「般若心経」の悟りを超えて –㉔無罣礙故 無有恐怖

前回の続きで、今回はシリーズ24回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

無罣礙故 無有恐怖

読み:むけいげこ むうくふ

現代語訳:心にひっかかりがないゆえに、恐れもないのだ

前回、前々回、前々々回の「菩薩は(般若の智慧に依るがゆえに)心にひっかかりがない」を受けています。

”無有恐怖”は直訳すれば、「恐れが有ることがない」となりますが、これは訳としてはこなれないですよね。

”無恐怖”で良いのではないか?と思ってしまいますが…、まあ意味的にはその通りなのですが、あえて漢字4文字に整えることで、リズムを整えているわけです。

ここらへん、玄奘の翻訳センスを感じるところです。

「恐れ」というのはみなさんも体感的にお分かりかと思いますが、マイナスの感情のなかでももっともやっかいで、かつ、根っこにある感情であるように思われます。

恐れによって、その防衛本能によって、自我意識が強化され、さらにさまざまな悪感情が生まれる契機になってしまうのですね。

「臭いものは元から断つべし」という観点から言えば、結局、もろもろの悪感情を断つためには恐れを断つに敷くはない、ということになります。

菩薩はなにゆえに恐れがないかと言うと、般若心経では、

 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

と書かれておりますので、結局、「般若の智慧に依っているから〜〜恐れがないのだ」という流れになっています。

少し話が変わるようですが、聖書では「恐れるな」という言葉が合計365回も出てくるそうです。

ユダヤ教・キリスト教というセム系一神教の伝統でも、「恐れが悪感情のなかでも一番やっかいなもの」という見方をしている証左でもあるでしょう。

そして、聖書において、”恐れ”を克服するにはどうすればよいか?という手がかりですね、これを探してみるといくつか出てくるのですが、ひとつ挙げてみましょう。

たとえば、旧約の詩篇には、

神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。
(詩篇56:11-12)

とあります。

般若心経の論理と比較してみますと、

  • 般若の智慧に依れば……恐れはない
  • 神に依れば……恐れはない

と、このようになりますね。

そうすると、ネオ仏法あるいは”宗教多元主義”の観点からは、

 般若の智慧=神(唯一神)

という等式が成立することになります。

”宗教多元主義”というワードを出したので、提唱者のジョン・ヒックの言葉を引用しておきます。

宗教多元主義とは、<自我中心から実在中心への人間存在の変革>がすべての偉大な宗教的伝統のコンテクスト内において、さまざまに異なるしかたで生じつつあるものと認める見解のことなのである。(『宗教多元主義』(ジョン・ヒック著)第三章「宗教多元主義の哲学」より)

若干、学者的な言い回しで難解ですが、当サイトの記事を読み慣れている人が読めば、「ネオ仏法と路線が似ているな」と思われることでしょう。

実際、その通りです。

ジョン・ヒックの宗教多元主義については、いずれ集中的に取り上げる機会を設けたいと思います。

話しを戻しまして、

 般若の智慧=神(唯一神)

の図式ですね。

結局これは、<究極の実在>を非人格的なものと観るか、あるいは、人格的なものと観るか、その見方の違いに過ぎない、と言えるでしょう。

<究極の実在>そのものは人間の理性、認識能力では捉えきることはできません。ただ、「在る」ということが想定されるだけです。

ただ、<実在>の側から、人間に対してどのように関わりを持ってくるか?あるいは、逆に、人間(<現象>)の側から、<実在>をどのように把握するか?

これによって、非人格的な存在(今回のトピックに沿えば、”般若の智慧”)として受け止めたり、逆に、キリスト教的に人格的な存在と受け止めたりする。

こういう違いが出ているのですね。

ただし、実際はキリスト教神学においては、<究極の実在>である唯一神は、”父と子と聖霊”という三位一体という顕現の仕方をする、と説明されています。

私たちがキリスト教的な神を人格神として捉える場合、この三位一体の”三位”として現れるところの”父なる神”あるいは”子なるキリスト”のことを言っているわけです。

わざわざこのことを解説しているのには理由がありまして。

真理スピリチュアリズムの中には、

「キリスト教あるいはイスラム教的な”人格神”という神の把握の仕方はまだまだ未熟な段階であり、仏教や道教における”非人格的な法則”として把握する仕方のほうがレベルが高い」

と主張する方々がいらっしゃるからです。

これは、キリスト教あるいはキリスト教神学への理解の不十分さから生じている見解でありまして、そうではなく、”三位”として現れる前段階の”一者”は、ただ<究極の神的実在>として把握されております。

キリスト教神学はもともとはギリシャ哲学に通暁(つうぎょう)している教父たちが作り上げたものですので、けっこう手強いのです。

少なくとも、東洋哲学の側から一蹴できるようなレベルではない、ということは知っておいてほうが良いでしょう。

さて、”恐れの克服”について、ですが、

なぜ、般若の智慧に依れば恐れを克服できるか?と言いますと、般若の智慧はこれまで述べてきたように、一言で言えば、「一切を空(くう)と観る」「一切を現象に過ぎないと観る」ということであります。

これは、般若心経の文脈では、「無い!」のぶった切りで表現されていますね。

人は、「有る」と思うからこそ、さまざまな物事に恐れが生じるているわけで、「無い」ということが分かれば、「無いものを恐れようがない」というふうに切り替えができますよね。

こういう構造になっております。

ただし、いったん「無い!」とぶった切って恐れを克服した後は、「現象は現象としては有る」という見方にもう一度切り替えて、「それでは、現象が有るのにはどうした意味があるのか?」

「現象としてではあっても、自我ではなく自己を伸ばす過程にこそ、究極の神的実在が宇宙を創造した意図があるのではないか?」と見抜いていくことですね。

ここまで見抜いていければ、それこそこのシリーズ名であるところの、「般若心経の悟りを超えて」いるレベルに至っている、と言ってもよろしいかと思います。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて –㉕遠離一切顛倒夢想