予定説と自由意志は本当に矛盾するのか?- 因果律をも包含する<絶対神>

予定説 自由意志

「予定説」というのは、個々の人間が救われるか否かは人間の側の自由意志(自由意思)とそれに基づく行為によるのではなく、神の自由な選びによる、という”神の主権”に重きをおいたキリスト教プロテスタントの教理です。

とくに、カルヴァン主義(カルヴィニズム)によれば、「救いに選ばれる者と滅びに選ばれる者は予め神によって決定されている」という「二重予定説(二重決定論)」の立場をとります。

このように聞くと、キリスト教の門外漢にとっては、「ええっ!そんな不公平な神があるものか!?」となりそうです。

不公平

本当に、人間の自由意志や行為が救いに関わることはないのか?すべては神の意志のみ、いわば、”運命”に過ぎないのか?

予定説については、よく知られているように、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、予定説を含むところのプロテスタンティズムが資本主義のエートスを生む原動力のひとつになったことを述べていますので、近現代史を考えるに際しても避けて通れないテーマかと思います。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

そこで今回は、「予定説と自由意志(自由意思)」をテーマに考察し、神の絶対性と人間の自由意志は矛盾しないことを論理的に証明してみたいと思います。

*以下、「自由意思」ではなく「自由意志」と表記していきます

目次

予定説の根拠 – パウロ〜アウグスティヌス〜ルター〜カルヴァン

予定説が手強いのは、カルヴァン主義だけで唱えられている説というだけではなく、パウロ→アウグスティヌス→マルティン・ルター→ジャン・カルヴァン、という、いわば”キリスト教神学の大山脈”に由来する説だからです。

パウロは「ローマ人への手紙」で以下のように述べています。

まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。(「ローマ人への手紙」9章11-13節)

この文章では、「善も悪もしない先に〜わざによらず」となっていますので、人間の善行などは救いにはまったく関係がない、と予定説的に解釈されてもしょうがないですね。

なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました(「ローマ人への手紙」8章29-31節)

ここでは、「あらかじめ知っておられる人々を」「あらかじめ定められた人々を」となっていますので、余計に予定説的に響きます。

『告白』で有名なアウグスティヌスも「神の選びが神の予定に基づく行為である」という趣旨のことを述べています。

キリスト教史に少し詳しい方であれば、「ペラギウス論争」を思い出すでしょう。

アウグスティヌスと同時代のペラギウスは、「人間は自由意志による善行によって救いに至ることができる」と主張しました(ペラギウス主義)。

それに対して、アウグスティヌスは、自由意志は認めるものの、救いはあくまで神の恩寵による、というふうに反駁しました。

ルターは、『奴隷意思論』において、「自由意思に基づく行為によって救済が得られるとするのは誤りであり、ただ神の恩寵と選びによって救いはなされる」という説を唱えました。

奴隷意志論

カルヴァンについては、「予定説」がカルヴァン自身の神学思想の柱とまで言えるかどうかまでは疑問ではあるものの、二重予定説も含めてはっきりと書物に記しているのは事実です。

ただ、パウロやアウグスティヌスの言葉を「予定説的に」解釈するかどうかは、キリスト教内部でも意見が分かれているところです。

そもそも”予定説”そのものは、ローマ・カトリック教会では”異端”として退けられていますし、正教会でも受け入れられていません。

また、プロテスタントなかでも、予定説を受け入れない教派はいくつかあります。有名なところでは、「普遍救済説」を唱えた”アルミニウス主義”があります。

なので、”聖書的”に即して考えると、なかなか難しい面はあると言えるでしょう。

予定説は神の絶対性を担保する

それでは、予定説についてネオ仏法ではどのように考えるか?

上述したように、救いの予定説的解釈(あえて、「予定説的」としておきます)は、パウロ→アウグスティヌス→ルター→カルヴァン、という、言わば「キリスト教そのものを作ってきた偉人」によって発見・再発見されてきた説ですので、なんらかの真理は含まれているはずです。

結論的には、やはり、「神の絶対性」ですね、唯一神教においてはまず第一にここのところが担保されないと一神教として成立しえない、というところがポイントだと思います。あるいは、「信仰にならない」と言っても良いです。

人間の側の自由意志とそれに基づく行為が神の意志を左右してしまうことは、

人間の自由意志 – 神の意志

といった並列状態になってしまいますので、神が相対化されてしまいます。

信仰においては、まず前提として、「神の絶対性」ですね、ここのところを認識できないと信仰にならないのは確かなのです。

人間の自由意志をはるかに超えた神の絶対性です。

そして、この神の絶対性を深く認識できるようになる契機が、逆に、「人間の不完全さ」なのです。

人間…というより、まずは自分自身ですね、実存としての自己の不完全さ。自己が不完全であること、善を望みつつ、つい悪を犯してしまうこと。

ここのところ、「自分はついに悪から完全に離れた」と思えてしまうのであれば、その人は自己省察が足りないのです。人間は肉体を持っている限り、100%の善に生きることはできません。

したがって、予定説的な認識の中には、

  • 自己の不完全さ
  • 神の完全さ(絶対性)

この2つが必ずセットになっています。

不完全を認めることができるからこそ、同時に、完全を信じることができるようになるのです。

ルターの『奴隷意思論』という書名に感じられるもの、カルヴァンの「全的堕落論」、あるいはパウロ、アウグスティヌスが認識したところの「原罪」ですね。

これらは共通してみな、「実存としての<われ>の不完全さ」についての深い省察がまず先立っているのです。

考察

「自分は本来、救われるに値しない」という省察は、「全き善」すなわち「神の絶対性」の認識と表裏一体の関係になっているのです。ここに信仰の核心があるのは確かです。

言葉を換えれば、「神(実在)中心の世界観」の獲得です。不完全な自己を深く認識したときに初めて「自我中心の世界観」を手放すことができるようになります。

予定説…と言いつつ、パウロもアウグスティヌスもルターもカルヴァンも、「自らが救われていること」逆に言えば、「神の絶対の愛」「神の恩寵」を深く感じたはずなのです。

自らの不完全性というフィルタを通して、神の完全性を観ることができたのです。予定説の最大ポイントはここにあると私には思われます。

一方で、周りを見渡してみると、自己の不完全さを認めきれていない人々がいるのも確かです。道徳的傲慢さです。

さきに述べたように、自己の不完全さと神の完全さがセットで認識されるべきものであるのであれば、自己の不完全さを認めきれていない人々はいまだ神の完全さを認識できていない、ということになります。

これはつまり、信仰が本当の意味で成立していない、ということです。

ここで、信仰が成立してない(神の恩寵が得られていない)理由を人間の側の努力に帰してしまうと、

  • 人間の努力(自由意志+行為)→神の恩寵を左右する

という図式にまたもや陥ってしまうことになります。

したがって、必然的に、「救われていない人々」イコール「予め神の恩寵を得られていない人々」という図式を選ばざるをえないのですね。

この<神の恩寵論>あるいは<神の絶対性>を論理的に徹底すると、二重予定説になるというわけです。

予定説に感じる違和感は「裁く神」

上述したように、「自由意志とそれに基づく行為によって救いが左右される」となれば、どうしても神の絶対性がゆらいでしまうように思われます。

ゆえに、論理を徹底させれば予定説に至るのも分からないでもないのです。

しかし一方で、予定説の定義を振り返ってみると、どこか違和感を感じてしまうのも事実ではあるでしょう。

  • 予定説:個々の人間が救われるか否かは人間の側の自由意志(自由意思)とそれに基づく行為によるのではなく、神の自由な選びによる

この定義のどこに違和感を感じるかと言うと、やはり、「神は救わない人をも予め決めている」という二重予定説的な語感でしょう。

語感というより、予定説を突き詰めるとどうしても二重予定説になる、というのは上述したとおりなのですが。

しかし、ネオ仏法では、「予定説→二重予定説に感じられる違和感にも真理はある」と考えます。

この”違和感”の正体は、「救わないことをも予定しているような神が本当に愛(アガペー)の神なのか?」「”公平さ”も真理、すなわち神の属性の一つということを鑑みると、予定説はあまりにアンフェアではないか」ということでしょう。

*ミルトンが、この二重予定説を批判して、「たとい地獄に堕されようとも、私はこのような神を絶対に尊敬することはできない」と言ったのは有名な話です。

神は愛の神、福音の神でありますから、神の意図としては「一人も残さず」救済するおつもりであるはずです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(「ヨハネによる福音書」3章16節)

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます(「テモテへの手紙一」2章4節)

ただ、現実問題として、「救われない人がいる」というのも事実ではあります。ここのポイントは次項で考えていきます。

もう一点は、「神は怒り、裁くときもある」という論点です。

ここのところが、「救わない人を予め決めている」教理の通奏低音になっているように思われるのです。

妬む神

この「裁きの神」をどう考えるか?についてご説明していると、さらにもう一記事以上費やしてしまいますので、要点だけを述べておきます。

私は、普遍宗教としてのキリスト教にユダヤ的民族宗教性が払拭しきれずに残っているのが原因だと考えます。

より具体的には、イエスが指し示した愛の神(天の父)と、旧約にときおり現れる「妬む神、裁きの神」は別の存在である、という認識です。

そもそも妬む神が唯一神でありえましょうか?

妬むということは妬む対象としての別の神を想定していますので、その時点で「唯一神性」を放棄していると同じことなのです。

妬む神=ヤハウエ(ヤーヴェ)はユダヤ教の民族神であり、イエスの言う”天の父”とは別存在であると思います。

もともとパレスチナ地方では最高神を”エロヒム”と呼んでいました。このエロヒムが愛の神、普遍神であり、ヤハウエはユダヤ教の民族神であるとネオ仏法では考えています。

実際に聖書文献学でも、ヤハウェ資料とエロヒム資料その他が混在していることが分かっています。

今回テーマにしている「予定説」あるいは「二重予定説」にも、このヤハウェ的な裁きの神が混入していると思われます。

*参考記事:ヤハウェとエロヒムは別の神である – 民族神と最高神を区別したほうが良い理由

予定説と自由意志はどのように調和されるか?

意志論(全体意志と個別意志)

問題は、さきに述べたように、人間の自由意志とそれに基づく行為によって、救いが左右されるということは、「人間が神を動かすこと」につながる、つまり、神の絶対性が脅かされるとう論理にあると思いのですね。

神の意志 ー 人間の意志

という並列状態におくと、神が相対化されてしまうということです。

ということは、逆に言えば、「人間の自由意志とそれに基づく行為が救いに関わったとしても、神の絶対性を侵害しない」という論理を証明すれば、予定説と自由意志の問題は片付くことになります。

そして、ネオ仏法は明らかにこの立場に立ちます。

神(唯一神エロヒム)は絶対でありますから、同時に、<全体>であるのです。神が全体でなければ、神以外の領域があることになり、とたんに神は相対化されてしまいます。

ゆえに、神は全体であり、自らのうちに人間を含むところの<現象>をその内部に包含していることになります。

包含

いま問題にしている「意志」も同様です。

神の意志、これを「全体意志」と呼ぶとするならば、人間の意志を「個別意志」と呼びましょう。

全体意志のうちに個別意志が包含されているのです。

本質論において、人間の自由意志(と、それに基づく行為)は神の意志と別個にあるわけではなく、神(の意志)に予め包含されているのです。

このように考えると、「では人間が悪を思い、犯すことも神の意志の一部なのか?」という、神義論(しんぎろん)の問題が出てきそうです。

この神義論については、下記の論考で解決されていると思いますので、参考になさってください。

*参考記事:神義論への分かりやすい最終回答 – 全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?

人間は自由意志を発揮している(個別意志)つもりであっても、全体意志の志向に沿っている、包含されているという意味では、「すべては神(仏)の手のひらのうちにある」と言えるでしょう。

そういう意味では、言葉はアレですが、ルターの『奴隷意思論』は正解なのです。

そして、自由意志の発揮の結果、”救い”が左右されたとしても、その自由意志そのものが神の全体意志に包含されている以上、神の絶対性は損なわれないのです。

神の絶対性と因果律

さて、人間の自由意志(とそれに基づく行為)が神の救いを左右する、ということについて、因果律(因果論)の問題からも考えてみましょう。

  • 原因:人間の善への努力(自由意志+行為)
  • 結果:神の救い

という図式ですね。

この図式においては、「神は因果律に支配されている」という、またもや神の絶対性を脅かす事態が現出しているように思われます。

原因ー結果というのは、言葉を換えれば「時間論」です。原因ー結果の連鎖はいわば<変化>であり、<変化>そのものが実は時間の正体だからです。

神(エロヒム)が全能であるならば、神は時間をも超越しているはずです。…より正確に言えば、神は時間をもその内部に包含しているということです。

逆に言えば、人間を始めとする個別的な現象は「時間的存在」なのです。

時間論

あなたは時間によって、もろもろの時間に先立っているのではありません。そうでなければ、あなたはすべての時間に先立つことにならないからです。ですからそうではなくて、あなたは常に現在である永遠の高さによってすべての過ぎ去った時間に先立ち、またすべての未来の時間を追い越します。(アウグスティヌス『告白』第11巻第13章第16節)

アウグス ティヌス 告白 (下)

ゆえに、神の内部の<現象>として人間の自由意志・行為→救い(原因→結果)という時間的流れが起きたとしても、それはあくまで「神の内部」の出来事ですから、ここでも神の絶対性は損なわれないのです。

あるいは、因果律という法則そのものも神が制定したものであるから、因果律によって「救うか救われないか」が左右されたとしても、やはり神の絶対性は損なわれることはない、と言い換えても良いでしょう。

死後、天の国に赴くかどうかは、人間の側の信仰と行為によって決定されます。ここには因果律が働いています。

「神の愛」と「因果律」は別々の法則として働いているかのように感じられるかも知れませんが、そうではありません。

因果律というものも神の経綸の一部であり、人間の側の自由意志プラス行為に責任を持たせるというのも、広い意味での神の愛の現れなのです。

*地獄が永遠であれば、それはキツすぎますが、地獄に堕ちてもそこに永遠にいるわけではありません。あくまで<自業自得>の学習の場であるのです。

*参考記事:キリスト教の「地獄(ゲヘナ)で永遠の業火に焼かれる」は本当か?

結論的には、「予定説と因果律は矛盾しない」ということになりますが、そうすると、このトピックは、実はキリスト教と仏教を総合する道にも繋がっていくことにもなります。

興味がお有りの方は、ぜひ下記の記事もお読み頂けたらと思います。

*参考記事:仏教とキリスト教の違いを総合するネオ仏法 – 超越/信仰と内在/覚知は両立する

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • コメントありがとうございます!

    今回は神学的な議論でしたので、個人のお悩みの解決のお役に立ったことに驚きつつ、
    とても嬉しい思いです。ありがとうございます。

    人それぞれ、この世において何かしら課題はありますが(わが家でもやはりあります)、「すべては神の経綸のうちにある」
    あるいは仏教的には、「この世のことはすべて無常で無我である」という”空なる心”でもって、
    共に乗り切っていきましょう!

  • いつも勉強になる記事をありがとうございます。
    今回は特に胸に刺さりました。

    子供の不登校に悩む毎日だったのですが、今日夫から先のことへの不安を捨てようと言われたばかりです。
    先の不安というのは子供の将来のことですが、それについて不安を感じるのは子供自身の人生をどうにかできると思っている私の傲慢さからくるものなのだと、今回の記事を読んで思った次第です。
    ありがとうございました。

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