「心の貧しい人は幸いである」は、一般に「山上の垂訓」あるいは「山上の説教」と呼ばれるイエスの説法のなかの一節です。イエスの教えの中でも、もっとも有名でかつ格調が高い説法でしょう。
まずは、「山上の垂訓」全体を新約聖書(新共同訳)から引用してみましょう。
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。平和を実現するする人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。(「マタイによる福音書」5章3-10節)
「〜幸いである」が8回出てきますので、「八福の教え(はちふくのおしえ)」とも呼ばれています。
「心の貧しい人」は誤訳なのか?
さて、
聖書に慣れていないと、一読、「どうして心が貧しい人が幸いなの?」と思ってしまいますよね、「心が豊かな人」の間違いではないか?と。
今回はこの「心の貧しい人」を手がかりに、キリスト教信仰の核心、ひいては「宗教における”信”の構造」を解き明かしてみたいと思います。
「心の貧しい人」とはよりギリシャ語(コイネーギリシャ語)に忠実に直訳すると、「霊において貧しい人」となるようです。
*『新約聖書』のほとんどの書は「コイネー」と呼ばれる1世紀のローマ帝国内で公用的に広く用いられた口語的なギリシア語で書かれています
実際、英訳聖書では、”Blessed are the poor in spirit“となっています。
これでニュアンスがけっこう変わってきますので、「”心の貧しい人”は誤訳である」という人もいるのですね。
ちなみに、ご覧の通り、英訳では”Blessed”が先に来ています。和訳でも文語訳では「幸いなるかな」と先に来ておりまして、たとえば、ラゲ訳文語聖書では、
幸いなるかな心の貧しき人、天国は彼らのものなればなり。
となっております。格調高いですよね。
「貧しい」はコイネーギリシャ語では”プトーコイ”という言葉になります。
”プトーコイ”は、単に経済的に貧しいという意味だけではなく、「世間からも圧迫され失望し、神の助けを必要とし、これにより頼むしか生きて行けない人々」という意味らしいです。
さらに、前述したように、”心”というより”霊”ですね、ここもコイネーギリシャ語では”プニューマ”という言葉です。
聖書では、人間は「身体と心と霊」の三層構造からできているとされています。
なので、「霊において貧しい人」というのは、「人間の一番深い”霊”のレベルから、打ち砕かれている人」ということになります。
また、「霊において貧しい人」というのは旧約のイザヤ書「栄光の顕現」と第されている66章の一節に照応しているという説があります。
わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人(「イザヤ書」66章2節)
神が顧みるから、「幸いである」ということになるのですね。
それなので、結論的には、「心の貧しい人」とは「心が打ち砕かれて、自分で自分を救えないことを知っている人」と読み替えても良いでしょう。
自分で自分を救えないという「貧しさ」いわば「自我力の乏しさ」があるからこそ、謙虚さ、へりくだる心が生まれ、「神を托む心」が湧き上がってくるのです。
自我を虚しく、空っぽにできるからこそ、神のエネルギーが流れ込んでくる。
そして、「求めよ、さらば与えられん」で、神を求めれば神との出会いがあります。それゆえに、「幸いである」ということになるのですね。
ちなみに、「ルカによる福音書」ではちょっと記述が異なっていまして、
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 (「ルカによる福音書」6章20節)
というふうに、「心の」が抜けております。そうすると、おもに経済的・生活的な「貧しさ」が強調されることになりますね。
これと対象的な聖句があります。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。(「ルカによる福音書」18章25節)
もっとも、「らくだが針の穴を…」というのはギリシャ語へ訳す際の誤訳だったという説もあるのですが、今回は深入りしないことにします。
「幸いである」とは何か?
さて、「幸いである」の内実をもっと深く検討してみましょう。
「幸いである」という物言いはヘブライ語では、「アシュレー」という言葉に相当します。これは名詞なのですが、感嘆詞的に「〜なんと幸いなことでしょう」という使われ方をします。
「アシュレー」は旧約聖書(ヘブライ語聖書)の「詩編」と「箴言(しんげん)」で頻繁に使われております。
たとえば、
いかに幸いなことか
主を神とする国
主が嗣業(しぎょう)として選ばれた民は。(「詩編」33章12節)
いかに幸いなことか
知恵に到達した人、英知を獲得した人は。(「箴言」3章節)
といった具合です。
この感嘆文、「いかに幸いなことか」が使われる場合、かならず「神の国」との関わりで語られているという特徴があります。
イエスの山上の垂訓もこの用法を踏まえていると思われますね。
つまり、「幸い」の内実というのは、やはり、神および神の国との関係性で語られています。
もっと突っ込んで言えば、「神中心の世界観の獲得にこそ、本当の幸せがある」ということだと思うのですね。
そして、これが信仰の核心であり、宗教の核心です。
ネオ仏法では繰り返し、「呪術スピリチュアル」に警鐘を鳴らしていますが、それは、呪術というものが、自分の都合で神(的存在)を動かそうとする、いわば、「自我中心の世界観」になっているからです。
神社巡りとかヒーリングスポットとか…何でもよいのですけど、悪いとまでは言いませんが、こうした自我中心の世界観では根本的な意味で幸福になることはできません。
なぜなら、”自我”はつねにブレやすく、儚いものだからです。ブレやすく儚いものを軸にしているから、幸福感もブレやすく履かないものになるのです。
最近の言葉でいえば、「自分軸」もそうです。
「自分」というのは軸にできるほど確固たる、信頼に足るものなのでしょうか?
*参考記事:”自分軸”で生きるのが難しい人へ – スピリチュアル的”絶対軸”のススメ
アドラー心理学の流行にも関わっているのかもしれませんが、(そしてそれはアドラー心理学への勘違いなのですが)、自分軸といってもそれが単なる「ワガママ軸」になっていることが殆どです。
私たちはこの世に生きていて、つねに、
- 自我中心の世界観:「自分のために神がある」
- 神的実在中心の世界観:「神のために自分がある」
の選択を迫られていると言えます。
肉体を持っているとどうしても前者に傾きがちになります。
先ほど申し上げたようにスピリチュアルに親近感を持つ人でさえ、自我中心のスピリチュアリズム、「呪術スピリチュアル」に惹かれていってしまいます。
実はこれは、「どちらの世界観を選んだほうが幸福になるか?」という問題以前に、「そもそも、世界はどのように成り立っているのか?」に関わってくる問題なのです。
聖書的に言えば、「神の世界創造」ということになりますが、もっと広く言えば、神的実在がまず先に存在し、その後、私たちや動植物などの個別的存在が創造された、というのが順序です。
まず、「全体があって部分がある」というのが本当の順序なのです。部分はつねに全体に含まれるからです。
世界がそのように「神的実在中心」に成り立っているからこそ、「神的実在中心の世界観」を選ぶことが自然の理にかなっている。理にかなっているから幸福感の基(もとい)になるということなのです。
仏陀の「燃える火の説法」との共通点
イエスの「山上の垂訓」とよく対比されるのが、仏陀・釈尊の「燃える火の説法」です。
格調の高い増谷文雄氏の翻訳(『仏陀 その生涯と思想』P112-113)でチェックしてみましょう。
比丘たちよ、すべては燃えている。熾燃として燃えさかっている。なんじらは先ずこのことを知らねばならぬ。
比丘たちよ、すべては燃えているというのは、いかなることであろうか。比丘たちよ、人々の眼は燃え、また眼の対象は燃えている。人々の耳は燃えまた耳の対象は燃えている。人々の鼻は燃え、鼻の対象は燃えている。人々の舌は燃え、また舌の対象は燃えている。身体は燃え、身体の対象は燃えている。さらに、人々の意(こころ)もまた燃えており、その対象もまた燃えているのである。
比丘たちよ、それらは何によって燃えているのであろうか。それは、貪欲(むさぼり)の焰によって燃えており、愚痴(おろかさ)の焔によって燃えているのであり、また生・老・病・死のほのおとなって燃え愁(うれい)・苦(くるしみ)・悩(なやみ)・悶(もだえ)のほのおとなって燃えているのである
比丘たちよ、そのように観察する者は、よろしく一切をおいて、厭(いと)いの心を生ぜねばならぬ。眼において厭い、耳において厭い、鼻において厭い、舌において厭い、身において厭い、また意(こころ)において厭わねばならぬ。しかして、一切において厭いの心を生ずれば、すなわち、解脱することを得るのである。
こちらの仏陀の説法では、「煩悩」が問題になっています。煩悩が盛んになっているさまを燃える火に喩えているのですね。
私たちの一つひとつの感覚器官とその対象、心とその対象、すべてが燃えている。世界は煩悩の火に燃え、苦しんでいるのだと。
ここには、苦しみの原因は煩悩にある、という釈尊の悟りが展開されています。
そして、苦しみから脱するためには「厭(いと)う」ことが大事だと言われています。逆に言えば、煩悩の火に燃やされている状態というのは、「厭うことができずに、執着している状態」と言えるでしょう。
順序立てて整理しますと、
執着→煩悩→苦しみ
の順になっているわけですね。
では執着をどのように取り除いていくか?(=厭うようになるということ)がさらに根本的な問題となります。
仏陀の悟りでは、執着の根源には、「我あり」という思いが横たわっているとされています。
「我あり」と思うからこそ、「我がもの」という発想が出てきて、執着が起きるというのです。
自我→執着→煩悩→苦しみ
ということです。これが根本構造です。
現代風に言えば、「私がある」という思いがあるから、「私のお金、財産、名誉、フォロワー数、自己実現度…」など、どんどん執着が展開していきます。
それなので、逆に言えば、「我あり」を智慧を持って考え直そうではないか?というのが仏陀の提言です。
ご存知の通り、仏教では”無我”を説きます。「我は無い」ということですね。
もちろん、現象としての私はあるのですが、それはあくまで現象に過ぎず、脆(もろ)く儚いものである、という認識です。”無我”は難しく言えば、色々と哲学的に展開することも可能ですが、かんたんに言えばそういうことです。
「なぜ、儚くも脆いワタクシを中心に据えるのか?」「なぜ、”ワタクシ”が儚く脆いものだということに気づかないか?」
ここで、仏陀は「自我を打ち砕くこと」を提案しているわけです。
さて、そうすると、イエスの山上の垂訓と意外に接近していることに気づきませんか?
イエスの説法では、「心貧しき者=自我が脆く打ち砕かれている者」が「幸い」なのでした。
自我がとるに足らないものであるからこそ、神を托む心が起きる、という構図でしたね。そこに真なる信仰が成立する。
一方、仏陀の悟りにおいては、「自我がとるに足らないものであるからこそ、法(仏法)を中心に据えて生きるべきである」と勧められているわけです。
つまり、自我の否定を契機に、
- キリスト教:神中心の世界観
- 仏教:法中心の世界観
へ誘われているという構図になっています。
ところで、
仏教では「法を見るものは仏を見る」という言葉があるように、本質的なる仏陀と法は同一視されています。
そうすると、法=仏、となりますので、ここまでくると、キリスト教とまったく同じことになります。「神と仏」という単なる用語の違いに落ち着きます。
それゆえに、当サイトでは、宗教を問わず使えるように「神的実在中心の世界観」という言い方をよくしているのです。
まとめますと、
イエスの「山上の垂訓」も仏陀の「燃える火の説法」も、「神的実在の世界観」への転回(コンバート)を促しているのだ、そこでキリスト教と仏教は究極において近接してくるのだ、ということです。
仏教とキリスト教の違いを乗り越える理論については、下記の記事でまとめてありますので、よろしければご参照ください。
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