実感ベースでの中道。「まんざらでもないな」「まだまだだな」

実践ベースの中道
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実践における中道

仏法としての中道については、いくつかの記事で、ご説明したことがあります。
参考記事:「苦楽中道 ー ミクロとマクロの悟りへ

ただ、理論ではなくて、日常生活において、実感において、自分が中道に入っているかどうかをどのようにチェックしたら良いのか。

あるいは、いま中道から外れているとして、どのようにして中道へと帰っていくことができるのか、を検討してみたいと思います。

中道に入っているかどうかのチェック

これは、タイトルに書いてあるように、

  1. 「まんざらでもないな」
  2. 「まだなだだな」

と思えているか、この2つをバランスよく両方ともに感じているかどうか、でチェックすることができます。

「まんざらでもない」「まだまだだな」の真逆の感じ方としては、「俺(私)ってすげーな」「俺(私)はなんてダメダメなんだろう…」という極端があります。

ふつうは、同時には思えないので、ある日は、「俺(私、すげー」か、また別の日は、「俺(私)ダメだな…」の間を行きつ戻りつしているか、あるいは、どちらかの思いに固定化されているケースが多いのではないでしょうか?

では、なぜ、この両者の思いが極端かというとですね…、

結局、永遠の魂の進化の過程から見ると、「出来上がっちゃっている→→すげー!」、もしくは、「ダメダメ…」なんてことは有り得ないんですよ。

それは、進化の過程であるということは、文字通り、「過程」であるからなんです。ゆえに、上記のような両極端な想い、すなわち、傲慢と卑下からは離れているはずなんですね。

ところが、傲慢と卑下の両極端から離れるためには、やはり、「永遠の生命・輪廻転生・実存エネルギーとしての自分」という視点がどうしても必要になってくるんです。

結局、傲慢と卑下は、あくまで他者との比較から発しているわけです。これは、言葉を換えて言えば、「肉体的な自我に基づいた人生観」から発しているということです。

自我ベース的人生観が根っこにある。

それゆえに、真理スピリチュアル的人生観にたつならば、

  1. 永遠の進化の過程から見るならば、「けっこう頑張ってるじゃないか」
  2. 永遠の進化の過程から見るならば、「まだまだだな」

という両方の感情が自然と湧いてくるはずなんです。

あえて、スピリチュアル的視点を外して言うと、「過去の自分から見れば、失敗も含めて学びになっているし、進化してるじゃないか」、

あるいは、「未来の理想像から言えば、まだまだ進化の余地があるじゃないか」ということになります。

ゆえに、この「まんざらでもないな」「まだまだだな」ということが両立できるわけです。

そして、思いにおいて両立できていることが、すなわち、実感ベースでの中道なんですね。

そして、この実感ベースでの中道に入ると、ふつふつと幸福感が湧いてくるはずです。

このような幸福感を得ているかどうか、をたまーにチェックしてみてくださいね。

「まだまだだな」「まんざらでもないな」の中道に入るためには

それでは、傲慢と卑下の両極端から脱するためには、どうしたらいいのか?

これは、先にちょこっと触れましたが、

自我ベース的人生観から脱して、真理スピリチュアル的人生観に戻ること

これに尽きます。

あえて、「戻ること」と書きましたが、まさしくその通りで、無理にそういう考えをするということではなく、

真理スピリチュアル的人生観は文字通り真実のものであり、真実のものであるということは、本来、私たちはそのような感じ方が自然である、ということなんです。

それでは、どのようにして、自我ベース的人生観を去って、真理スピリチュアル的人生観に戻していくか。

これはやはり、

  1. 真理を学び続けること
  2. 瞑想や祈りにおいて、真実の世界観を想い起すこと

この作業を、繰り返し繰り返し、行っていくことです。

繰り返していると、「自分はいっこうに進歩していないのでは?」あるいは、「またしても肉体的人生観に戻ってしまっている」と感じることもあるかもしれません。

それでもいいんです。

やはり、地上に肉体を持って生まれているということは、けっこうキツイものであるし、私たちスピリット(魂)にとってはハンデなんですね。

でも、そうした、肉体を持って地上に生きているという環境の中で、繰り返し真理スピリチュアル的人生観に立ち戻ることができること、そのものが偉大なんです。

ハンデを背負った上で立ち戻ることができることは偉大なんです。

仏法で、涅槃(ねはん)という言葉があります。あるいは、境地としての「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」ですね。

涅槃というのは、ネオ仏法的には、「この身このままで実在界の価値観を取り戻し、心の平安を得る」ということです。

「この身このままで」というところが仏教のポイントで、肉体を持ちながらにして涅槃の境地を得ることを、有余涅槃(うよねはん)と言います。

有余=肉体が有る(余っている)状態での涅槃ということですね。

上記のような自我ベース的人生観を離れて真理スピリチュアル的人生観を深めるために、瞑想というものがあります。

当サイトで提唱しているのは、今のところ、三法印瞑想ですが、まずはこれだけでも十分ですし、自分で言うのもなんですが、

スピリチュアル業界で市販あるいはネット上にアップされている瞑想(あるいは悟りの内容)で、この三法印瞑想を超えているレベルのものはないと思います。

三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸行無常編)
三法印瞑想でこころの安らぎを得る(諸法無我編)
三法印瞑想でこころの安らぎを得る(涅槃寂静編)

試して実践してみれば、当サイトで主張している”真理スピリチュアル”が本物であること、単なる知識ではなく、実在世界に由来する真理そのものであることが、あなたにも実感として分かるはずです。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ありがとうございます!用語を最近のものに統一いたしました。

  •  素晴らしい記事をありがとうございます。この記事の「王道スピリチュアル」という言葉は,最近の「真理スピリチュアル」に相当すると思います。ご確認ください。

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