「神の名をみだりに唱えてはならない」(十戒)のはなぜか?

十戒

「神の名をみだりに唱えてはならない」は、有名なモーセの十戒のひとつです(第三の戒めです)。

正確には、下記の文言です。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(「出エジプト記」20章7節))

なぜ今回、これを取り上げているのかと申しますと、十戒のなかでもここのところが日本人には一番理解しづらい戒めであると同時に、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教(セム的一神教)を理解するために必須の言葉でもあるから。

またひいては、「本来のスピリチュアルとは何か?」「どういった状態が人間にとっても”本来的な”状態なのか?」という根源的な問いにも関わってくるからです。

ちなみに、十戒の全項目をこの機会にチェックしておきましょう。

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
1.あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
2. あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、
四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
3. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
4. 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
5. あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
6. 殺してはならない。
7. 姦淫してはならない。
8. 盗んではならない。
9. 隣人に関して偽証してはならない。
10. 隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(「出エジプト記」20章1−17節)*十戒に振ってある数字は高田による

目次

みだりでなければ神の名を唱えてもいいのか?

さて、「みだりに」と書かれているので、では、「みだりでなければいいのか?」となりますが…、

答えは、「ハイ、みだりでなければ良いのです」ということになります。

たとえば、キリスト教の「主の祈り」では、二行目に「御名(みな)が崇(あが)められますように」となっていますね。

*ちなみに、ですが、記事内で聖書の引用をする場合は、「新共同訳」を今後は基本に用いることにします。個人的には、文語訳が好きで、まあところにより、他の訳も…ということで、個人的に「言霊が強い」と思われる翻訳を過去の記事では使っていました。が、最近のキリスト教論では、「新共同訳」が使用されることが多いので、それに準じることにいたしました。

新共同訳聖書

人間中心の世界観から神中心の世界観への回帰

真理スピリチュアルと呪術スピリチュアル

なので、やはりここのところですね、「みだりに」というところがポイントになります。

では、「みだりに」というのはどういうことか?と申しますと、これは、一言でいえば、「人間の都合で神を呼んではならない」というのが本質であると思います。

ここのところはですね、ネオ仏法の基本的な立場を確認する上でも大事なところで。以前は、スピリチュアルにも、「王道スピリチュアル」と「覇道スピリチュアル」の違いがあるという言い方をしておりました。

今回の記事の趣旨に沿って、かんたんに分類するとすれば、

  • 王道スピリチュアル:御名を崇めるスピリチュアル
  • 覇道スピリチュアル:みだりに神の名を呼ぶスピリチュアル

ということになります。

「えっ!御名を崇めるの!?」と抵抗を感じた方も多いかと思いますが、それこそがまさに「日本人的宗教メンタリティ」で、

世界三大宗教であるキリスト教・イスラム教では、「御名を崇める」ほうを採用しておりますので、信者数で言えば、40億人くらい(2020年現在)くらいですか。むしろ「御名を崇める」ほうが主流であることが分かります(建前上は、ですけどね)。

話を戻して、「みだりに」とは「人間の都合で神を呼んではならない」ということでしたね。

ここは考えてみれば、やはりスピリチュアルのほとんどは、「人間の都合で神を呼んでいる」ことが分かります。

つらいとき、苦しいときに、あるいは具体的には、恋愛とか婚活とか収入とか出世とか…、

あるいは、ぼんやりと「運勢」とか、そういう「現象としての結果論」を招き寄せるために、「神の名を呼んだり」「拝んだり」しているわけです。

ここのところは、「神の名」でなくても、なにかいかにも神秘的なものですね、「アカシックレコード」であったり、「多次元宇宙」であったり、「星読み」であったり、「ツインレイは…」とか、まあいろいろなパターンがあります。

つまり、自己のこの世の安寧・幸運のために神秘的な力を引っ張ってこようとするスピリチュアル・パターンはすべて、「みだりに神の名を呼んでいる」ということになります。

要するにこれは、

  • 人間中心の世界観か
  • 神中心の世界観か

という違いになるわけです。

結論的には、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とは、「人間の都合で神を左右しようとする態度を戒めている」「人間(自我)中心の世界観を戒めている」ということになりますけどね。

自我中心の世界観への戒めとして、十戒の第3番目の「偶像崇拝の禁止」も同じ文脈と考えて良いでしょう。

*参考記事:偶像崇拝はなぜダメなのか? – イスラム教を手がかりに考える

世界三大宗教はすべて「神中心の世界観」

さきに、「キリスト教、イスラム教(そして母体になっているところのユダヤ教)は王道スピリチュアル」と言いましたが、
 *厳密に言えば、ユダヤ教は違うものが混じっていると考えていますが、この点は徐々に明らかにしていきます。

仏教も、一般の宗教学的には「神中心」とは言えませんが、しかし、やはり人間中心というわけでもなく、まず、「法(=ダルマ)が先立つ」という考え方ですね。

まあ、「法前仏後(ほうぜんぶつご)」と言ったりしますが、仏陀よりもさらに法が先立つ、ということで、順序としては、

法>仏>人(=衆生)

という順番ですね。

もっとも、仏典には、「法をみるものは仏陀をみる」という言葉もありますので、法=仏陀、という等式も成り立ちます。

そうすると、式としては、

法=仏陀>人(=衆生)

となり、やはり「神中心の世界観」の立場に本質的にはたっていると言えるでしょう。

とくに、法華経的な”久遠実成の仏陀(くおんじつじょうのぶっだ)”は、セム的一神教の”唯一神”に相当すると理解してもよろしいかと思います。

久遠実成の仏陀

ということは、仏教、キリスト教、イスラム教の世界三大宗教は「神中心の世界観」を採用していることになります。

なので、覇道スピリチュアルに限って、「ブッダはね」とか「イエス様は」と軽く引用してくるのですが、(まあ記事としては当サイトも「仏陀は」「イエスは」と書いてはいますし、これからも書き続けていますが)、

真理を探求する者にとって、精神的な態度としては、「神」「仏陀」「イエス」のみ前において、五体投地しても足らない、というくらいの謙虚さが必要です。

また、実際に、それほどの認識力と立場の違いがあります。

じつは、「王道スピリチュアル」「覇道スピリチュアル」という呼称を今後使わないで、あらたに、「真理スピリチュアル」「呪術スピリチュアル」という呼称を使用していくつもりです。

*参考記事:真理スピリチュアルと呪術スピリチュアルの違い

というのも、「覇道とは失礼な!」といったご意見を「呪術スピリチュアリスト」の方からコメント頂いたことがありまして、たしかに、差別知が強すぎる用語かもな、と考え直した次第です。

まあ、「真理」と「呪術」という分け方も充分、失礼なのかもしれませんが、他では使っていない当サイト(ネオ仏法)の造語ですのでお許し頂きたいと思います。

まとめますと、

  • 真理スピリチュアル:神中心の世界観
  • 呪術スピリチュアル:人間(自我)中心の世界観

ということになります。

創世記の楽園追放が暗示する「人間中心の世界観」への堕落

じつは、「アダムとエヴァの楽園追放物語」もこの、神中心の世界観から人間中心の世界観への堕落というふうに読むべきだと思っています。

蛇の誘惑で、知恵の木の実を食べ「神のごとくに」なることを選んでしまった。人間が神のごとくに、というのは、すなわち、人間中心の世界観を選んでしまった、ということでもあるでしょう。

*参考記事:善悪の知識の実はリンゴではなかった!? – 禁断の果実を食べてはいけない理由

楽園追放

そしてこれは決して、創世記という”昔物語”ではなくて、私たち一人ひとりが、日々刻々と選択を迫られているところの、きわめて実存的な問題でもあります。

人間は肉体を持っていると、どうしても自我意識に引っ張られて、自分中心(=人間中心)の価値観に傾いてしまいます。

そのような、”非本来的な在り方”がまさしく”罪”なのです。罪の語源は「的外れ」という意味ですからね。

しがって、罪(非本来性)から脱却し、都度、祈りや悔い改めによる罪の許し、つまり、神中心の世界観(本来性)への回帰が必要になってくるわけです。

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