天界下段界(てんかいげだんかい)の平等知
平等性智については、唯識派という仏教学派において、四知(大円鏡智(だいえんきょうち)、平等性智(びょうどうしょうち)、妙観察智(みょうかんざっち)、成所作智(じょうしょさち)の一つとして知られています。
ただ今回のトピックとしては、唯識派について論じるのではなく、まったく別の角度から平等性智を採りあげてみたいと思います。
狙いとしては、後述しますが、平等性智への階梯は仏教とキリスト教を架橋するところの、ひとつの準備理論になると思われるからです。
さて、天界下段界は、善悪でいえば、善人と言われる人が還る世界です。イメージ的には、牧歌的であっけらかんとした善人、ですね。
*参考記事:十界と十界互具 ー ①仏教における”世界”の階層構造論
ここでは、善人同士が<平等な立場で>、お互いに愛し合う世界です。
こうした差別観なく、お互いを平等な存在として認識している知の段階を、仮に”平等知”と呼ぶことにします。
天界下段界以上、一般的に「天国」と呼ばれている世界へ還るためには、仏教で心の三毒と言われている<貪・瞋・痴>から離れていなければなりません。
むろん、「完全に」というのは難しいですが、ある程度は、ということですね。
- 貪(とん)・・・他人から奪い取ろうとする心(賞賛を求める心なども含まれます)
- 瞋(じん)・・・怒りを統御する心
- 痴(ち)・・・愚痴を言わない心(*伝統的には、「愚かな心」という解釈です)
貪も瞋も、ベースにあるのは愚かな心ですから、結局は、愚かな心から離れる必要があるということですね。
そして、愚かでない心とは、単純化して言えば、神々の教えを信じ、その教えを守ることが幸せなことなんだな、と実感できる知恵の段階ということになります。
天界上段階の差別知
天界下段界の住人であっても、輪廻転生の過程で進化を続けていけば、いずれは天界上段階へ入ることになります。
天界上段階は、知識と自己実現・リーダーシップの世界です。
すなわち、善人でありながら、何らかの専門分野を持ち、かつその分野で指導力を発揮することの出来る境涯、ということになります。
天界下段界が、素朴な善人の世界であるのに対し、天界上段階では専門家として、また、指導者としての知恵を身につけることになります。
ところが、ここで問題が生じます。
知恵が身についてくるということは、他人の粗(あら)がよく見えるようになってくるということでもあります。そしてそれが、他の人に対する”裁きの心”へ転化しやすいということがあります。
いわば、自と他を隔てる差別の心、差別知が芽生えてくるということです。
この差別知は、知恵を磨く段階においてどうしても出てくるものでありますので、いわば長所の反転形でもあるわけなのですね。
また、自分自身に対する客観視もできるようになってきますので、自分の、自分に対する差別知も発達してくるということになります。
あるべき自分 ⇔ 現在の自分
という比較観です。
このように、
他人に対しても、自分に対しても、「こうあるべき」「なぜ、できないんだろう」という裁きの心が出やすく、それが苦しみの原因にもなります。
また、差別知が慢心に結びついてくるケースもあります。
「こんなことも分からないのか」「いや、こんなことが分かるオレは偉い」という心へ転化していきやすいということです。
慢心へと転化していくと、これは、けっこうな危険信号です。
「自分は優れた存在である」と思っていながら、実際は基礎部分である人界的な善人条件を忘れてしまい、気付いてみると、餓鬼以下の地獄領域へ心が通じてしまったりします。
天界上段階は、「善人であることをクリアした上での知識・自己実現・リーダーシップを発揮する世界」であるのですが、この後半部分にとらわれて、前提条件であるところの「善人であること」が抜け落ちてしまうケースがあります。
また、知識・知恵というのは、物事を客観視する・対象化して観察することができる段階でもありますので、反面、「疑いの心」も育みやすいのですね。
疑いの心が「疑問探求」ということで、プラスに働いているうちは良いのですが、上記の”慢心”と相まって、「神々や天使を疑う心」へと転化していくと、これまた当然、危うい世界へ堕ちていくことになります。
それから、「知識を持っている自分」というプライドから、神々の作られた世界の仕組みそのものへの間違った物の見方へ転化していくこともあります。「科学万能信仰」などはその典型です。いわゆる、悪見(あっけん)というやつです。
このように考えていくと、天界からの転落の原因は、仏教で言うところの六大煩悩(ろくだいぼんのう)の「慢・疑・悪見(まん・ぎ・あっけん)」に相当するのが分かります。
逆に言えば、この3つを注意点として、折に触れてチェックしていくといいですね。
ちなみに、六大煩悩とは、心の三毒(貪・瞋・痴)プラス、下記の3つです。
- 慢(まん)…自惚れる心、他を見下す心
- 疑(ぎ)…疑う心(特に神仏を疑う心)
- 悪見(あっけん)…間違った物の見方。肉体的自我意識を中心にした物の見方、極端な見解、縁起の理を信じない心
菩薩界(天使界)の平等性智
平等性智(びょうどうしょうち)は、全ての人の中に、神仏と同じ性質(神性・仏性)を見出していくことのできる知の段階です。これは、知恵というよりも、より奥深い”智慧”が働いてくる段階です。
仏教的には、”般若の智慧”(はんにゃのちえ)と言います。有名な『般若心経』の般若ですね。あるいは、無分別智とも言います。
この平等性智の段階に来ると(あるいは近づいてくると)、自分や周囲の人の欠点に気づきつつも、それに対して愛おしみと育みの心が湧いてきます。
自分の子ども(幼児)が愚かなことをしていても、裁きというより、「かわいいな、時間をもって見守ってあげよう、育んであげよう」という気持ちになりますよね。
そうした心情・気持ちが、万象万物に対して湧いてきます。
知と愛が一体化してくる段階と言ってもいいかもしれません。
私たちが最終的に目指すのは、この平等性智あるいは般若の智慧の段階ということになります。
ただし、菩薩界の前提が天界上段階の知識・自己実現・リーダーシップにあることも忘れてはなりません。この前提があってこその平等正智であり、この前提を外したら、天界下段界の境涯への逆戻りになってしまいます。
多くの仏教書では、「近代の分析知が行き詰まりを迎え、こうした現代にこそ般若の智慧を…」と書かれていますが、そうではなく、近代的な「客観的知性・分析知・差別知」も足腰の部分として必要なものと把握していくのがネオ仏法の立場です。
平等性智へ至る”知の弁証法”は、キリスト教と仏教を架橋する理論となる
平等知・差別知・平等性智と3つ挙げましたが、自分がいまどの段階にいるのかを確認しつつ、それぞれの知を伸ばしていくこと、また、それぞれの知の反転形を押さえていくことが大事です。
そして、「ゆくゆくは、自分も平等性智の境地へ向かっていくのだな」と、知の目的地をしっかり見据えていきましょう。
以上、造語も含めて、平等知・差別知・平等性智の3つを採りあげました・
平等知は、キリスト教的に言えば”隣人愛”の知の在り方です。一方、差別知は、仏教的な悟りの段階論に相当するでしょう。
平等性智というのは、じつはこの平等知と差別知を弁証法的に総合した菩薩の境地なのです。
平等知は、いわば、「機会の平等」でもあります。誰しも仏性を有している存在であるということですね。「みな神の子である」というふうに、キリスト教的な隣人愛のベースになっている知の段階です。
一方、差別知は、可能性としての仏性を修業によっていかに顕現させることができたか、という仏教的な悟りの段階論に相当する知の段階です。
平等性智は、この両者を総合していきます。
現象としては、一人ひとりが差別(しゃべつ)=悟りの段階を体現しているが、可能性としての仏性をいかに磨きだしてきたかによって、差別は現れている。
しかし、それぞれの人が現象界において苦しみ、試行錯誤しつつ頑張っている姿を慈悲の目で平等視して観察していくことができる、そういう菩薩の境地であり、これがまさに平等性智であります。
こうした、平等性智において総合される”知の弁証法”こそが、キリスト教と仏教を架橋する準備的な理論となっていくことでしょう。
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