化していくことになります。ここでは、ユダヤ教以来の「終末論」も大きなバックボーンになっております。

終末論、「最後の審判」については下記の記事をご参照ください。

*参考記事:最後の審判はいつ来るのか? – 相対的終末と実存的終末で理解する

復活

このあたり、というか、ミラノ勅令でキリスト教がローマ帝国に公認されるまでの歴史がじつに興味深く、かつ、現代にいたるまで禍根を残している部分があると思われますが、それはまた別の機会に書きます。

イスラム教もイエスをメシアと認めている

イエスはメシアではあるが神の子ではない、預言者の一人であるという認識

「メシア=油を塗られた者」という本来の文脈からいけば、イスラム教(イスラーム)の開祖であるムハンマド(マホメット)のほうが、「むしろメシアの資格あり」ということで、「最大にして最後の預言者」としている気持ちも分かります。

ムハンマドは、天使ジブリール(ガブリエル)から神(アッラー)の声を伝えられ、イスラム教の開祖に。メッカで一度敗れるものの、メディナで力を蓄え(聖遷・ヒジュラ)、最終的にメッカ奪還に成功しているわけです。

つまり、神の声を伝える(預言者)こともできるし、政治・軍事的にも成功したということで、イスラム教としては、「イエスよりムハンマドのほうが格上である」という認識でいるわけですね。

ただ、ユダヤ人を解放したわけではないので、ユダヤ人からはやはり”メシア”認定は受けられませんけどね。

また、ムハンマド自身も自らを「飯を食べ、市場を歩く人」と謙遜していますから、自らメシアを名乗ったわけではありません。

イスラム教の立場としては、ユダヤ教もキリスト教もはっきりと認めておりますし、クルアーン(コーラン)にも「アッラーは、ユダヤ教・キリスト教の神と同一である」という趣旨のことが書かれています。

そういう意味で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は兄弟宗教なんです。より正確に(?)言うと、ユダヤ教が母で、キリスト教とイスラム教は兄弟、という位置づけになりますかね。

この3つの宗教を「セム的一神教」と言います。

イスラム教としては、「イエスはメシア(の一人)であるけれども、神あるいは神そのものではない。イエスは預言者、神の使徒である」という認識でいます。

メシア理解がやはりキリスト教徒は異なっております。

イスラム教はもっとも厳格な一神教ですので、イエスを神とする「三位一体論」を否定するのです。

イスラム教におけるメシア(救世主)信仰

ちなみに、イスラム教にもメシア信仰と言うべきものは存在します。イスラームのなかでも”シーア派”においては、”イマーム”という地位があります。

カリフがムハンマドの政治的後継者であるとするならば、イマームは霊的な後継者です。

さらには、「ムハンマドはコーランにおいてアッラーの啓示を伝えたが、その真の(裏の)意味を開示することができるのがイマームである」というふうに、次第にイマームの地位が高まっていきます。

そして、終末のときに(今、お隠れになっている)イマームが審判者として再臨する、というふうに、これは実質的に「イエスの再臨」と同じような論理ですね、いわば、「イスラーム版メシア信仰」というふうに解釈できるでしょう。

イマームの中でも、とくに再臨の救世主を指す場合には、「マフディー」という言葉が使われます。

上述したように、イスラームではイエスを救世主と認めていますので、このマフディーとの兼ね合いは、イスラム系諸派のなかでも意見が分かれるところであります。

イエスがアンチ・キリスト(偽メシア)を撃退し、マフディーが最後の審判を行う、などのバリエーションがあります。

さて、今回は、”メシア論”を中心に、セム的一神教内の各々の立ち位置を確認してみました。

ユダヤ教 – キリスト教 – イスラム教 の関係の複雑さはこれ以外にも色々な要因があるわけですが、今回のトピックスでその一端を明かすことができたのではないかと思います。

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