六波羅蜜と八正道の違いと共通点 – 一仏乗として同体に把握すれば良い

Six Perfections (Pāramitā) and Noble Eightfold Path

今回はタイトル通り、「六波羅蜜と八正道」の関係性について考察していきたいと思います。

仏教書を読むと、色々な解説がありますが、要は、

  • 八正道:小乗(上座部)/内省的
  • 六波羅蜜:大乗/実践的

というふうに、八正道と六波羅蜜を、小乗・大乗の対立軸に即して理解することが通例のように思われます。

ネオ仏法は、狭義の「仏教」を超えた真理そのものを射程に収めていますが、それでも実践の原理として仏教的なるものを主軸に置いている方にとって、「八正道を中心にすべきか」「六波羅蜜だけでいいのか」悩むところがあるかもしれません。

ゆえに、まずは思想ベースで八正道と六波羅蜜の関係を解き明かし、次に実践ベースで両者をどのように区別して使っていくべきなのか、そうしたことについて今回は考えてみたいと思います。

目次

八正道を概観してみる

まずは、八正道と六波羅蜜はそれぞれどのような内容を持っているのか、チェックしてみます。

ここのところ、「もう知っているよ」という方もいらっしゃるかもしれませんが、従来の八正道・六波羅蜜解釈とは違った視点も提示してまいりますので、お付き合い頂ければと思います。

八正道についてはいくつかの記事でかなり詳しく書きましたので、参考にして頂ければと思いますが、こちらでもかんたんに振り返ってみます。

*参考記事①:八正道の意味と覚え方のコツ – 中道の実践とはなにか?
*参考記事②:八正道の”正しい”とはそもそも何であるか?- 倫理の基礎づけとしての仏法

四諦(四聖諦)は縁起で構成されている

八正道は、四諦八正道(したいはっしょうどう)というふうに、”四諦(=4つの真理)”のなかに位置づけられています。

四諦(正確には”四聖諦”)は、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つで構成されています。このラストの道諦のところが八正道に当たるのですね。

宗教というものは俗っぽく言えば、「この世の苦しみを脱して、いかに安楽な境地へ至ることができるか」を要請されているものです。そして、四諦八正道はまさにこの要請に答えた内容になっています。

  1. 苦諦:この世の苦しみを説く(果)
  2. 集諦:この世の苦しみの原因を説く(因)
  3. 滅諦:安楽な世界を説く(果)
  4. 道諦:安楽な世界への道を説く(因)

このように、苦諦と集諦でこの世の苦しみの結果と原因を説き、滅諦と道諦で安楽な世界(解脱して涅槃の境地を得る)の結果と原因を説いているのです。

四諦は、ばらばらに4つならべてあるのではなく、結果→原因、結果→原因、というふうに縁起の流れになっていることに注目してみましょう。

仏教の教学というものはこのように、とても論理的に組み立てられているのです。

*参考書籍:『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著)

仏教要語の基礎知識

上記の苦集滅道をさらに正確に解けば、下記の通りとなります。

  1. 苦諦:この世は苦しみなのです(果):四苦八苦があります。四苦八苦からは逃れられないでしょう。
  2. 集諦:この世の苦しみには原因があります(因):苦しみの原因は執着にあります。
  3. 滅諦:安楽な境地がありえます(果):執着を離れることができれば解脱して涅槃の境地を得ることができます。
  4. 道諦:安楽な境地へ至るには方法があります(因):その方法こそ、八正道なのです。

八正道も縁起で構成されている

さらに道諦に相当する八正道も実は縁起で構築されています。ここのところを指摘している仏教書はあまりないと思いますが、実際にチェックしてみましょう。

まずは、八正道のそれぞれを簡潔に振り返ってみます。詳しくは上記の参考記事をご参照ください。

  1. 正見:正しい見解。縁起で物事を見る。仏法への信心(正信)が前提になっている
  2. 正思(正思惟):正しく思う。貪瞋痴の三毒から離れる
  3. 正語:正しく語る。具体的には、不妄語・不悪口・不両舌・不綺語から離れる
  4. 正業:正しく行為する:五戒で言えば、不殺生、不偸盗、不邪淫に相当する
  5. 正命:正しく生活をする:五戒で言えば、不飲酒に相当する
  6. 正精進:正しく仏道を修める
  7. 正念:正しく念じる:仏陀の教えを記憶することも含まれる
  8. 正定:正しく禅定する

これら8項目もばらばらに8つ並べられているわけではありません。

正しい見解を持つことができるから(正見)→正しく思うことができる(正思)→ゆえに正しく語ることができ(正語)→かつ、正しく行為することができる(正業)…

というふうに、大まかには縁起(因果の理法)に従った順序になっています。

ゆえに、内省するときは、たとえば、

なぜあのようなことを言ってしまったのか(正語)→それは怒りの心があったからだ(正思)→怒りが出たのはこれこれの仏法がまだ腑に落ちていないからだ(正見)

というふうに、現象(出来事)からだんだん遡って、最終的には、正見のチェックに至ることになります。すべては、価値観が根本になっているのです。

これは別の角度から言えば、「正見の具体的展開が残りの7つである」あるいは「残りの7つは正見の内容である」と言うこともできるでしょう。

もっとも、最後の正定は、「正見の深まりをチェックする」というふうに解釈することもできます。

そうすると、

正見→残りの6つ→正定

の順序で、正見からグルっと回ってまた(深まった)正見すなわち正定に還ってくる、という円環構造になっているとも把握できそうです。いわば円環的八正道です。

円環的八正道と言っても、ただグルグル回るだけではなく、スパイラル状に正見が深まっていく、悟りが深まっていくというふうに、悟りをダイナミクス(動き)のうちに捉えるのがネオ仏法の特徴です。

悟った – 悟っていない

というふうに、ゼロかイチかみたいなデジタルなものではなく、悟り(正見)というものはアナログ的にだんだんと深まっていくもの、というふうにダイナミック(動的)に把握していきます。

この四諦八正道こそが釈尊の仏教(初期仏教)の修行の内容の主軸であったと言っても過言ではありません。

ただし、八正道は内省的な内容ではありますが、仏陀・釈尊が慈悲に生きたように、八正道で得られた(深められた)智慧をもって慈悲業に励む、といった具合に、決して独善的なものではありません。

釈迦没後の部派仏教が独善的な流れに行ったので、大乗の側から「彼らの悟りは自利、”声聞(しょうもん)”に留まっている。それに対して我らは利他(菩薩行)に生きるのだ」というふうに打ち返していったのです。

そういう意味では、大乗仏教というのは、「本来の釈尊の真意へ帰ろう」という原点回帰運動の側面があったと見ていいでしょう。

六波羅蜜を概観してみる

小乗仏教(上座仏教)へのアンチテーゼとしての大乗仏教

八正道は基本的には自らの「振り返り」が主軸になっています。いわば、自分づくりです。

もちろん、思いや行為には対人関係が基本になっている。つまり社会性があるわけですが、それにしても最終的には「自らがどうであったか」という個人の内面にウエイトが置かれていますよね。

自利利他で言えば、自利に重点が置かれていることは間違いがないでしょう。

大乗仏教は、小乗仏教(上座部仏教)へのアンチテーゼとして出現してきた経緯があります。

上座仏教では、阿羅漢になることが目標になっていたのですが、そうした「自らの解脱、涅槃のみ考えている修行態度には慈悲が欠けているのではないか?それが釈尊の本意であったはずがない」ということで、利他の要素を強く打ち出した大乗仏教が誕生してくるのです。

大乗仏教の誕生の経緯については、他にも様々な要因がありますが、今回は触れないでおきます。興味のある方は下記の参考記事をご参照ください。

*参考記事:上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違い – いかに対立は解消されるか?

さて、そういうわけで、大乗仏教では、利他と実践に重点を置いた六波羅蜜(六波羅蜜多とも言う)がメインの修行方法として据えられることになったのです。

六波羅蜜の内容

六波羅蜜は簡潔に定義すれば下記のようになります。

  1. 布施波羅蜜:施しの完成
  2. 持戒波羅蜜:戒めの完成
  3. 忍辱波羅蜜:耐え忍びの完成
  4. 精進波羅蜜:努力の完成
  5. 禅定波羅蜜:禅定の完成
  6. 般若波羅蜜:智慧の完成

波羅蜜多、サンスクリット語で言えば、パーラミターというのは、「到彼岸」と訳されることがあります。中国やチベットではそのように理解されているようですし、日本の仏教書でもそのように解説しているものもあります。

実際のところは、「最高であること」「完全であること」という翻訳のほうが原義に忠実とのことですので、上記のように「〇〇の完成」と理解すれば良いと思います。

六波羅蜜の内容は八正道とも重なっているものもあります(具体的な対応は後ほどチェックしてみます)が、上記の下線を引いた項目、すなわち、布施波羅蜜と忍辱波羅蜜は八正道には見当たらないものです。

布施と忍辱という対人的要素、つまりは、利他行を強く打ち出したのが六波羅蜜の特徴であり、それは同時に大乗仏教の特質でもあるわけですね。

”布施”は現代的に言えば、「愛を与えること」という理解で良いと思いますが、こうした隣人愛の実践から六波羅蜜は始まっているのです。

布施の中でも最大のものは法施(ほうせ)、すなわち、仏法を伝えていく行為です。

*伝統教学では無畏施(むいせ/他者のおそれを取り除くこと)が最大の布施とされることがありますが、仏法を伝え、理解して頂ければ主体的におそれを打ち破っていくことができますので、ネオ仏法では法施を最上位におきます。

仏法を伝えていると、無理解や場合によっては誹謗中傷を受けたりすることもあります。そこで”忍辱(耐え忍びの完成)”が要請されてくることになります。

忍辱というのは単に「我慢をする」というものではありません。忍辱は、いわば、「他者に時間を与える」ことであるのです。

仏法を伝えても、なかなか伝わらないもどかしさがありますが、撒いた種は決して無駄にならない。

輪廻転生のいずれかの地点で花を咲かせることがある。そのための種まき作業が布施であり、「いつかは花が咲く」ということを確信し、自他に時間を与えるのが忍辱であると理解できます。これは実践していないとなかなか理解できないことでもあります。

さて、六波羅蜜の内容については、

  1. 般若波羅蜜(智慧波羅蜜)に重点をおき、最終的には般若の智慧を得ることが目的
  2. 般若波羅蜜が残りの5つのベースになっている

という二通りの理解があります。

しかし、ネオ仏法ではこの2説とはまた別な方向を採ります。

どういう方向かと言いますと、

布施→残り5つ→般若→布施→残り5つ→般若……

というふうに、六波羅蜜は布施と般若(言い換えれば、慈悲と智慧)を主軸にして円環的(スパイラル状)に自利利他円満が上昇していくもの、というふうにダイナミクスにおいて把握していきす

完成(パーラミター)とは、静止した状態ではなく、ダイナミクスのうちに在るものなのです。

ちなみに、大乗仏教とりわけ般若経典類では、般若波羅蜜が最高であり、他の五波羅蜜は般若波羅蜜に含まれると説かれています。

般若波羅蜜は五波羅蜜に先立つものであり、案内者であり、指導者である。そのような仕方で、五波羅蜜は般若波羅蜜に含まれる。アーナンダよ、般若波羅蜜は六波羅蜜の完全性に対する異名である(『八千頌般若経』)

*参考書籍:『菩薩とはなにか』平岡聡著

菩薩とはなにか

大乗仏教においては、修行の最終目的は仏陀になることであり、また、信仰の対象である様々な仏陀の究極に法身仏を想定しています。

法身は「法の身」と書かれているように「教えそのもの」が仏陀の本質である、という理解なのですね。そして、教えとは智慧であり、般若であると。ゆえに、八千頌般若経では、上記のように説いているのでしょう。

ただ、私としては仏陀の本質を智慧のみに限定するのは片手落ちの気がします。仏陀の脇士に智慧の菩薩と慈悲の菩薩が控えているように、仏陀の本質は「智慧と慈悲が一体になったもの」と理解をしたいです。

もっと言えば、智慧と慈悲は別物ではなく、次項でご説明しますが「仏陀をどの角度から観るか」の違いに過ぎない、本来、同体であると理解できると思っております。

仏法は、有機的につながる壮大な建築物

般若と布施と仏国土、言い換えれば、「智慧と慈悲と幸福論」ですね。これは個人の修行徳目であると同時に、宇宙を構成している原理でもあるのです。

仏教の旗印と言われる三法印も同様に把握することができます。

  1. 諸行無常:智慧
  2. 諸法無我:慈悲
  3. 涅槃寂静:幸福論

といった具合です。ここの論理構成については、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:縁起の法とはなにか

このように仏法というのは、いわば壮大な建築物のようなもので、体系的に有機的に構築されているものなのです。

初学の段階では、「四諦八正道あり」「三法印あり」…といったふうに、べつべつの法(教え)のように説かれている感覚があるでしょうが、これは方便であって、実際はどの法(教え)も有機的に結びつき、仏法という壮大な建築物を構成しているのです。

智慧と慈悲と幸福論のいわば「三角形」で宇宙は構成されていると言っても過言ではありません。そして、現象宇宙も実在宇宙もつねにスパイラル状に拡大を続けているのです。これは法身仏の自己実現です。

*参考記事:ワンネス、仏教、宇宙。そしてネオ仏法の悟りへ

その生成発展の法則が実は”中道”、言葉を変えれば弁証法であるのです。

*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

現象的に、矛盾・対立が生じても、やがて弁証法的に”合”の段階へ行きます。

弁証法

合の段階というのは、認識のレベルが上ったという意味では智慧であり、正と反の二律背反が解消され調和がもたらされたという意味では、慈悲に相当すると言えます。その過程で人は(法身仏は)幸福を感じるように作られているのです。

そういう意味では、前項で前振りいたしましたが、智慧と慈悲は別物ではなく、世界全体であるところの法身仏を「どの角度から観るか」の違いに過ぎないと言えるのです。

法身仏の自己実現である「生成発展の法則」を説明するときは、「智慧と慈悲と幸福論」に分けて考察すると理解しやすいのですね。

「智慧と慈悲と幸福論」。この3つがミクロとマクロの神秘を解き明かす鍵であり、法身仏の別名なのです。

六波羅蜜と八正道の関係性

さて、いよいよ、六波羅蜜と八正道の関係について考察していきます。
結論としては、六波羅蜜と八正道は下記の通り、対応しております。
  1. 布施
  2. 持戒:正語、正業、正命
  3. 忍辱
  4. 精進:正精進
  5. 禅定:正念、正定
  6. 智慧(般若):正見、正思

このように整理してみると、六波羅蜜と八正道は別の教えというよりも、六波羅蜜のうちに八正道は内包されていると考えることができます。

六波羅蜜∋八正道

という関係です。

冒頭に述べましたように、

  • 八正道:小乗(上座仏教)の教え→自利
  • 六波羅蜜:大乗の教え→利他

と分けて考えるのも、もちろん一つではありますが、六波羅蜜のうちに八正道が包含されていると考えると、小乗と大乗は別物ではなく、大乗のうちに小乗が内容されていると捉え直すことができます。

小乗というものは阿羅漢を目指す、つまり自己の完成を目指すものですが、自己が真に完成するためには実は他者貢献、慈悲の実践が必要なのです。

そういう意味で、

大乗∋小乗(上座部)

と把握し直して、まずは、小乗(上座部)と大乗の二項対立を止揚していきます。それであってこそ、自利利他円満が真に実現していくことになるのです。

あるいは、法華経的に、

一仏乗∋小乗(上座部)+大乗

という理解のほうが正確ですかね。

そういうわけで、本稿の結論としては、「八正道を含むところの六波羅蜜を念頭に置いて実践すれば良い」ということになります。

ただ、便宜的に自利と利他を分けたほうが実践しやすいという面もありますよね。

時期的に、「今は自分づくりの段階かな」と思えるときは、八正道の内省を中心にしていき、「他者貢献の段階に入った」と思えるときは、布施から始める六波羅蜜を念頭に置いて実践していく、という方向もあるということです。

ただ、究極的には、六波羅蜜と八正道、言い換えれば、大乗と小乗は別物ではなく、一体である。一仏乗である、という把握がより深い真理であることを腑に落としていけばベストであると思います。

 

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