原始仏教は葬式には関わっていない
最近、親類で法事があり、お葬式について改めて考えるところがありましたので、書いてみますね。
お葬式というと、一般的には仏式というパターンが多いかと思いますが、実際は、釈尊の時代は葬儀も含めて、祭事にはほとんど関わっていませんでした。
これは、釈尊以前のバラモン教(今のヒンズー教のベースになっている宗教)が、「天界へ生まれるためには祭事が大事」という教えを説いていたのですが、
それに対するアンチテーゼとして、釈尊は、「天界へ生まれるのは儀式によるのではなく、思いと行為による」という考えを打ち出していったわけです。
仏教用語で言えば、「施論・戒論・生天論(せろん・かいろん・しょうてんろん)」ということになります。
ざっくり申し上げると、
- 施論=良いことをして
- 戒論:悪いことをしなければ、
- 生天論:天界へ生まれることができる
というシンプルな説法です。
そういうわけで、釈尊の時代においては、やはり、個の自立ですね。外部からのスピリチュアルパワーによって、一気に!というのではなく、
自立→自律と言ってもいいですが、やはり他力と言うよりは、自己責任論を中心に説いていたのは間違いがないです。
ただ、祭事に関わらない、というのは、一方では、バラモン(伝統宗教)の祭官の人たちの職業まで奪ってはいけない、という釈尊特有の慈悲の配慮が働いていた側面もあるでしょう。
まあ、こういうことは、仏教を勉強している方であれば、常識的に知っていることではありますし、
また、仏教界からも、「今の葬式仏教はいかがなものか?」といった真摯な問いも出ていますので、あまり私が言う必要もないかもしれません。
ただし、
- 小乗涅槃経では、釈尊は自らの葬儀方法を事細かに指定している
- 初期仏教以降は、仏教は葬儀・お墓の管理にも伝統的に関わってきた
という論点は別途あるのですが、
1.については、侍者の阿難(あなん)の問いに答えているだけであり、また、実際にそこまで細かく指示していたかどうか?は疑問です。おそらく、後世の付加があるものだと思われます。
2. については、たしかにそういう面もあるのですが、
葬儀ができることと、実際に死者に引導を渡せること、はまったく別問題です。また、葬儀自体が本職のメインであったわけではありませんからね。
釈尊は方言で説法していた!?
まあ方言というとあれですけど、インドは今も昔もとても広いので、都市部であっても、地域によってずいぶん言葉が違っていたのは事実です。今でもインドは公用語がたくさんありますよね。
原始仏教そのものは、ガンジス川流域の(当時の)強国の地域でおもに活動していましたので、仏教というのは実際は、当時の都会型宗教、先進宗教として登場したわけです。
先にでたバラモン教などは、当時の雅語(がご)、雅(みや)びな言葉ですね、サンスクリット語を使っていまして、
釈尊の弟子のなかにも、「こんなに素晴らしい教えなのだから、ぜひサンスクリット語でまとめましょう」という人たちもいたのですが、釈尊はそれについては、叱責レベルで退けています。
「真理はその地域地域の言葉で語られるべきである」という考えです。
要は、「わかりやすく、実践的なものでなければならない」「権威主義に陥ってはならない」ということですよね。
そういう意味では、「大乗仏教はサンスクリット語を言語にしているじゃないか」という反論もあるのですが、まあ、サンスクリット語がわるい、という極論でもないわけで。
紀元前後にはやはり、書写にふさわしい言葉で書いたほうが広がりが出る、という(良い意味での)マーケティング志向があったのです。
まあそれでもやはり、現代日本の読経ですね、これは中国語を呉音(ごおん)で発音しているわけですが、
釈尊は当然に、中国語で説法しているわけはないですし、「現地の言葉で真理は伝えられるべき」という原則でいえば、「なんで、日本語でお経=教えを読み上げないの?」という疑問は当然、出てきます。
そして、その疑問はかなりの部分、正当性があります。
やっぱり、「死」ですね、これはつまり肉体の死ですが、「魂が本体である」という原則からいうと、「死んでも実は死んでいない」わけでして、
いわば、潜水服を脱いで陸地に上がっていったようなものです。
そして、親族は、潜水服を眺めて悲嘆にくれているわけですが、本体のほうはちゃんと生きている、という構造になっています。
なので、原則的には、本体(=魂)は肉体という服を脱いだだけですので、服(=肉体)を着ている時に分からなかったお経が、服を脱いだからと言ってわかるか?というと難しい部分はありますね。
そういう意味では、本当に中国語でお経をあげる必要はまったくなくて、亡くなった方のためにも、参列している方のためにも、きちんとわかりやすい日本語で説法したほうがベターなのは確かです。
まあそうすると、「ありがたみがなくなる」感じがしそうですが、これは要は、お坊さんの説法に内容があるかどうか、感動させる力があるかどうか、ということですよね。
戒名を名乗っている霊はいない
上記のことからもわかるように、生きている時に戒名がピンとこないようなら、やはり、死んでも(くどいようですが、肉体の死、です)やっぱりピンとこないのは当然です。
戒名に「院」がつくと、お布施はプラス50万円、という話を今回聞きましたが、「その「院」がつくと、いったい何が変わるんですか?」といちいち聞いた私はいじわるでしたね…。
まあ、戒名というのは、おそらくは、法名(ほうみょう)から来ているのかな。出家した人、修行が進んだ人が自ら名乗ったり、目上の師匠から与えられたり、いろいろあるかと思いますが、
これは、「死んだら仏さんだから」なんて考えも入っているのかもしれません。
ここのとこは、大乗仏教のシリーズをやるときに徹底的に掘り下げていきたいトピックでして、今、小乗仏教の洗い出しを始めたところですが、
*参考記事:「小乗仏教(テーラワーダ仏教)では悟れない理由」
大乗仏教については、「みんな仏になる」、あるいは、「すでに仏である」ってあたりが、(実践面としては)一番、危うい思想なんですよ。
これね…、
あの世の、いわゆる地獄界で、「いやー、仏になれる、極楽浄土に来れるって聞いたけど……、、ずいぶん、寒くて暗いところなんですね」って、ぼーっとしている魂がけっこういるんですよ。
ぼーっとしているだけならまだ救いようがありますが、「ココが極楽なんじゃ!」と強弁している人を説得するのはかなり難しいですよね。
お墓よりも焼き場のほうが不成仏霊が多い。という話し
これはちょっとびっくりというか、今まで考えたことも意識したこともなかったのですけど。
お墓はまあたしかに、この世とあの世の接点のようなところがありますしね、
また、「死んだらお墓に入るんだろう」と思っている人がまだけっこういますので。
いわゆる、「思い=存在」の図式で言うと、お墓が住処と思っている人はやっぱりお墓に居たりするわけです。
ただ、お墓にいるのは凶悪な悪霊というほどではなく、いわば、ぼんやりと、「ここにいるべきなのかな」とか「子孫がくるかな」という感じで、わりとのんびりした感じではありますね。
一方、火葬場というのは、ほんとに死んでから(肉体の死、です…)まもなくですからね、文字通り生々しいというか、
また、最近は、「通夜も何も省いて焼いちゃえ」という人も多いですので、ほんとに死んで間もなくですか、いわゆる、「直葬」というのが増えてきたようですね。
直葬はですね、以前書いたこともあったかと思いますが、まず、肉体の死後、24時間以内に焼くのは止めたほうがいいです。
肉体の死を迎えても、スムーズに肉体から抜け出していくような魂は、よほど優秀か、よほど一直線に地獄行きか、どちらかですので、
ほとんどのケースでは、もとの肉体に戻ったり、うろうろしている状態です。
また、病気の延長で死を迎えることになるケースが多いと思いますけど、そうした状態から、ささっと、「魂としての自覚」を持てるひとはやはり少ないんですね。
はっきり言うと、「まだ自分は死んでいない」と思っている人がほとんどなんです。
なのに、火葬場に直行されたりすると、怒り狂うわけですよ。あるいは、混乱の極み。それが火葬場の不成仏霊のイチパターンです。
しかしこれはまだ良い方で。
もっとひどいのは、肉体から抜け出しきれないままに焼かれちゃうことですね。
今まで、便宜的に、「魂と肉体」と書いてきたところもあり、それはもちろん事実なのですが、実際は、魂というのも幾重(いくえ)もの霊的な衣をまとっているのが真相で。
肉体の死を迎えた直後では、まだ、人間のかたちをとり、また、肉体の各器官を模した(というより、原型なのですが)部位が霊体にあり、痛みも感じてしまうんです。
なので、「通夜を行う」というのは、やはりそれなりの知恵というか、経験知ですね、「どうも、死後すぐに、というのは良くない」という経験知が働いているんです。
もっとも、直葬と言っても、「火葬場の予約が翌々日以降で…」ということもありますので、とりあえずは24時間はおいて、
その間に、地上からも天界からも助け舟を出して、引き上げていくということですね、そういう時間稼ぎが必要です。
そして、その「地上からの助け舟」が本来はお坊さんの役目なんですけど、実際は、役に立っていないケースが多い、ということになります。
それは、現代のお坊さん御本人の悟りが浅い…というレベルならまだしも、そもそも、あの世も魂も信じていない人がけっこういるから、なのですけどね。
実際は、お経を中国語で読んでも、読む人が内容を理解して、かつしっかり届けようという念を込めれば伝わっていくものなのです。さっきと言っていることが違うようですけどね。
言葉は「念」が現象化したものなので、念のほうがしっかりしていれば、それは(少なくとも霊界においては)ストレートに伝わっていくんです。
これね、むかし悪霊払いになるかな?って、例の般若心経を読み上げたことがあるんですけどね、私が。
そのときは、まったく効きませんでした。あちらさんに笑われるレベルだったかもしれません(エクソシスト系の映画でよくそういう場面ありますよね)。
それは、要は当時の私が、「意味は分からないけど、有名なお経だから」で読んでるので効かないわけでして、
今の私が読むと、これはやっぱり効くんです。
…というか、冒頭の、「観自在菩薩 行深…」あたりでもう効きます。「おいおい、まだ読んでないというか、これからがいいとこなんだけど?」ってあたりで。
これは、やはり念の問題ですね。
結局、葬式・読経・戒名は意味あるのか?
以上、ここまで、「意味がない」というふうに書いてきて、なんですけど…、
実際は、実感としては、「葬式にはやっぱり意味がある」というのが現場の感覚です。
というのも、
「亡くなった方が、意味があると思っているから」です。先に述べた、思い=存在の図式ですね。
なので、逆に言えば、ハッキリと真理を悟っている人にとっては、まあやはりほとんど意味はないですね。
むしろ、そこにいる坊さんに説法したいくらい、こちらがお布施を頂きたいくらいです(まあ冗談ですが)。
やはり、「なんで、告別式をやってくれないのか」とひっかかりを持つ死者もいますので、そうであるならば、世間的に常識的なことはひと通りやることによって気を悪くしないでいただくと。
その上で、「実は本当の仏法はですね…」という流れのほうが話がスムースにいくことになります。
それから、「時間稼ぎ」的な意味もあり、
実際に葬儀が執り行われて、いくたりかの縁のある人が悲しんでいる様子、自分の写真がなぜか黒い枠で飾られている様子、お坊さんが読経をあげている様子…などを見て、「あ、自分は死んだのかな」と悟り始める人も多いわけですね。
「24時間以内の直葬」と「臓器提供」は避けるべし
まあ最後にここですね、この「24時間以内の直葬」と「臓器移植」。このふたつだけは避けましょう。
直葬については上述しましたが、臓器提供についてもほぼ同じ論拠です。
脳死の段階ではまだ死んでいません。痛みを感じています。なので、その段階で臓器を摘出されるというのは、生身にメスを入れられるのとまったく同じことになります。
それを知った上で、なお「提供したい」というのなら、まだ良いですけどね。
以上、お葬式関係のことは今まで書いたことなかったかな?ということで。
また、私の親類がきっかけのことでありますので、その人にとっても記事を書くことによって、功徳を積む機会になるだろうと、書いてみました。
参考になれば幸いです。