七仏通戒偈 (ダンマパダ)にみる仏教の本質 – 仏法こそが倫理の基礎

七仏通誡偈 ダンマパダ

七仏通戒偈は「しちぶつつうかいげ」と読みます。

釈尊を含めた過去の七仏を通じた普遍的な仏法をを短い偈にまとめたものを言います。「仏法とは要するに、こういうことなんですよ」ということが端的に分かるようになっています。

今回はダンマパダに見られる七仏通戒偈の意味やエピソードをチェックしつつ、仏教ひいては宗教の使命とはそもそも何であるか、というところまで掘り下げて考えてみたいと思います。

目次

七仏通戒偈とは

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)は、『ダンマパダ』(漢訳では『法句経』)という仏典に収められている183番目の聖句です。

『ダンマパダ』は日本では、中村元さんの訳本『真理のことば』としても知られており、広く読まれています。

ブッダの真理のことば・感興のことば

七仏通誡偈の漢訳と和訳

まずは、漢文とその直訳文でチェックしてみましょう。

『ダンマパダ』183

諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫(な)く

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い

自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす

是諸仏教(ぜしょぶっきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなり

これが七仏通戒偈です。直訳でもだいたい意味は通りますよね。

中村元さんの訳でもチェックしてみましょう。

すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、ー これが諸の仏の教えである。

まあとにかく、すごく簡単なことが書かれていますね。

さらに噛み砕いて言い直せば、

  • 悪いことをせず
  • 善いことをして
  • 心を浄めなさい
  • これが諸々の仏陀の教えである

となりますので、子ども・幼児でも分かるようなことが言われております。

白楽天と道林禅師とのエピソード

中国・唐代の有名な詩人である白楽天(白居易)は道を求めて、ある時、道林禅師(鳥窠禅師)を訪ねました。

道林禅師は、松の木の上で禅定し、仏教を究めていたと伝えられています。

そこで2人の間に以下のような会話がなされました。

白楽天 「そんな高い所での生活、危ないぞ」
道林禅師 「危ないのはそっちの方だ」
白楽天 「木の上が危なくなく、地上が危ないとは何故?」
道林禅師「仏教を知らず、心の定まらぬ者は、地上にいても危ない」
白楽天「その仏教とは何か?」
道林禅師 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(七仏通戒偈)
白楽天「斯様な事は三歳の童子でも知っている」
道林禅師「三歳の童子これを知るといえども、八十の老翁なおこれを行うこと能わず」

白楽天は心を打たれて返す言葉を失ったと伝えられています。

知るということと行うということの懸隔、知行合一がいかに難しいかを示しているエピソードでしょう。

四正勤(ししょうごん)

「悪を為さず、善を為していく」(諸悪莫作・衆善奉行)ということに焦点を当てると、さらに詳しい仏教理論として、「四正勤」あるいは「四正断」というものがあります。「四種の正しい努力」とも言われています。

専門用語の漢字の部分は覚えなくても構わないと思いますので、内容をチェックしておきましょう。

  • 断断 :すでに生じた悪を除くように勤める
  • 律儀断 :まだ生じない悪を起こさないように勤める
  • 随護断 :まだ生じない善を起こすように勤める
  • 修断 :すでに生じた善を大きくするように勤める

倫理の基礎としての仏教(宗教)

七仏通戒偈は上に見た通り、じつに簡単なことを述べていますが、これが倫理そのものであることは間違えはありません。

ときおり、「仏教(宗教)と倫理は違う」という人もいますが、そんなことはなくて、やはり、仏教(宗教は)倫理の根幹をなすものなのです。

倫理はまっすぐに仏陀と仏陀の説く法へ直結しています。

宗教は内面まで問うもの

倫理と仏法の直列を「自浄其意」を例にとって考えてみましょう。

自浄其意は、「自ら心を浄める」ということでしたね。

諸悪莫作・衆善奉行の段階では、「悪をなさず、善を為せ」という倫理の範疇に収まっています。

ところが、そのあとに何故、「自浄其意」が来るのか?

それはまず、自浄其意が「心を浄める」とされているように、文字通り、心に関わってくるところに秘密があります。

諸悪莫作・衆善奉行はまずは外面の行為に関わってくるものですよね。対人関係のなかに現れてくるものですから。

しかし、宗教は心のあり方にまで善悪を問うのです。いや、むしろ、心の内容が現実化したものを外面の行為と捉えていると言っても良いでしょう。

イエス・キリストは次のように述べています。

しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイによる福音書5章28節)

このように、宗教では心を「リアルなもの」と把握します。

ゆえに、倫理を超える、あるいは、倫理の前提となるという意味で「自浄其意」が必要になってくるわけです。

実践的に言うならば、私たちが外面の善悪だけ繕って、諸悪莫作・衆善奉行ができているようであっても、心そのものが肉体と肉体に基づく欲求に溺れているのであれば、そうした「宗教的悪」は魂の汚染となっていきます。

魂が物質的な鈍重な波動を帯びてくるのですね。そうすると、場合によっては天界へ帰れなくなります。

たとえば、コンビニでなにか盗みたいと思ってしまった。その思いが心から離れないとします。一方、外側に現れている行為としては、盗みはしないし、かつレジ前の募金箱にいくらか寄付をしたと。

そうすると、悪をなしていませんし、募金という善を行っていますので、諸悪莫作・衆善奉行はできているということになります。

ところが、心の中は「盗みたい…」という思いで一杯ですので、心ベースで悪を為してしまっている。心ベースで善は為せていない、ということになりますよね。

その「盗みたい…」という思いを繰り返し思うほどに、だんだんと魂に染み込んでいきます。仏教用語ではこれを「薫習(くんじゅう)」と言います。

そうしますと、いくら外面で取り繕っていても、これは宗教的に「諸悪莫作・衆善奉行はできていない」と判定されるのです。

それゆえに、心まで踏み込んで善悪をチェックしなければならない。それが「自浄其意」なのです。

現象界(この世)と実在界(あの世)を貫いて、「真実の自己と言えるものは心だけ」ですので、心を浄めなければ、まるっきり意味がないということになるのです。

「有漏善と無漏善」をどう解釈するか

ところで、仏教では、善を有漏善(うろぜん)と無漏善(むろぜん)に分類します。

有漏とは、「漏れが有る」と書きますが、これは「煩悩が残っている」という意味です。なので、有漏善とは、まだ煩悩が残っているものの善、いわば、「凡夫の為すべき善」という捉え方です。

対して、無漏善とは、煩悩の汚れのない「聖者の為す善」を指します。これは、解脱・涅槃に資する善ということになります。

一部のテーラワーダ仏教ではこれをもって、

  • 有漏善:凡夫(非出家者)が為す善であり、せいぜい天界へ還ることを目的とする
  • 無漏善:聖者(出家者)が為す善であり、解脱して輪廻から外れることを目的とする

というふうに、分ける考え方があります。

『ウダーナヴァルガ』という仏典に次の一節がありまして、それが根拠になっているようです。

*『ウダーナヴァルガ』は前掲の中村元著『真理のことば 感興のことば』のうち、「感興のことば」として翻訳されています。

悪い行いをした人々は地獄におもむき、善いことをした人々は善いところ(=天)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。(『ウダーナヴァルガ』第1章24)

ここの前半部分が有名な三論(施論戒論生天論)と呼ばれる部分です。

  • 施論:施しを為して(善を為して)
  • 戒論:戒めを守れば(悪を為さなければ)
  • 生天論:天界へ赴くことができる

という在家者向けのシンプルな説法です。ここのところ、

  • 施論:衆善奉行
  • 戒論:諸悪莫作

に相当するというのは、もうお分かりですよね。

一方、後半部分は出家者あるいは在家者でも機根が高いものへ期待されている「無漏善」ということになります。具体的には、四諦八正道などの実践が勧められます。

ちなみに、少し話が逸れますが、上記の一節を見るだけでも、「仏陀は魂の存在や輪廻を否定した」といった学説が嘘であることが分かりますよね。

ここのところは下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事1:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
*参考記事2:仏教は輪廻転生を否定していない – 解脱論のベースとしての輪廻

話を元に戻しますが、上述したように、

  • 有漏善:凡夫が為す善。三論など
  • 無漏善:聖者が為す善。四諦八正道など

というふうに分ける思想にはけっこうな危険性があると感じます。

どういう危険性かと言うと、「聖者(出家者)は世間的な善悪にも染まらない」というふうに主張する人がいいるのです。

『ダンマパダ』と同様に最初期の仏典とされている『スッタニパータ』に根拠を求めているようです。

*『スッタニパータ』は、前掲書の著者・中村元氏が『ブッダのことば』として著述しています。

ブッダのことば: スッタニパータ

二箇所、引用してみましょう。

わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。(『スッタニパータ』第三・431)

 

麗しい白蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サピヤは師を礼拝します。(『スッタニパータ』第三・547)

これらを読むと、一見、有漏善と無漏善を分けることが正しいようにも思われます。

ただ、前者の「(世間の)善業を求める」というところに注目してみましょう。この一節は、マーラ(悪魔)が「修行など止めてバラモンの教え(=善)に従ったらどうか?」という誘惑への返答なのです。

それゆえに、世間的な相対的善悪を超えた、いわば「絶対善」を仏陀は主張していると把握すべきだと思います。

次第説法(しだいせっぽう)という仏語がありまね。三論→四諦八正道へと相手の理解度に合わせて次第に高度な法へ誘導してゆく。

これは、有漏善→無漏善への「次第説法」ということでもあり、やはり、有漏善と無漏善は別々のものではなく、順接なのです。ひとすじに仏への道になっているということです。

なので、「仏教と倫理は別である」などという言説に惑わされないことが肝要です。

仏法こそが倫理の基礎となるものなのです。

七仏通戒偈を八正道に当てはめてみる

さて、「心の内容から行為が出る」という順序、

自浄其意→諸悪莫作・衆善奉行

ということですね、これをもう少し敷衍して考えてみましょう。

思いの内容から行為へ、ということであれば、(ネオ仏法で解説しているところの)「八正道」を思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。

正思→正語・正業・正命

という順序です。

そして、正思の前提には「正見」があるのでした。正見は正しい信仰に基づいた正しい価値観です。

正見→正思→正語・正業・正命

となります。

難しいことを言っているようですが、私たちの行いというものがどういう順序で発生するのか、順を追って考えてみれば納得できるところだと思います。

すなわち、

ある価値観があって(正見)→その価値観に基づいてさまざまな思いが出て(正思)→思いに基づいて、言葉や行為・生活スタイルが生じる(正語・正業・正命)という順序です。

そのように考えると、正しい信仰に基づいた正しい価値観(=正見)は七仏通戒偈における「是諸仏教」に相当すると理解しても良いでしょう。

是諸仏教→自浄其意→諸悪莫作・衆善奉行

の順序ということになります。

そうすると、八正道全体が七仏通戒偈としても解釈できそうです。

すなわち、

  • 諸悪莫作・衆善奉行:正語、正業、正命、正精進
  • 自浄其意:正思、正念、正定
  • 是諸仏教:正見

このように考えると、結局のところ、是諸仏教(=正見)がすべての基礎になっていることが分かります。さきに述べたように、正見、正しい価値観の前提には正しい信仰(正信)がありますので、結局、いちばん大事なのは信仰である。

倫理の基礎は信仰にあるのだ、という結論になるでしょう。

ときおり、「仏教は哲学であって、宗教ではない」などと言う人もいますが、そんなことはありません。仏典のさまざまなところで信仰の大切さが説かれています。

仏教の信仰とは、別の言葉でいえば、「三宝帰依」です。

三宝帰依が基礎中の基礎になって、八正道へ至る道が説かれた一節がございますので、それをご紹介して本論を閉じることにいたします。

さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。ー すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅に赴く八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。(ダンマパダ第15章190−191節)

 

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