八正道における正しいとは何か?- 倫理の基礎づけとしての仏法

"Right" mean in the Eightfold Path

八正道は四諦(四聖諦)である苦集滅道の4番目、”道”に相応しますので、「苦を滅するための真理」「解脱に至るための真理」でありますね。

八正道は文字通りには、「八つの正しい道」と書きます。

…ということは、”正しさ”が苦を滅するための道であるということになります。

しかし、”正しさ”あるいは”正しい”とは、そもそも何なのでしょうか?また、なぜ”正しい”ことが苦を滅し、解脱に資するのでしょうか?

いろいろ調べてみると、たとえば下記のように説明されています。

八正道の”正しい”とは、

  • 真理に沿っている
  • 調和がとれている(偏っていない)
  • 自分本位でない
  • 釈尊の教えに適っている

…などなどです。

もちろん、この説明で(後述するように)正解であると私も思いますが、どこかモヤモヤが残りませんか?

今回は、「八正道の正しさとは何であるか」について考えてみたいと思います。

目次

八正道の「正しい」を「真理」と説明されたときの違和感

先に述べたように、八正道はそもそも四聖諦の”道”に相当するわけですよね。そして、四聖諦の”諦”とは「真理」を意味しています。

四聖諦を振り返ってみましょう。

  • 苦諦:人生は苦であるという真理
  • 集諦:苦しみの原因は執着にあるという真理
  • 滅諦:苦の滅尽の真理
  • 道諦:八正道(苦の滅尽の方法)

と、ざっとこんな感じです。

つまり、四諦というのは、「4つの真理があります」という語りであり、そのなかの一つに道諦、「八正道という真理があります」という語りが位置づけられるわけですね。

で、それでは八正道という真理とは?正しさとは?…と内容を見ていくと、「正しさとは真理に適っていることです」というふうに説明されてしまう。

そうすると、なんだかマトリョーシカを剥いていくような感覚に因われてしまいませんか?

「正しさ」が入れ子状になっている

つまり、「これが真理です」と言われたので、「で、真理とは?」と内容を見てみると、「真理に適っていることです」と言われて、「あれっ?」となるような。どこまでも入れ子になってしまうのですね。

ここのところが、教科書的な答えを聞いても、どこかモヤモヤが残るところなんだと思います。

以下、八正道の「正しい」とは何であるか?について、ひとつは仏教学に沿った方向で、さらに従来の仏教学を超えた視点で考えてみます。

八正道の「正しい」を仏教学からチェックしてみる

八正道の内容をまず再チェックしてみる

八正道の「正しい」を理解するために、まずは八正道そのものの内容を観ていきましょう。

ここのところ、「もうそんなこと知ってるよ」という方は読み飛ばして頂いて結構です。

あるいは、下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。

*参考記事:八正道の意味と覚え方のコツ – 一発で覚えられる語呂合わせ

正見(しょうけん)

正しい見解。縁起の理(原因・結果の法則)、四諦でもって物事を観察すること。ありのままに物事を観る(如実知見/にょじつちけん)こと。

正思(しょうし)・正思惟(しょうしゆい)

正しい思い、思惟・思考。

貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の心の三毒および六大煩悩から離れること。

  • 貪:むさぼりの心
  • 瞋:怒りの心
  • 痴:愚かな心

上記に下記の3つを加えたのが「六大煩悩」と呼ばれます。

  • 慢(まん):慢心すること
  • 疑(ぎ):仏法を疑うこと
  • 悪見(あっけん):間違ったモノの見方

正語(しょうご)

正しい言葉。真実語。

不妄語(ふもうご)・不悪口(ふあっく)・不両舌(ふりょうぜつ)・不綺語(ふきご)を守ること。

  • 不妄語:嘘をつかないこと
    *悟りを偽ることを大妄語(だいもうご)という
  • 不悪口:悪口を言わないこと
  • 不両舌:二枚舌を使わないこと
  • 不綺語:無駄話をしないこと

正業(しょうごう)

正しい行為。

五戒のうち、不殺生・不偸盗・不邪淫に相当する

  • 不殺生:無益な殺生をしないこと
  • 不偸盗:盗みをしないこと
  • 不邪淫:社会的に不適当な性的関係を持たないこと

正命(しょうみょう)

正しい生活、正しい仕事。

身・口・意(しん・く・い)の調和のとれた生活。
*身業・口業・意業はそれぞれ、正業・正語・正思に対応する

正精進(しょうしょうじん)

正しい努力(仏道への精進)。

正念(しょうねん)

正しく念じる。

ブッダの教えをキチンと記憶する、仏陀を念じる。

正定(しょうじょう)

正しい集中、精神統一。

以上の、8項目が八正道です。

「正見」の真逆である「邪見」「悪見」を手がかりに考えてみる

八正道の重点は実は「正見」にあります。他の7項目はいわば、正見の具体的展開であると言えるのです。

そうであれば、「正見」の”正”を深く読み込んでいけば「正しいとは何か?」を考える手がかりになりそうです。

正見の反対は、仏教学的には、「邪見(じゃけん)」もしくは「悪見(あっけん)」と呼ばれています。

その内容をチェックしてみましょう

邪見・悪見とは?

  • 邪見(じゃけん/狭義):縁起の理に沿っていない見解
  • 辺見(へんけん):極端な見解
  • 身見(しんけん):自我があるという見解
  • 見取見(けんじゅけん):間違った価値観を正しいとする見解
  • 戒禁取見(かいごんじゅけん):間違った修行方法を正しいする見解

と、この5項目が挙げられます。

正見に反転させて「正しい」を確認してみる

これらが文字通り、悪見=悪いモノの見方であるのであれば、正見はこれらの逆であることになります。

ゆえに、正見=正しく見る、とは、

  • 縁起の理に沿って物事を観察する
  • 極端な見解を離れ、中道をとる
  • 自我は本来、”無い”ものと知る
  • 仏教の価値観を採る
  • 仏教の修行方法を採用する

と、このようになります。

そうすると、冒頭に述べた、

八正道の”正しい”とは、

  • 真理に沿っている
  • 調和がとれている(偏っていない)
  • 自分本位でない
  • 釈尊の教えに適っている

という定義と意味的にはイコールになりますよね。

「仏教学的には正解」と述べたのはこのような訳なのです。

八正道の「正しい」には、相対善と絶対善がある

「仏教学的に分かればもういい」という方はここまでの解説で十分だと思いますが、まだモヤモヤしている方はもう少しお付き合いください。

八正道において「正しい」とはそもそも何であるか?

八正道の各項目を再チェックしてみると、どれも、まず第一段階では、自己と他者との関係性において「正しさ」が求められていることが分かります。

正語・正業など、戒律(五戒)に関係する項目は分かりやすいですよね。

たとえば、「殺生をしない」というのは、他者を必ず想定しているわけです。

自己 − 他者

という図式になっています。

一方、残りの6項目については、一見、他者を対象にしていないものもあるように思われます。

しかし、確かに社会的には他者を対象にはしていませんが、「自己を対象化している」と言うことができるのではないでしょうか。

私たちが自分の内面を振り返るとき、

振り返る主体である自己  ー 振り返る対象である自己

というふうに、「主体と対象」の二分化が起きています。

そういう意味で、「振り返る対象である自己」というものも、広い意味で「他者」と考えることもできるでしょう。

対象化

あるいは、

自己  ー 他者

の図式ではなく、

主体 ー 客体

の図式にすれば、八正道全般に当てはめやすくなりますね。

一言でまとめれば、主体と客体との関係性において「正しさ」を求められている、ということです。

主体と客体との関係性における「正しさ」とは、一般的には「倫理」の分野に相当するでしょう。

「殺生をしない」「ウソをつかない」など、八正道を待たずとも、ふつうに社会的に要請されているものでもあります。場合によっては刑法に抵触することになるでしょう。

それでは、八正道ひいては仏教は「倫理」と同じものであるのか?という疑問が出てきますよね。

倫理

そもそも、八正道の目的は何であったか?

それは、八正道を含むところの四聖諦に関わってきますので、一言でいえば「苦の滅尽」であったはずです。

それでは、苦の滅尽の結果どうなるのか?最終的には何を目指しているのか?というと、それは「解脱」であり、解脱した結果「涅槃」の境地を得て、「自らも仏陀へとなっていくこと」ということです。

つまり、八正道といい四聖諦といい、仏教そのものが目指しているものは一言でいえば、「仏陀になること」が目的なのです。これが仏教における絶対善です。

さきに、「主体と客体との関係性において正しさが現れてくる(=倫理)」というのは、いわば、相対善です。悪ではなく善を選ぶという「倫理的な」相対善ですね。

「正しさ」は仏陀=<智慧と慈悲>に集約される

ところが、相対的に悪を遠ざけ、善を選ぶことが「仏陀になる」という絶対善に繋がっている、ここに「仏陀という存在は何であるのか?」という大きなヒントが隠されているように感じます。

相対善が絶対善に接続しているということは、「仏陀の内実」が(絶対的な)善であるということになります。

たとえば、正語の「ウソをつかない」。

ウソをつくと何がいけないかというと、大きな時間的な流れの中ではバレていきますので、これは「調和を乱す」という事態になります。

…ということは、逆に考えれば、大きな時間の流れの中では、「真実語をなすこと」が調和に資するということになります。

そして、「調和に資する」という相対善が絶対善に接続しているということ、これは「絶対善=仏陀に近づいていく」ということになりますよね。これすなわち「仏陀の内実が調和である」ということになるわけです。

”調和”は仏教的な用語に戻すと、「慈悲が発揮されている」状態と言えるでしょう。

また別の例を挙げます。たとえば、正見:縁起の理に従って物事を観察すること。

ここでも、相対善が絶対善に接続しているということは、「仏陀の内実が、原因と結果の連鎖(縁起の理)を見抜くこと」そのものである、ということを意味するでしょう。

”見抜くこと”は仏教的な用語に変換すると、「智慧が獲得されている」状態と言えるでしょう。

このように八正道の各項目を順にチェックしていくと、

  • <自己−他者>の関係性においては、慈悲の発揮
  • <(主体としての)自己−(対象化された)自己>の関係性においては、智慧の獲得

に繋がっている。

この論理を簡潔にまとめますと、

 「智慧と慈悲」が相対善(=社会的・倫理的善)であり、かつ絶対善(=仏陀の内実)

ということになります。

つまり、

八正道における(あるいは仏教における)「正しさ」とは、仏陀という<智慧と慈悲の絶対善>に基礎づけられるところの、(私たち一人ひとりの)社会的・倫理的な<智慧と慈悲の相対善>の実践にある

ということです。

智慧と慈悲

ここにおいて、倫理(相対善)は仏法(絶対善)に基礎づけられることになります。

たまに、「宗教と倫理は違う」といろいろな書物に書かれていますが、そうではなく、「倫理は宗教に基礎づけられる」が正解だと思います。

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