「般若心経」の悟りを超えて –㉓心無罣礙

前回の続きで、今回はシリーズ23回目です。
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心無罣礙

読み:しんむけいげ

現代語訳:心にひっかかりはない

罣礙(けいげ)は、

  • 罣=障(さわ)り
  • 礙=妨げ

の語句の組み合わせです。

”無罣礙”と否定形ですので、「障りや妨げが無く」ということですね。

現代語訳ではかんたんに、「(心に)ひっかかりがなく」と訳してみました。「(心に)とらわれがなく」でも良いでしょう。

「心にひっかりがない、とらわれがない」という状態はそれ自体が悟りの境地でもあります。

仏教用語では、この境地を”涅槃(ねはん)”と表現しています。

なぜなら、四諦のところで勉強したように、「苦しみの原因は執着にある」「執着、とらわれから離れれば”苦”を滅することができる」と喝破したのが釈尊の悟りであるからです。

そのために、”道(どう)”、すなわち八正道という修行方法が提示されていたのですね。

したがって、一切の執着・執われから解放されることはまさに「目的を達した」ということになります。

その結果、「心にとらわれがない、ひっかりがない涅槃の境地」を得ることができる、という構造になっています。

ただし、般若心経では、「四諦八正道ですら、空の悟りから観れば現象に過ぎず、無いと言える」と別の方面から突き詰めていきます。

つまり、この地上に生を受けて修行していくこと、魂の向上に努めることそのものが”神仕組み(仏仕組み)”であって、方便に過ぎないのだ、と言っているわけです。

そして、その悟りからストレートに「苦からの脱却」が図れる、と主張しています。

「心の執われ」を別の言葉で言うと、「自分自身や、いろいろな存在に対する執着」ということになるわけですけどね。

これを仏教用語で、

  • 我執(がしゅう)…自己が有るという執われ
  • 法執(ほうしゅう)…存在が有るという執われ

と表現することもあります

釈尊はこれに対するアンチテーゼとして、”無我”を説いたわけです。

そうすると結局、「四諦八正道とは無我修行である」とも言えるわけですね。

 無我=四諦八正道

です。

ところで、”空(くう)”は大乗仏教でよく使われる用語ですが、釈尊の時代も、使用頻度は少ないですが、”無我”と同じような意味で使われておりました。

 空=無我

の図式です。

…ということは総合すると、

 空=無我=四諦八正道

という図式が成り立つことになりますね。

そうすると、「あら不思議」という感じで、「無い!」と一刀両断していた四諦八正道が「有る!」に戻ってくることになります。

経文にはもちろんそんなことは書いておりませんが、仏教哲学的に突き詰めていくとそういう結論になります。

ここでも、”無い – 有る”の”有無の中道”が成立しています。

要は、真理をどういったパースペクティブ(角度)から眺めるか?の違いであって、まとめますと

  • 実在側(空の悟り)から観れば、四諦八正道すら現象に過ぎず、”無い!”と言える
  • 現象側(地上世界の修行)から観れば、四諦八正道は実在へ近づくために必要な修行、すなわち、”有る!”と言える

ということになります。

このように、一切を中道(弁証法)で観ていくのが仏教的観察でありまして、そう考えていくと、

『般若心経』という経典はあえて、「実在から観れば、〇〇は無い!△△も無い!」というふうに、実在から現象を眺めた視点を提示している教えなのだ、とも言えますね。

なので、実践面で留意すべきは、実在側からの視点である「無い!」のぶった切りをしつつ、現象側からの視点、「有る!」すなわち、四諦八正道の無我修業をするのも大事、という方向も大切にしていくことです。

ただし、人間は地上にいる限り、つまり、”現象側”におりますので、どうしても”実在側”からの視点を忘れがちになります。

そういう意味で、『般若心経』読誦で、”実在側”の視点を思い起こすことが大事になってくるわけです。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて –㉔無罣礙故 無有恐怖