私はいかにしてキリスト教徒にならなかったか?

余はいかにしてキリスト信徒となりしか
目次

キリスト者への私的旅路

タイトルは、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』をもじっています。

誤解を与えそうなタイトルですが、私(高田祥)は

  • イエスがキリスト(救世主)であること
  • イエスの説いた教えが真実の神から出ているものであること

を100%信じています

今、そうである。というだけではなく、中学生の時からそうでした。

今回は珍しく、個人的な話になります。

というのも、前回の記事からキリスト教シリーズを始めているわけですが、その前に「やはり、いくつか前提として言っておかなければいけないことがある」と感じたからです。

私はなぜか中学生(14歳だったかと記憶しています)の頃、「大学を卒業したらカトリックの洗礼を受けるのだ」というふうにぼんやりと思っていました。

なぜ、「大学を卒業してから」なのか?なぜ、「カトリック」でなければいけないのか?

ということについては、今となっては不明です(笑)。

通っていた学校がカトリック系の中高一貫教育の学校だったので、比較的、キリスト教を身近に感じていた、ということ。

そして当時は、カトリック以外にプロテスタントとか、他の宗派があるのを知らなかっただけだと思います。

しかし、ただそれだけの理由でしたら、周りの校友もみな同じ条件なんですけどね。

私に関しては、ときおり放課後のミサに参加したり(参加は強制ではありません)、あとは、家の近所にもカトリック教会がありましたので、そこにもたまに通っていました。

今から考えると、思春期特有の様々な悩みが出始めた頃で、そこから派生するところの「罪の意識」といったものに、なんとか対処していかなければ、という思いだったのかもしれません。

それにしても…学校や教会のミサ・集いに何度か参加していたにも関わらず、その頃は誰からも勧誘を受けなかった、というのは今から考えると不思議な気がします。

まあ、そんなこんなで、順当に(?)いけば大学卒業後、カトリックの洗礼を受ける方向へ行くんだろうな、と思っていたのですが…。

大学在校時代にですね、「そろそろ洗礼を受ける準備をしないと」ということで、久しぶりに教会へ行ったのです。
*高校時代以降は教会には通っていませんでした

そこがカトリックなのかプロテスタントなのか、さっぱり覚えていないのですが…。

そして、いよいよ信仰の誓いを新たにして洗礼を…とスムースに行ってもおかしくないのですが(今までの流れとしてはですね)、その時はそうならなかったのです。

というよりも、結論的には、「私はキリスト教徒にはなれない」という自己確認の場/機会となってしまいました。

経緯をご説明しますと、

「この機会だから、いろいろ質問してみよう!」と思ったわけです。

そこで、まあ、ふつうの人がキリスト教に対して感じる素朴な疑問ですね、そういうものをいくつか神父さん(牧師さんだったかも)に質問してみたわけです。

たとえば、

  1. イエスを通して救われる、ということであれば、イエス以前に生まれた人はどうなるのか?天の国へ行くことはできないのか?
  2. なぜ、西欧などキリスト教国は戦争が多いのか?キリスト教は愛の教えを説いているのに、矛盾ではないのか?
  3. 神が造物主であること、こうしたことはどのように証明されるのか?

などなど、ごく一般の人がキリスト教にもつ疑問ではありますよね。

3. の「神の存在証明」は聞くのは相手にとって酷なことで、今まで誰も証明できたことはありませんし、今の私にもできません(笑)。

ただ、存在証明は本当は自分には必要がないと言いますか、そもそも証明なしでも信じられるので、「カトリックの洗礼を受けるんだ」と思っていたのですけどね。

しかし、上記の3点他、いくつかを質問して、牧師さん(神父さんか、あるいは信者の方だったかも)といろいろやり取りしているうちに、議論が熱くなってしまったのです(笑)。

もともと理屈っぽい性質ではありましたが、とくに若いころは「議論で絶対に負けん!」みたいな、意味不明の自負心がありまして、このときも意味不明に熱くなっていったわけです。

しかし、議論の応酬をしていくうちに、

「やっぱり、イエスを通してでないと救われないとか、どうにも不公平だ。イエスを知る以前に生まれた人はどうなる?神が愛の神であるならば、なぜそのような不公平がある?」

といった疑問はやはりスッキリ解決されるべきだ、と思うようになりました。

ちなみに、ここの「イエスを通してでないと救われない」ということに関しては、煉獄(れんごく)とか、より正確に言えば、辺獄(へんごく/リンボ)の思想があります。

つまり、不運にも(?)イエスの存在すら知らずに亡くなった(しかし善人だった)魂は、地獄ではなくて、ここの辺獄に住んで、キリストの救済を待つ、という、いわば一時待機状態に置かれる、ということですね。
*もっとも、辺獄の思想は、確定した教理ではなく、「神学上の仮説」であり、宗派によっても認めていないところもあるようです。

しかし、辺獄にしたって、依然として不公平感は拭えませんよね。

そういうわけで、

「こうしたモヤモヤ感をかかえたまま洗礼を受けることはできない、誰も教えてくれないのであれば、自分で探求してみよう」

という方向へ進むことになりました。

まあその後もいろいろと紆余曲折があったのですが、今回はここまでにしておきます。

キリスト教の未来のために、できること

私が言いたいことは、

  1. 私と同様に、キリスト教に興味を持っても、初歩的な教義への疑問から、キリスト教を離れる人も多いだろうな、ということ、
  2. 信者であっても、たとえば、「イエスの復活、奇跡現象」などをありのままの事実として受け入れることが難しく、信仰上の悩みをひそかに抱えている人が多いのではないか?

ということです。

科学もずっと進歩してきておりまして、今や地動説を疑う人はあまりいないと思いますが、カトリックが地動説を承認したのはなんと1992年のことです。

宇宙科学は今後もっと進んでいき、実際に、他惑星の人類と交流を持つ時代が来るでしょうけど、

そうすると、無限に拡がる大宇宙のなかのわずか一惑星の、しかもある一時期/一地域に現れたイエスを通してでないと救われない、というのは、これはもう「とうてい、信じがたい」という方向へどんどん進んでいくでしょう。

そして、キリスト教の衰退は避けられないものになっていくでしょう。

しかし、

それでも、(冒頭に戻りますが)、私の考えでは、

  • イエスがキリスト(救世主)であること
  • イエスの説いた教えが真実の神から出ているものであること

は揺るぎないものであることも事実なんです。

したがって、自分自身のためだけではなく、多くのキリスト者(現在および未来)のためにも、キリスト教の教義およびキリストの事績を矛盾なく説明していきたい、と私は強く思っています。

「イエスが」とか「釈尊は」とか、ブログでいろいろ書いていると、ある意味、信仰を損なう部分もありまして、それは、「イエスを解説できる自分」といった傲慢さですね、

私がそう感じるだけでなく、読み手の多くの人も感じることでしょう。

そして、そのように、「イエスや釈尊をトピックとして次々に語ることは傲慢である」と感じることは、正当なことでもあり、真理スピリチュアルを探求するものにとって、むしろ正常な感覚である、とも言えます。

私たちは、理性的な認識も大事にしつつ、同時に、

神と呼ばれる実体は、結局のところ、全貌を掴むのは不可能である。神は歴史的に、都度、その一部を覗かせるだけであって、人間の理性によって神の全貌を把握しようとする試み自体に滑稽なところがある

というふうに、いわば、(今は忘れ去られている価値観ですが)、「神への従順/謙譲の心」という心的態度は決して忘れてはいけないと思います。

信仰というもの、あるいはネオ仏法で申し上げている「真理スピリチュアル」は、こうした従順さを、忘れてはいけない必須条件だと思っています。

*ちなみに「イスラーム」という言葉も、直訳では、「服従」です。

とくに、スピリチュアル業界では、こういう反省がありません。

「イエスはね、〜〜なんだよー」みたいな、こうした軽々しい物言いはやはり、立場をわきまえていないように思えます。

立場というのは、ネオ仏法流に言えば、「実在の一部の現象としての自己」ということです。

自己というものが実在の一部としての「現象」であるならば、全体であるところの「実在」と今ココに在るところの(実存の)自己の関係性ですね、これを無視しては自己探求というのは不可能だと言うことになります。

宗教で言うところの、「信仰」というのは、結局、現象としての「我(われ)」と実在としての神の関係性を確認していく作業です。

ゆえに、「自分を知る」「世界を知る」ためには、必然的に信仰および(心的態度としての)従順さが要請されることになります。

そして、実際のところ、

「従順さ」を欠いたスピリチュアル的態度は、自分という一個の”現象”を成り立たせているところの、そして、含んでいるところの全体=実在に対して、感性と理性の両面で、後退していく危険性をつねに孕んでいると思いますね。

今回は、私的な経験も綴ってみましたが、まとめると次のようになります。

  • ネオ仏法がキリスト教(あるいは、他の宗教や思想・哲学に対してもそうです)を再解釈していくのは、決して趣味的なものではない。
  • それは、キリスト教をむしろ延命させ、主イエスと父なる神への信仰をむしろ全うするお手伝いがしたいという意図がある。

なので、前回の記事から、「ふしぎでないキリスト教」というシリーズを開始しているのも、そうした趣旨であることをご理解頂ければと思います。

実際に、「キリスト教信仰で悩んでいる信者の方」にとっても、パズルのピースがはまって、キリスト・イエスへの信仰がますます深まっていかれること、

キリスト教が宇宙時代においてもなお命脈を保っていくことを願っています。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • >山本裕美子様
    コメントありがとうございます!

    もともとスピリチュアリティというのは、宗教的にも非常に大事にされている高度な概念なのです。

    しかし、現在のスピリチュアル業界は、名称だけ(カタカナの多用など)お洒落になっていますが、
    実態は、ただのご利益信仰に過ぎないものに堕しています。

    それでも、無神論や唯物論よりはよほどマシですので、「霊的次元が存在する」ということについて、一定の功績は果たしていることは認めます。

    ただ、ほんとうの意味での私たちの「霊性進化」を考えるとき、その阻害要因になってしまっているパターンがかなりあるのですね。

    結局、宗教といい、スピリチュアルといい、「どちらがどっち」というものではなく、
    山本さんがおっしゃるような「従順さ」の基礎になるところの、「神的実在中心の世界観」が獲得できているか、
    という問題に帰着すると思っております。

    *参考記事:スピリチュアルと宗教の違いとは? – 呪術か真理かで分類したほうが良い理由
    https://neo-buddhism.com/difference-between-spirituality-and-religion/

  • 今のスピリチュアル界に覚えるモヤモヤした気持ちの悪さは、まさにここに問題があるのだなと思いました。自分という現象が実在の全体性の中でどのように存在しているのか、探求されないまま、よくわからない正しさがあちこちに乱立してバチバチ火花を散らしている愛のない世界、または自利だけの傲慢な世界を求めがちな陳腐な世界になりつつあることに危惧すら覚えます。
    実在としての全体の中での現象としての私を意識すると、隣人を愛せよの言葉も真に迫るものがあります。神と私の関係を理性的感性的にしっかりと学びなおして、従順さを忘れずぶれない人間になりたいです。

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