”苦楽中道 ”の意味を分かりやすく説明するー ミクロとマクロの悟りへ

中道

今回は、釈尊が29歳で出家を決意してのち、成道(じょうどう=悟り)に至るきっかけになった「苦楽中道」について語ってみたいと思います。

この苦楽中道もそうですが、仏教において、スピリチュアルにおいて、”中道”を理解することは、修行論のみならず、菩薩界以上の高度な認識力をゲットするために、とても大事な考え方になってきます。

単なる道徳論ではなくて、世界(存在)はなにゆえに存在しているか、などのマクロを理解することに繋がってきますし、また、ミクロにおいては、個人の修行がいかにあるべきか、という回答にもなっています。

目次

”苦楽中道”の悟り

まずは、釈尊が苦楽中道を悟った経緯を簡単に振り返ってみます。

釈尊は、釈迦族の王子として、カピラヴァスツというお城で何不自由ない生活を送っていました。元々は、ゴータマ・シッタールダという名前です。

ゴータマは幼少の頃から、「人間は何ゆえに存在するのか」と言った哲学的なテーマにずっと関心があったのですが、お城に訪れてくるバラモン(当時のインドの宗教家)に尋ねても納得のいく答えが得られなかったんですね。

ゴータマの疑問としては、代表的なものは、例の四苦ですね。四苦八苦の四苦です。

*参考記事:四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方

つまり、”生老病死”の4つの苦しみはなにゆえに存在するのか、この苦しみから逃れる手立てはないか、ということに対する回答を求めていたわけです。

伝説としては、王城の東西南北の門を出たときに、老人・病人・死者・修行者を見かけて、四苦について考えるようになったということになっています。これを、四門出遊(しもんしゅつゆう)と言います。

四門出遊

でもまあ、これは後世に作られた伝説でしょうね。

そんなこんなで、四苦への回答を得たい、悟りを得て覚者(かくしゃ)になりたいという思いを抱いて、ゴータマはお城を抜け出して出家したわけです。こうした自由な修行僧のことを当時は、沙門(しゃもん・サマナの音写)と言いました。

当時のインドは、このように悟りを得るために沙門になる自由修行者が数多くいて、またそうした修行者を尊重する社会的風潮もあったわけです。

ただ、多くの修行者が求めていたのは、どちらかというと、霊能力・超能力に近いものであったかもしれません。あるいは、悟りを「霊能力者になること、ふつうの人が出来ないことが出来る超能力者になること」と捉えていました。

これは、現代でも多くのスピリチュアリストが同じ罠にハマっています。

そういった沙門たちの主な修行方法として、難行苦行というものがあったのです。ゴータマもしばらくはそうした修行方法をとっていました。

ところがあるとき、断食をしていてやせ細ったゴータマは、スジャータという村娘からミルク粥の供養を受けます。スジャータは、いま何かの商品名になっていますよね。笑

ゴータマは布施を受ける決意をしたのでした。

布施

ミルク粥の美味しさと、染み渡ってくる生命力の有り難さに目覚めたゴータマは、難行苦行を捨てる決意をします。そして、再び、町に托鉢に出て、健康体を取り戻した上での修行に取り組むようになりました。

これが、ゴータマが、仏陀としての悟りを得るきっかけになったのですね。

苦楽中道の意義とは

ミクロの悟り

極端な難行苦行では悟ることができない。かといって王城での安楽な生活の中にも悟りの因はなかった。修行の本道は、この2つの極端を捨てた中道にあり。

バランスの取れた生活の中で精神的な高みを求めるところにあり、という修行論としての悟りであったわけです。

こうした認識は現代でも有効です。90年代に社会問題を引き起こしたオ◯ム真理教がありましたが、空中浮揚をしたり、水のなかで息を止めてみたり、と、そもそもの修行論の段階で仏教とはまるで異質なものであることを見抜かなければいけなかったんです。

ここらへんは、宗教学者、仏教学者などがきっちりと指摘をしておけば、事件も未然に防ぐことができたかもしれません。

苦楽中道の修行の結果、ピパラの大木のもとで悟りを開いたゴータマは、仏陀となりました。その悟りの内容の一部が十二因縁として伝わっている、ということは別の記事で書きましたね。

*参考記事:十二縁起(十二因縁/十二支縁起)の分かりやすい覚え方と現代的意義

つまり、苦楽中道の第一の意義は個人、ミクロの修行論にあるということです。

マクロの悟り

これは、中道というものが、単に左右の両極端を足して二で割ったようなものではないということです。あるいは、儒教が言うような中庸(ちゅうよう)とも違っています(儒教的な中庸については、むしろ哲学者デカルトの中庸論に近いかもしれません)。

*参考記事:中道と中庸の違い – 儒教・アリストテレスの”中庸”と比較した仏教の”中道”とは?

それでは、中道とはいかなるものか。

実は、ここで西洋哲学の弁証法を援用するのがカギになるんです。…というか、高田個人は、仏教の中道の思想と西洋哲学の弁証法を組み合わせて考え始めたことが、自分なりの悟り(といっても大したものではないですが)のきっかけになりました。

弁証法については、以前、「ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい」という記事でご説明したことがあります。

簡単に振り返ってみますと…、

コップを横から見た人は、「長方形であった」と主張し、コップを上から見た人は、「円形であった」と主張して、意見の対立が起こります。

ところがコップの全体像を観察すると、「円筒形である」という認識が得られますね。

弁証法

    円筒形(合・ジンテーゼ)

長方形(正・テーゼ)ー 円形(反・アンチテーゼ)

という図式になります。

ここで重要なことは、”中道”と同様に、長方形と円形を足して二で割ったのが円筒形であるわけではない、ということです。

そうではなくて、「2次元平面という観点から見ると、長方形と円形は概念の対立となっているが、3次元立方体という観点から見ると、両者の対立は解消される」ということです。

つまり、長方形であったというところにも真実はあり、円形であったというところにも真実はあるが、円筒形というふうに1次元分上昇させて(つまり、3次元で)考えると、より高度な認識に至るということ。

言葉を換えれば、対立した両者の本質部分を残しながら、次元上昇(アセンション)をすることによって、対立は解消され、より上位の認識の段階に至るということです。

苦楽中道もそれと同様なんです。

つまり、”苦”の概念からは、「己への厳しさ」という本質を抽出する。そして、”楽”の概念からは、「幸福感を大切にする」という本質を抽出し、両者を総合(ジンテーゼ)した新たな生活スタイル=修行論が見出されたということです。

この新しい修行論、アセンションされた修行論においては、苦と楽は対立せず、総合されることになります。

仏教および仏教哲学でいう「中道」を、弁証法として理解していくと、のちのち、空(くう)の概念を理解するのに非常に役立ってきます。

”空”とは、「〜ではない、〜ではない」という二重否定の繰り返しののちに、次第に「世界とはいかなるものか?」という真理そのものに近づいていく過程であるとも言えるでしょう。

これが中道の探求の結果、得られる「マクロの悟り」です。

ここまで理解できていれば、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ・ナーガールジュナ)の『中論』に書かれてある、八不中道(はっぷちゅうどう)が理解しやすくなり、かつ、それが「空」の理解へとつながっていくことになります。

この八不中道については、下記の記事で解説しています。

*参考記事:龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の八不中道で「空」を理解する

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