「無常」というのは仏教用語で、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と言うこともあります。
日本人にとっては、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。(「平家物語」)
あるいは、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。(『方丈記』)
などのフレーズでお馴染みですね。
諸行無常は、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)、とともに「三法印(さんぽういん)」と呼ばれます。
この3つが法の印、仏教であることのシルシである、ということですね。
無常はおなじみではありますが、それでも、この感覚がどれだけ腑に落ちているか?というと、地上に生きている誰にとっても、心もとないところがあります。
そのため、この「諸行無常」についても、同じような内容を、手を変え品を変え、記事にしています。
*参考記事:諸行無常と諸法無我の違いとは?
もう理解できているあなたは、「またこの話かー(゜o゜;」とうんざりしているかもしれませんが、できたら、もっとうんざりしてください。笑
というのも、「うんざりする」ってことは、「理解できている」ということであって、逆に言えば、「うんざりできない」ということであれば、まだ理解できていないということになるからです。
人生観の根本問題に関わってくる、とても大事な話なので、ぜひ繰り返して読んだり、考えたりしてみてください。
このように書いている私でも、毎日のように自分に言い聞かせています。
「過ぎ去っていくもの」と「永遠なるもの」を分別(ぶんべつ)する
人は現象界(この世)に肉体を持って生きていると、どうしても五感で感知できる世界のほうをリアルに感じてしまうもので、結果、物質的人生観に逆戻りしてしまい、なかなか突き抜けていかないところがあるのですね。
さて、
この現象界はいわば仮想現実の世界であると、繰り返し、お話しています。
仮想現実であるということは、その世界の中で「望んでいること」「手に入れたモノ」「苦しんでいること」「喜んでいること」もやはり、仮想のものであることが多いのです。
つまり、実在の世界に持って還ることができないものが多い、ということですね。
実在界へ持って還ることができないものは、「過ぎ去っていくもの」ということになります。これを観じるのが、いわゆる「無常観」です。
一方、持って還ることができるものは、「永遠なるもの」ということになります。
たいていの人は、「過ぎ去っていくもの」に夢中になってしまい、「永遠なるもの」に無頓着になる傾向があります。
それは、「過ぎ去っていくもの」は現実世界に属しているものなので、その分、より「実感しやすい」という理由がありますね。
一方、「永遠なるもの」は、心の価値であるとか、そういった目に見えない価値になります。
それが目に見えない、他人から直接的な評価も得られにくいものであるがゆえに、つい軽視してしまう傾向がでてきます。
わかりやすい例で言うと、
「人を騙してでもお金を儲けられればいい」という価値観で生きてしまい、かつ、本当にお金が儲かったとします。
ところがこの場合、
- 実在界へ持って還るもの……「人を騙しても良い」という心
- 現象界にいずれ置いていかなければいけないもの…「儲けたお金」
という図式になってしまいます。
そうすると、「この世でずいぶん成功した!」と思っていたところ、ふたを開けてみれば、「真っ逆さまでした」という状況になるわけです。
これは、この世で物質的に、あるいは名声として成功していればいるほど、大きなギャップを感じることになります。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(「ルカ福音書」18-14)
という聖書の言葉は、こうした文脈でも理解することができます。
もし今、あなたが苦しみの中にあるならば、「今、自分が欲しいほしいと思っているもの」、「これさえあれば!」と思っているもの、「自分を苦しめているもの」が、
<過ぎ去っていくもの>であるのか、<永遠なるもの>であるのか、よく考えてみると良いんです。
「会社が嫌だなー」と思っていても、その会社は100年後に存在しているでしょうか?
たいていの会社は100年も続きません。
あなたを苦しめている人間関係は、100年後はどうなっているでしょうか?
あなたが欲しいと思っているお金は、実在界へ持って還れるものでしょうか?
有名になりたいと思っていて、仮に有名になっても、それは100年後にどれだけの人が覚えているでしょうか?
日本の大会社の社長ですら、ほんの数年で忘れ去られてしまいます。
ビジネス系であれば、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、松下幸之助など、世界的で、かつ、ある分野の在り方を根本から変えてしまったような仕事をした人であれば、数百年は語り継がれるかもしれませんけどね。
彼らでさえも、数千年後は忘却の彼方へ行ってしまうでしょう。あるいは神話になります。神話の発生原因はじつは、ここにあるのです。
そのような、「過ぎ去っていく世界の、過ぎ去っていくものに執われ、苦しむ必要があるのだろうか?」と想像してみるとき、ふっと心が軽くなることがあります。
これは今、現代語で語っていますが、
2600年前に、釈尊が
「無常なるものは苦である」(「増阿含経」1-9)
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させよ」(「大般涅槃経」釈尊の辞世の言葉)
と語っていたことと、まるで同じ内容を言っているわけです。
*参考記事:無常・苦・無我(三相)とは?仏教学通説の誤りを正す
無常なるもの=過ぎ去っていくものにとらわれるのは苦しみである。
雨の日に傘をさすように、ごく自然なふるまいとして、無常なるものは無常なるものとして扱い、永遠なるものを永遠なるものとして扱う。
「永遠の相から、俯瞰して眺めてみれば、この現実世界の出来事はほんのひとときのことである。やがて過ぎ去っていくんだな」と諸行無常を感じる(観じる)ときに、どれだけ心が軽くなっていくことでしょうか。
一日のなかの、ほんの数分。いや、数秒でもよいので、
ふと、そうしたことを考えてみてください。それがあなたを本当の意味で引き上げていくことになります。
天使(菩薩)とは、永遠なるもののために全人生を捧げることのできる存在です。
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