仏教は「慈悲の宗教」と言われることもあり、一方でキリスト教は「愛(アガペー)の宗教」とおおまかには理解されているでしょう。
”慈悲”も”愛(アガペー)”も広く「他者の幸福のために善い行いをする」という意味では共通点がありそうです。
今回は、仏教の”慈悲”とキリスト教の”アガペー(愛)”の違い、あるいは共通点について考察してみます。
”慈悲”と”アガペー(愛)”は本当に違うのか?
本稿では、仏教における”愛”の概念を手がかりに考えていきます。
ご存じの方も多いかも知れませんが、仏教では、用語としての”愛”はあまり良い意味では使われません。
”渇愛(かつあい/タンハー)”と綴られることもあり、これは文字通り、「心が渇いて何かに執着する思い」を指します。ほとんど、”執着”と同義だと言っても良いでしょう。
仏教では、「苦しみの根源は執着にあり」と喝破していますので、仏教用語としての”愛”はまさにワルモノということになります。
ただ、それをもって、「だから、仏教とキリスト教はまったく違う思想なんだ」と捉えるのは、あまりに短絡的であると思うのです。
言葉というのはどこまで行っても記号性から抜け出せませんので、これは、”愛”という言葉に込めた意味合いの違いであって、単純に「仏教とキリスト教は全然違う」という問題ではありません。
ここらへん、「愛は惜しみなく与えるもの」であるが、同時に、「愛は惜しみなく奪うもの」であるから「愛憎一如」であるとし、”愛”という概念の宗教的限界を説き、仏教の”慈悲”の優位を説明しているサイトもありますが、これは論考が浅いと言いますか、比較の地平がまるで違っていると言えるでしょう。
イエスが説いている愛というのはそういう裏表がある愛ではありません。「汝の敵を愛せよ」という聖句が示すとおり、裏表なく、惜しみなく与える「無償の愛」なのです。
なので、仏教用語としての”愛”は比較の対象になりませんので、除外して考察していきます。
仏教では(善い意味での)”愛”を定義するのに、大きくは2つの言葉があります。
- 布施
- 慈悲
の2つですね。
布施は隣人愛
”布施”というと、日本人は、「お坊さんに金銭を奉納すること」とだけ捉えがちでありますけれど、本来の布施はもっともっと広い意味を持っております。
布施については、詳しくは下記の記事をご覧頂ければと思います。
*参考記事:布施の精神(心)- 仏教の三施・無財の七施に学ぶ
「仏の慈悲」という言い方はしますが、「仏の布施」という物言いはまず聞きません。
”布施”は、仏、仏陀といういわば超越的な存在(人であれ、何であれ)から下降してくる愛のことではなく、私たち人間の関係性において表現される愛のこと、と理解すべきでしょう。
仏教の基本説法に、”三論”あるいは、”施論戒論生天論(せろんかいろんしょうてんろん)”というのがあります。
- 施論:善いことをして
- 戒論:悪いことをしなければ
- 生天論:来世は天界に生まれることができる
という実にシンプルな説法です。
施論の「善いことをして」の”善い”とは、人間関係において展開される善のことでありますから、結局のところ、「私たちが接する人々に愛を与えること」という意味になります。
そうすると、仏教の”布施”はキリスト教で言う”隣人愛”にほぼ相当すると考えて良いと思います。
慈悲は、仏陀の愛と隣人愛の両義がある
超越的存在から下降してくる愛としての”慈悲”
慈悲については、「仏の慈悲」あるいは「仏の大悲」などという表現もある通り、”仏陀”という偉大な存在から私たち衆生へ下降してくる愛のことであると、まず理解して良いでしょう。
そういう意味では、”慈悲”はキリスト教的なアガペーですね、少なくとも、A.ニーグレンが定義したところのアガペーにかなり近い概念であると言えると思います。
*参考記事:アガペーの対義語はエロス(エロース)?
ニーグレンは”愛”について下記のように分類しました。
- アガペー…神の愛を本質とする、実在からの下降運動(神からの愛)
- エロース…自己愛を本質とする、実在への上昇運動
*ただし、アガペーについては、A.ニーグレンは「実在」という言葉は使用しておりません。あくまで「神」です。
キリスト教的な超越神と仏陀は違う、という意見も当然あるでしょう。
原始釈迦教団における仏陀の位置づけは「人類の教師」的な位置づけであり、キリスト教的な超越神とはまるで違うのは事実です。
ただし、大乗仏教の時代に入ると、とくに諸経の王と言われる法華経に登場してくる”久遠実成の仏陀”になると、これはほとんど超越神に近い存在なのではないか、と思われます。
仏教が世界宗教になった背景には、法華経の”久遠実成の仏陀”、それと今一つは浄土教の阿弥陀如来ですね、こうした「超越神的」側面を仏陀に付与した面がかなり強く働いていると推測しています。
隣人愛としての”慈悲”
「慈悲 アガペー 違い」でGoogle検索すると、「アガペーは相手が幸せだと思う事をすることであり、慈悲は困っている人に共感し助けることをさす」と解説しているサイトを見つけることができます。
あくまで、「仏教とキリスト教には違いがある」という前提に立った解説です。
ただ、私には、”慈悲”という言葉にはもっと広い内容が含まれていると考えます。
仏教では、四無量心(しむりょうしん)という思想(瞑想法でもある)があります。
これは文字通り、「4つの無量なる心を大事にしましょう」ということで、その4つは”慈悲喜捨(じひきしゃ)”のことです。
この”慈悲喜捨”のうち、”慈と悲”のそれぞれの意味を分解して考えると、
- 慈:他者の幸せを願う心
- 悲:他者の苦しみを取り除きたいと願う心
ということになります。
そうすると、”慈悲”には、「困っている人に共感し…」というだけではなく、「困っていない人に対しても、さらなる幸せを願う心」も含まれているということになります。
仏教用語としてはまた別に、「抜苦与楽(ばっくよらく」とも言いますが、文字通り、「苦しみを取り除いてあげる」だけではなく、「他者へ幸せを与える」ということなのですね。
慈悲に当てはめれば、
- 慈:与楽
- 悲:抜苦
です。
したがって、結局のところ、私たち衆生の実践徳目としての”慈悲”は、キリスト教的な”隣人愛”と、そうは変わらないことが分かります。
*四無量心の瞑想については、”慈悲の瞑想”という名で当サイトの「祈り/瞑想/読誦」というコーナーに掲載してあります。
慈悲とアガペーはほぼ同じと考えて良い
”アガペー”は先に、ニーグレンを援用しつつ、「神からの愛」と定義しましたが、”隣人愛”として使われていることもあります。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(「ヨハネによる福音書」十五章12節)
隣人愛は隣人愛として独立にあるものではなく、まずは神からの愛(アガペー)を受け、その愛のエネルギーを同胞に分かち与えていく、という順になっています。
いわば、愛のエネルギーの循環です。
これは、仏教の慈悲においても同様でしょう。私たち衆生や菩薩が慈悲の実践をする根拠は、仏の慈悲をあまねく伝えるため、という順序になっているのです。
このように考えていくと、キリスト教の”アガペー”にも、
- 神の愛(神からの無償の愛)
- 隣人愛(無私の愛)
の2つの側面があると思われますが、仏教の”慈悲”にも、
- 仏の愛(仏からの無償の愛)
- 隣人愛(無私の愛)
の2つの側面があることが分かるでしょう。
いわば、「縦の愛」と「横の愛」です。
そうすると、結局、仏教の”慈悲”とキリスト教の”アガペー(愛)”は、意外にもかなり近い意味合いを持っているということになります。
比較宗教というと、どうしても、「違いを強調する」という方向へ行きがちであり、それが異文化の理解に役立つことも多いのですが、
これからの地球的時代においては、「違いは違いとしてあったとしても、より高い視点から見ると、総合されてくる」というものの見方が大事であると、ネオ仏法では考えています。
今回は、キリスト教のアガペーと仏教の慈悲には共通点がある、というお話でしたが、もっとダイナミックに、「キリスト教と仏教の両者を総合する」理論的ベースをご提供している記事がありますので、お読み頂ければ幸いです。
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