結局は、「習慣論」
売れ狙いの本みたいなタイトルをつけてみました(笑)。
しかし、「菩薩になるために必要なたった一つのこと」を挙げるとすると、それは実は「習慣論」ということになると私は思っています。
6月のネオ仏法サンガ会員限定のオンラインセミナーでは、「カルマの法則と習慣論」についてお話しました。
ここで内容を少しかいつまんでお話しますと、
「カルマの法則」というのは、実践論としては、「心の習慣・クセ」というふうに捉えるのが一番良い、ということです。
一般に、カルマの法則というと、「前世の因縁で…」といったふうになりまして、これはもちろんアルことはあります。
しかし、「前世がうんたら…」と考えている意識というのは、
前世の因縁→→(影響)→→自分の運命
といった図式になってしまい、本人の意識としては、「今の自分とはまた別の、外部に因縁というものがあり、それが自分に影響を与えている」という外部責任論に転化しやすいのですね。
似たようなパターンとしては、「自分の今世の使命」というのもあります。
これも、
生まれてくる前に決めてきた使命 →→→→それに気づいている/気づいていない自分
といったふうに、「自分の外部に使命というものがあって、それに気づくか/気づかないかで運命が変わってしまう」という発想になりがちです。
しかし、当サイトで何度も述べております通り、カルマの法則というものも、自己責任あるいは主体性の原理に基づいたものでないと、決して王道スピリチュアルにはならないのです。
王道スピリチュアルにならない、ということは、真に自らの価値を引き上げていく方向に行かない、ということです。
ご利益なども一概に否定するわけではないですが、そうしたものはいわば、「現象界のみ有効」の期間限定ポイントであり、無常なもの、やがて過ぎ去っていくものです。
海辺で砂のお城を作るのに似ています。
そうして、私たちは、「どっちのお城が大きいか?」ということで、他者との比較で”リア充”を競い合うことになるわけですが、砂のお城はやがて波に洗われて消えてしまいます。
菩薩を目指すのであれば、「過ぎ去っていくもののためにではなく、過ぎ去らないもののために生きる」というのが基本姿勢になるかな、と思います。
さて、幾度も取り上げている実在界の構造論を今回も振り返ってみます。十界論ですね。
参考記事:「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」
- 仏界(ぶっかい)・・・ほとけ、如来
- 菩薩界(ぼさつかい)・・・利他に生きる境地
- 縁覚界(えんがくかい)・・・自意識的な悟りの境地
- 声聞界(しょうもんかい)・・・真理の縁にふれて学ぶ境地
- 天界(てんかい)・・・もろもろの喜びの境地
- 人界(にんかい)・・・平均的な人間の境地
- 修羅界(しゅらかい)・・・喧嘩上等の境地
- 畜生界(ちくしょうかい)・・・欲望のままの境地
- 餓鬼界(がきかい)・・・貪り(むさぼり)多い境地
- 地獄界(じごくかい)・・・上記以下の地獄すべて、八大地獄などがある。最下層は無間地獄(むけんじごく)
これら十界のすべてが実在界の構造論であると同時に、現象界(今、生きている世界)のこころの有り様の分類にもなっています。
より正確に言うと、心/精神というのは物理次元のものではないので、実際は今、肉体を持ちながら、「あなたの/わたしの心」は、実在界に存在します。
そして、「どの世界に還るか?」ということは、「一生を通じた心の平均打率で決まる」とお話したこともあります。
ただ、「トイレに入っているときでも利他の心境でいるの?」というと、実際にはむずかしいですけどね。
心の状態そのもの、というよりも、「思いのベースになっている価値観が利他になっている」というほうが正確かもしれません。
これは、八正道で言えば、
正見(正しい価値観があるから、)→正思(正しい思いが出る)
という順序ですね。
で、結局は、「どのような価値観を自らに染み込ませているか」が勝負ポイントになります。
そういう意味で、やはり、日々の習慣づけが大事ということになります。
みなさんも経験有るかと思いますが、自分を見ていても他人を見ていても、モチベーション頼りだとまず、続きません。
なので、「歯を磨かないと気持ちわるい」というふうに、「真理に心を向けていないと気持ちわるい」というところまで習慣化できれば、モチベーションに頼らなくても済むようになります。
そのために、むかしから色々な宗派で行われている「経典読誦」もしくは「祈り」の時間というのは、習慣づけには最も効果的なもので、ぜひ取り入れていくと良いですね。
というわけで、サイトのメニューに「祈り/読誦」を追加しておきました。とりあえず、3つだけですが…。よろしければご活用ください。
般若心経
般若心経は日本人に一番馴染み深いお経ですね。
262文字ということで、かなり短いですので、無理なく毎日続けられます。
「般若心経というお経そのものにスピリチュアルパワーがある」というのも一概に否定はしませんが、本当は、やはり内容をキチンと理解して読誦したほうが良いのは当然です。
また、般若心経のなかには、五蘊(ごうん)・十八界・十二支縁起・四諦など仏教の基本教義が言及されていますので、トータルな振り返りとしても便利です。
般若心経については今年中にセミナーができれば良いな、と考えていますが、とりあえず、市販の本を1冊でも読んでから読誦すると良いと思います。
慈悲の瞑想
こちらはテーラワーダ仏教でおもに行われている瞑想ですね。
瞑想というより、祈りに近いでしょう。
いろいろなバージョンがあるようですが、無理なく続けられるように、私は短いバージョンを採用しています。
4行ずつひとまとまりになっていまして、これは慈悲喜捨(じひきしゃ)の順に従っています。
慈悲喜捨は「四無量心(しむりょうしん)」と言いまして、あまねく存在に慈しみの心を育むことですね。
むずかしいのは、喜と捨、とくに捨です。
捨は平静心とも訳されますが、想像しやすい状況としては、「他人が成功している/悟りが進んでいる姿をみて平静な心でいることができる」というあたりですかね。
ひとは、他人が困難な状況に陥っている時に同情するのは容易いですが、その人が逆境を抜け出し、さらに成功した時に祝福できるか(=喜)、
さらに、平静な心でいることができるか(=捨)、というのは、けっこうむずかしいです。
が、やはりこれも心の習慣づけ、ということですね。
読み慣れると、つい心があさって方向にいったまま読んでいる…という状況に陥りがち(ま、それでも続けているだけマシです)なので、私はたまに、微妙に字句を変えて読んでいます。
「私の好きな人が」を「私の親しい人々が」にしたり、あるいは、固有名詞にしたり、です。要は、なるべく実感を伴って読むようにできればベターだということですね。
主の祈り
こちらは、キリスト教で使われている祈りです。
般若心経のあとに、主の祈り?というと、トンデモっぽいですが(笑)、当サイトの趣旨に賛同してくださる方であれば、とくに抵抗はないかと思います。
祈りに限らず、聖書は文語のほうがバイブレーションが高い、と感じていますので、文語バージョンを使っています。
その他
私の場合は、経典読誦や祈りに入る前に、合唱礼拝をしますが、その際に、「南無〇〇」と唱えます。
〇〇とのことろは、本当に「阿弥陀仏」であるときもありますが、いくつかのパターンを使い分けています。
最近(2019/07/30現在)よく使っているのが、
南無久遠実成の仏陀
天帝にしてわが主
至高神アッラーに帰依いたします
です。
ネオ仏法としては、釈尊の法身(ほっしん/本質部分)が地球のトップであり、イエスが「わが父」と呼んだ存在であり、ムハンマドが「アッラー」と呼んだ存在である、という認識です。
なので、
久遠実成の仏陀:仏教
天帝:儒教
主:キリスト教
アッラー:イスラム教
というふうに、「真理は全体である」というテーゼが腑に落ちるように唱えているわけです。
参考記事:「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく-③実在は「現象する」ことによって本質を開示する」
ぜんぶの経典・祈りを毎日やるわけではなく、心境によって使い分けています。
たとえばここ最近では、
- 南無〇〇唱える
- 『般若心経』読誦
- ヴィパッサナー瞑想
という順で、
あとは、就寝前に「慈悲の瞑想」をやるパターンが多いです。
落ち込んでいるときは、「主の祈り」だけをひたすら、とか。仏教的には、「南無阿弥陀仏」ですね。
この場合は(私の場合は)、”久遠実成の仏陀”の慈悲の領域の顕現=阿弥陀仏、という認識です。
実在面と現象面の両面を見ていくことが大事、と私は書いていますが、現象界に生きていると、実在面の方をどうしても忘れがちになります。
「自分という1個の現象は、実在(という全体)にリンクしている」という意識ですね、この確認のために、各宗派で礼拝・経典読誦・祈り・瞑想などが行われている、と理解しています。
なので、逆に言えば、「礼拝・経典読誦・祈り・瞑想」(どれかでもいいです)が入らないと、本当は王道スピリチュアルにはならないと思っています。どんな良いことを言っていても、ですね。
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