今回は仏教における”戒”(五戒十善)についての概略と、それを現代に応用するコツについて書いていきます。
なぜ”戒”が大事かと言うと、次代の文明では、キリスト教プロテスタント(とりわけ、カルヴァン派)が言うところの「世俗内禁欲」が肝要になってくるからです。
これはマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べたとおりです。
魂の修行が、出家した僧侶や修道士に限られるものであったならば、ほとんどの人は魂修行ができないことになってしまいますね。
そうではなく、この世(現象界)に生まれた人すべてが、現象界にわざわざ生まれてきた意味・ミッションを全うするために、在家のままで、魂を磨いていけるようになることがポイントになるわけです。そのための世俗内禁欲です。
「現象界にわざわざ生まれてきた意味・ミッション」については、下記の記事をご参照下さい。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
仏教の戒律をテーマに本気で書くと、めっちゃ漢字(専門用語)が出てきます。それらをいちいち列挙はせずに、”戒”の本質的なところだけ論じていこうと思います。
もっとも、重要ポイントを挙げていくだけでもけっこう漢字が出てくるのですが、なるべく順序立てて分かりやすく書いていきますので、ご安心下さい。
戒と律の違い
”戒”よりも、一般には”戒律”という言葉のほうが有名ですが、仏教の戒律については、本来は、戒(シーラ)と律(ヴィナヤ)とを区別しています。
どういう違いがあるのか?一言で述べますと、
- 戒:修行のためのガイドラインで罰則はなし
- 律:教団の秩序維持のために制定されたもので罰則あり
という違いになります。
戒は修行のためのガイドライン(罰則はなし)で、かつ、修行の出発点でもあります。こちらは罰則がありませんので、主体的に守ることを推奨されているものです。
一方、律は出家教団内での秩序維持のための細目(罰則あり)です。
集団生活をしていると、いろいろと問題が起きることがありますので、僧団(サンガ)内での秩序を守るために設けられているのですね。学校に校則があるようなものです。
もっとも、出家者には比丘(びく/男性出家者)の二百五十戒、比丘尼(びくに/女性出家者)の三百四十八戒という戒がありまして、こちらは罰則がありますので、やはり「戒と律」は意味的には多少、重なって運用されているところはありますね。
なぜ、戒が大事なのか?
そもそも、なぜ”戒”が大事なのでしょうか?
「悪は道徳的に為してはいけないことだから」というのは当然あります。道徳の根源は仏法にあり、戒を犯すことは仏法を犯すことに等しい、という理由も無論あります。
もうひとつは、「戒が仏道修行の前提になっているから」という理由です。
仏教には三学(さんがく)という思想があります。文字通り、「3つの学び」です。
内容は、戒・定・慧(かい・じょう・え)の3つです。
”戒”については上述の通りで、”定”は禅定、いわゆる瞑想のことですね。”慧”は智慧を身に着けていくことです。
これらは適当に3つ並べられているわけではなく、順序に意味があります。
”戒”は修行のためのガイドラインと書きましたが、そもそも破天荒な生活をしていては修行もなにもあったものではありませんので、これが一番目に来ているわけですね。
霊的に言えば、「戒を破りまくっている」という状態では、イコール、「悪霊に憑依されまくっている」という可能性が高く、そうすると、次の”定”、禅定に入るのがとても難しくなってしまうのです。
難しくなってしまうだけではなく、はっきり言って危険です。
瞑想を行っていると、人によって程度の差はあれ、潜在意識と導通してきます。潜在意識というのは、じつはあの世(実在界)でもあるのですが、心境がめちゃめちゃになっていると、あの世と接続しているだけに、悪霊ウエルカムになってしまいます。
最悪の場合、人格を乗っ取られるところまできます。
たまに、「瞑想の結果、よけいに精神状態が悪化する」というケースがありますが、それはここのところが原因になっているのです。
なので、禅定に入る前提として、”戒”で防波堤を作っておくわけです。戒⇢定の順序でないと修行にならないですし、危険であるということです。
”悪霊”というと、検索で当記事に訪れていらっしゃる方はびっくりされるかもしれません。「仏教では魂、霊魂は否定されているのでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、これは近代仏教学のミスであると、当サイト(ネオ仏法)では考えています。
詳しくは、下記の記事をお読み下さい。
*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す
さて、
3つめに”慧”が来ています。
これはそもそも「智慧を得ること」が仏道修行の目的であるから、ですね。智慧を得て解脱し、涅槃の境地に入ることが仏道修行の最終的なゴールでありますので、三学の最後に置かれているわけです。
また、2つめの禅定の結果、智慧が開発されるという順序もあります。
智慧には大別して3つありまして、それぞれ、聞慧(もんえ)、思慧(しえ)、修慧(しゅうえ)と言います。
超訳的に定義しますと、
- 聞慧:聞いて学ぶこと
- 思慧:学んだことを考えてみること
- 修慧:さらに繰り返し考え、実践を通じて智慧を自らのものにすること
という順序になっています。
これは並べてみると、さもありなん、で、学校の勉強でも同じですよね。
授業を聞いただけ(聞慧)では覚えきれませんので、家に帰って復習したりします(思慧)。そしてさらに中間テスト・期末テストの際にまた繰り返して、仕上げの復習をしますよね(修慧)。ここまでやらないとなかなか身につくものではないからです。
まとめますと、”智慧の獲得”という最終ゴールへ到達するための前提だから”戒”が大事、ということになります。
五戒と八斎戒
五戒
戒は出家・在家を問わず、仏教に帰依したときに与えられるもので、五戒は特に在家信者向けの戒です。五戒の内容は、下記のとおりです。
- 不殺生(ふせっしょう) – 殺してはならない
- 不偸盗(ふちゅうとう) – 盗んではならない
- 不邪婬(ふじゃいん) – 犯してはならない
- 不妄語(ふもうご) – 嘘をついてはいけない
- 不飲酒(ふおんじゅ) – 酒を飲んではいけない
先進国に住んでいる現代人がこれを読んでまず思うことは、五戒はほとんど法律の問題、あるいは基礎的な倫理・道徳で片付く問題ではないか、ということでしょうね。
法律ということでは、不殺生・不偸盗が刑法の適用範囲ですし、不邪淫も不倫などが告発されれば民法の範囲内に入ります。不妄語は一部、詐欺罪などに適用されるでしょう。
そういうわけで、「さて仏教に帰依しますか」ということで、五戒を授けられても、はたと困ってしまいますね。
ということで、五戒のなかで特に現代的なトピックとして注目すべきこと、に焦点を当てて書いてみます。
不殺生
釈尊と同時代にジャイナ教というものがありましたが、ここの教えは不殺生を徹底しています。虫も殺してはいけないということで、箒で掃きながら道を歩く、といった具体です。
が、徹底するなら、微生物・細菌レベルまでいくことになり、ここまではどう考えても不可能ですね。
それから、動物の肉は良くないということで、ベジタリアンになる方もいらっしゃいますが、植物にもちゃんと魂はあります。
ちなみに、動植物を食べること自体が罪ではないか?という論点については、下記の記事をご参照ください。
*参考記事:虫や動植物を殺したらスピリチュアル的に罪になるのか?
結局は、生かし生かし合う世界の中での奉仕業として有りがたく頂き、自分としては動植物の供養を上回るくらいの仕事を人生のなかで為していく、というトータルで考えるべきかと思います。
不偸盗
後述する十善戒(じゅうぜんかい)の「与えられたものをとってはならない」の解釈を応用すると、知識社会におけるアイディアの盗用などを含めて考えるといいかもしれません。
また、「盗撮」なども当然含まれるでしょう。
不邪淫
不邪淫については、別記事で取り上げています。詳しくは下記の記事をご参照下さい。
*参考記事:浮気や不倫をしたら地獄へ堕ちるのか?
要点だけまとめておきます。
性的行為自体は、善でも悪でもないが、注意点として、
- 関係者を傷つけないこと
- 耽溺して、精神的な価値観を見失わないようにすること
が大事ということです。
不妄語
不妄語については、宗教・スピリチュアルに関わっているものであれば、大妄語に要注意です。大妄語とは、悟りを偽ってはならないということです。
よくあるのが、「神々や天使の名を騙る」あるいは、「菩薩の悟りを得ていないのに菩薩を騙る」といったところでしょうか。
この大妄語の罪は釈尊の教団でも最も重いとされていて、教団追放の対象となっていました。死後は地獄の最下層、無間地獄に赴くとされています。
それは厳しすぎるのでは?と思われるかもしれません。
なぜ、ここまで厳しいかというと、
宗教・スピリチュアルに携わる者は、人間にとって最も本質的な部分である心とか魂に関わる問題を扱うので、この一番大事なところの前提で嘘をついたら、多くの人の本質的な部分である魂を腐らせてしまうことになるからなんですね。
ゆえに、魂がまとっている洋服ともいうべき肉体を殺める行為、すなわち殺人よりも罪が重くなるということなのです。
もっとも、大乗仏教のなかで、菩薩が狭義の菩薩界の境地であるというところから、仏法によって衆生救済を目指す者すべての呼称になっていったように、どうしても、神々とか天使の呼称はインフレを起こしやすい性質をもっています。
十界でいえば、天界の段階ですでに「〜神」が出てきますからね。ある程度のインフレは許容範囲かと思いますが、やはり、悟りや実績の客観視が必要、ということになるでしょう。
*参考記事:十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論
ココがあまりにかけ離れていて、十界説でいうところの、地獄や人レベルの心境であるのに、「◯◯大天使であるの生まれ変わりである」とか、
「超高次元から通信を受けている」などと騙って(というか本人は本気で思っているのかもしれませんが)、学ぶ人々を間違った方向に導いた場合、それは明らかに、死後は無間地獄(最深部)直通便、超特急エクスプレスの行為ということになります。
この問題は本当に多くて、本人はさぞや大天使の世界へ行くことだろうと思っていたけど、蓋を開けてみれば(死後ということですね)、周りは真っ暗、というケースが多々あります。
結果、死後も悪魔として暗躍するのがよくあるパターンです。
釈迦教団内でも、大妄語を犯すと波羅夷罪(はらいざい)と言いまして、教団追放という最も重い罰則が適用されていました。
この大妄語は論外のレベルですが、一般的に言っても、「嘘つきは泥棒のはじまり」というように、妄語戒を犯すと、そこからどんどん戒律を破るきっかけになってしまいます。
人のこころにも”慣性の法則”が働きますので、「ちょっとした嘘」が次の「もう少し大きな嘘」をつきやすくなり、やがては大きな破戒に連なっていく危険があるということですね。
不飲酒
この不飲酒というのも、扱いに困りますよね。
これはそもそも、釈尊の時代のインドで普及していたお酒がやたらと質が悪かった、というところに起因しているのです。今でいえば、麻薬・LSDのような効果でしょうか。
そういうものを摂取すると、フラフラになって修行どころか、家庭生活が崩壊したりするので、ガイドラインを設けたということですね。
現に、インドより寒い国(中国〜朝鮮〜日本)へ仏法が伝播するようになると、お酒は”般若湯(はんにゃとう)”と呼ばれるようになり、高僧であっても時に嗜むようになりました。そうした記録も残っています。
東南アジアのような小乗仏教の国では、「お酒じゃないからいいんだろう」ということで、僧侶が袈裟を着たまま煙草をスパスパ吸っていて可笑しいのですが、まあこういうのも一種の原理主義ですね。
仏教ではありませんが、明らかに菩薩界上段界のスピリットと思われるゲーテやカントもワインは嗜んでいますし、カントの朝食は紅茶一杯と煙草一服でした(カント特有の健康についての考察があったんでしょうね)。
結局、こうしたものも、生活の潤いとか嗜みであれば問題はないのであって、むしろ五戒当時の解釈を厳格に守るというのもまた別な問題が出てきます。
人は、内容がわからなくなると、カタチに走る傾向があります。これが原理主義の発生原因ですね。
この世のものは全て価値中立的ですので、身を滅ぼさないガイドラインとして戒律を考えていくということで良いと思います。
なので、「麻薬・ギャンブル・過度の飲酒」など、生活の破綻を誘発するものに耽溺しない、という解釈で良いと思います。
八斎戒
八斎戒は熱心な在家信者に向けて、五戒に3つの戒を加えたものです。通常は五戒が基本になりますが、一ヶ月の中の決まった日(斎日)にこの3つを加えて八斎戒とするわけです。
五戒は前述しましたので、残り3つをかんたんに解説します。…が、漢字などは覚えなくていいと思います。
- 不得過日中食戒:正午以降は食事をしない
- 不得歌舞作楽塗身香油戒:歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない
- 不得坐高広大床戒:地面に敷いた臥具だけを用い、贅沢な寝具や座具でくつろがない
この3つに関しては、現代生活ではなかなか難しいでしょう。というか、適してはいないでしょう。
忙しい現代人が「正午以降は食事をしない」などとやっていたら、倒れてしまうかもしれません。
また、「歌舞音曲から離れる」ということですが、釈尊当時のインドはともかく、芸術の中にも精神性を高めるものもあります。
現代では、ベッドも必ずしも贅沢とは言えないですね。
なので、この3つに関しては、現代的シンプルイズムとして「自分としては精神性を優先しつつ、どのようなシンプルイズムの実践がありえるのか?」を考えていくと良いでしょう。
十善戒(十善行)と十悪(十不善業道)
十善戒は大乗仏教で勧められている戒です(『華厳経』十地品第二「菩薩住離垢地」に根拠あり)。大乗仏教の文脈で語られていますので、十善戒は「菩薩として守るべき戒め」ということになります。特に真言宗で重視されている戒です。
逆に、十善戒を守らなかった場合は”悪”ということになりますので、その場合は、「十悪」と言われるのですね。
十善戒は、三業に対応して作られています。
三業とは、身・口・意の3つの行いのことで、人間の(こころを含めたところの)行為を3種類に区分したものです。
すなわち、
- 身業(しんごう):具体的な行為に関わるもの
- 口業(くごう):行為の中でも特に言葉に関わるもの
- 意業(いごう):内面に関わるもの
この3つです。
十善戒はこの三業に対応しているもの、と理解すると覚えやすいです。
以下、三業に分類しつつ、十善戒を列挙してみましょう。”身三口四意三(しんさんくしいさん)”と言いまして、下記の通り、身業に3つ、口業に4つ、意業に3つ、という配分になっております。
- 身業
不殺生(ふせっしょう) :殺してはならない
不偸盗(ふちゅうとう) :盗んではならない(与えられていないものをとってはならない)
不邪淫(ふじゃいん) :犯してはならない - 口業
不妄語(ふもうご) :嘘をついてはならない
不綺語(ふきご) :無駄話をしてはならない
不悪口(ふあっく) :悪口を言ってはならない
不両舌(ふりょうぜつ) :二枚舌を使ってはならない - 意業
不慳貪(ふけんどん) :過度に貪ってはならない
不瞋恚(ふしんに) :過度に怒ってはならない
不邪見(ふじゃけん):邪な見解を持ってはならない
このように10項目列挙してみると、さきの五戒と重なっているところが4つありますね。最初の4つがそうです。不飲酒だけが抜けています。
不飲酒が抜けているのはやはり、大乗仏教がインドより北部の国々で発展していったから、という歴史的経緯もあるでしょう。
ただ、上述したように、”不飲酒”を「麻薬、ギャンブルなどで生活を破綻させない」あるいはもっと広く、「生活のリズムを乱さない」という現代的意味に再解釈するのであれば、やはり、不飲酒も心に留めておくべきでしょう。
以下、五戒と重なっていないところに焦点を絞って解説していきます。
不綺語
”不綺語”は「無駄話をしてはならない」ということでしたね。
まあこれを文字通り徹底すると、「一切ジョークも言ってはいけない」みたいな殺伐とした世の中になりそうです。
なので、もっと”不綺語”の真意を理解しておくべきでしょう。
不綺語がなぜいけないかというと、さきに述べた「人生の意味とミッション」ですね、この真理から目をそらせてしまう契機になってしまうからです。
20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーは、”空談(くうだん)”という言葉で表現しています。文字通り、「からっぽの談義」ということです。
ハイデガーによると、”死”という限界状況に向き合うことにより、本来的な生き方(本来性)を取り戻すことが肝要なのですが、”空談”にふけっていること自体が、本来性から目をそらせてしまう危険性があるということなのです。
”不綺語”というのも、まさにこの”空談”の文脈で捉えるべきだと思います。
なので、他者や場を和ませるという目的でのジョークなどは、善意から発していますので、これは不綺語には入らない、と解釈して良いと思います。
不悪口
悪口を言うこと、はそれ自体が、自らの価値を貶めることになります。
人間の価値はつきつめていくと、「心だけ」の世界になります。
つまり、「あなたはどんな人か?それを知りたくば、心に去来していることを列挙してみよ、それがすなわち”あなたの価値”である」ということですね。
思い=あなた
の等式です。
なので、他者の悪口を言う人の価値は、「悪口を言う人」という価値になってしまいます。
”不悪口”はこのようなストア哲学的な解釈でいけば奥深いものであることが分かります。
それから、不悪口で勘違いしやすいところに、「正当な批判・批評」があります。
批判・批評することそのものが一見すると「悪口を言っている」かのように見えることもありますが、ここも心の内容に注目したほうが良いですね。
仏法というものは、実践論的につきつめていくと、「善をなし、悪をなさない」(*諸悪莫作・衆善奉行(しょあくまくさ・しゅぜんぶぎょう))に至ります。
なので、「他者に悪をなさしめない」という意味での正当な批判・批評は不悪口に含まれません。
むしろ、「悪を見て見ぬ振りをする」ということは、間接的に悪の助長を促していることにもなってしまいますので、この点、注意です。
不両舌
こちらも「不悪口」と同様で、心の価値で判定すれば、それがいけないこと、避けるべきであることが分かります。
人はある意味で全員が霊能者であり、二枚舌を使い続けていくと、なんとなく「この人はそういう人だ」ということが直感的にバレていきます。
人は長くは騙せないものです。
また、二枚舌を使うということは、策略的に人を貶めるということですが、これは、「人を貶めると相対的に自己の価値が上がった」かのような錯覚にあるということでもあります。
ここもストア主義的に、「人を貶めるということは、あなたの価値は”人を貶める人”である」というふうに、真実の価値論で考えていったほうが良いですね。
不慳貪、不瞋恚
この2つは「心の三毒」に関わるものです。貪瞋痴(とんじんち)の3つでしたね。
貪瞋痴は並列しているようですが、理解の仕方としては、
痴(智慧がないこと)がベースになって、
- 貪:他者を過剰に取り込む
- 瞋:他者を過剰に排斥する
というふうに、エネルギーの方向性としては逆向きですが、ともに他者の仏性を尊重していないという意味では同系列の悪趣にあります。
ゆえに、この2つをチェックすることにより、「智慧を見失っていないか?」を確認していくことが肝要です。
不邪見
”邪見”というのは、狭義では、「因果の道理を無視すること」です。八正道のはじめ、”正見”と対置されるものですね。
因果の道理、すなわち、原因と結果の法則を無視すると、これは「主体性の原理」の放棄につながります。
結局のところ、「どれだけ責任をとれる範囲が広いか?」ということが、人格・霊格に比例していきます。
なので、原因・結果の法則の無視、「俺のせいじゃないよ!」というのは、それが客観的にみて正当な場合ももちろんあるでしょうが、こうした自己責任の放棄自体が霊格向上(魂の修行)の放棄にもつながってしまうのですね。
また、真の意味での幸福論にも反していきます。
邪見はこのような文脈でひろく捉えていくと良いでしょう。
止持戒(しじかい)と作持戒(さじかい)
さて、
戒律は一般に「〇〇をしてはならない」という体裁をとりますが、戒めということであれば、「〇〇をなしていこう!」という積極的な戒があってもよいですよね。
むしろ、現象界(この世)の意味を積極的に評価するネオ仏法としては、このような積極的戒は大事と考えます。そうであってこそ、世俗内禁欲は仏国土づくりを推し進めるより強いパワーとなっていくでしょう。
伝統仏教の中でも、戒を止持戒(しじかい)と作持戒(さじかい)に分類する思想がありました。
止持戒とは、漢字の語感で想像がつく通り、「〇〇をしてはならない」という戒です。
作持戒のほうが、「戒を作す(なす)」ということで、「〇〇をしていこう!」という積極性のある戒ですね。
人生というのは、忙しさの只中にあるとあっという間に過ぎていきます。
晩年に「で、なにしに生まれてきたんだっけ??」というふうにならないよう、「今回の人生でなにをすべきか?」という観点から、自分オリジナルの作持戒を創っていくと良いですね。
以上、多少駆け足でしたが、仏教の戒(五戒・十善戒)を現代生活(世俗内禁欲)に応用するコツを述べてみました。
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