前回の続きで、今回はシリーズ17回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
乃至無老死 亦無老死尽
読み:ないしむろうし やくむろうしじん
現代語訳:(同様につきつめると)”老死”も無いので、老死を尽くすことも無いのである
今回は文字通り、前回の続きで”十二因縁”の後半部分です。
前回は、「”無明”を無くせば、その後も無いじゃないか」「いや、そもそもその”無明”が無いんだから!」
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死
という、丁々発止(?)でした。
今回は冒頭に例の、”乃至(ないし)”が入っています。これは、「その後も同様に考えるので省略しますよ」という意味でしたね。
上の図で行くと、”行”〜”生”までは同様に考える。
すなわち、「”行”が無ければ、”識”以降も無い」「”名色”が無ければ、”六処”以降も無い………(以下、同様)」ということです。
そして一番最後の、「老死も無い」に行くのです。
「老死がそもそも無いのだから、老死を無くす(=尽くす)こともない」というのが今回取り上げたテキストの意味です。
前回の復習にもなりますが、結局のところ、
「苦しみの輪廻の原因は、十二因縁の一番最初の”無明”にある」「ゆえに、”無明”を滅すれば(=尽くせば)、言葉を変えれば、”智慧”を獲得すれば、苦しみの輪廻から脱出する(=解脱する)ことができるのだ」
と、十二因縁の思想はこのような解釈をすればいい、ということになります。
しかし、般若心経では、
「いやいや、そもそもその”無明”が無いんだから!(無無明)」というツッコミで、相手(上座仏教/小乗仏教)の立っているところの土台そのものにケリを入れる、という技を使っておりまして。
だから結局、
「そう考えていくと、十二因縁の一番最後の”老死”だって無いんだから、老死を無くす(=尽くす)必要すら無いのだよ」
というのが、今回の、”乃至無老死 亦無老死尽”の意味、ということになりますね。
これは例の通り、
「”空”という一段高度な悟りから観れば、あなたがた(上座仏教/小乗仏教)が大切に思っているところの”十二因縁”だって仮のもの。無い、と言えるのだよ」
というマウンティングです。
では、ネオ仏法的には、どう判断するか、ということになりますが、
やはり、「”空”の悟りから行けば、一切の現象は仮のもの、本来無いと言える」というのは確かなことではあります。
ただし、「仮のもの」とは言え、実際に現象として様々な事象が”有り”、そして、釈尊が(今回の十二因縁を含め)様々な修行方法を提示していた事実が’有る”のは間違いないことですね。
なので、何でもかんでも「現象は仮のもの、無いのだ!」と切り捨てていくことは、やはり一方の極論であると考えます。
「なにゆえに現象(現象界)がさまざまに展開しているのか?」ということをさらに考えていくと、
「仮のものではあっても、そこに取り組んでいくうちに”智慧の発現”や”愛の循環”が起こりえる。これこそが現象界が”有る”ことの目的ではないか?」
というふうに、さらに奥の奥の「現象世界の目的論、意味論」まで見抜いていくことができます。
したがって、基本的にはやはり、十二因縁の修行すなわち、
- 無明を克服し、
- マイナスのカルマをなるべく作らない
- 迷いに基づいた転生輪廻を打ち止めにしていく
ということはやはり大事な修行だと考えていくのが正論です。
ただし、一方では、「さらに上位の真理、実在論として”空の論理”が有る」という真理の奥行きですね、ここを見抜いていくことが大事、ということになります。
つまり、ここでも、
- 十二因縁は有る:修行論として有る
- 十二因縁は無い:本質論としては方便であり、無いと言える
という、”有無の中道”で観ていくのが正解、という立場をとります。
そして、十二因縁については、もう一点、補足しておくべき重要な事柄があります。
それは「輪廻転生をいかに捉えるか?輪廻を打ち止めにするのが本当に正解なのか?」という問題です。
従来の仏教および仏教学では、
- 輪廻をしている状態が苦しみ
- 輪廻から脱するのが解脱(=苦しみの克服)
という理解です。
しかしこの理解では、「なぜ、苦しみにしか過ぎない輪廻というシステムが用意されているのか?」という目的論的な疑問に答えることが出来ません。
輪廻がそれ自体が悪い、ということになると、今回地上に生まれてくる事自体に悪が潜んでいることになります。
ここはやはり十二因縁をもっと奥まで見抜いて、
悪いのは輪廻そのものではなく、”無明”に基づく「迷いの輪廻」が良くないということなのだ。
そうではなく、地上に生まれてくる意味とミッションを生きながらにして見抜き、輪廻という新しい経験の場を最大限に活用し、智慧の獲得と慈悲の発現の場に変えていく。
すなわち、「迷いの輪廻」から「智慧の輪廻」への大転換を図るのが正解である。またこれこそが”解脱”のほんとうの意味である。
…という理解が、ネオ仏法的なポジショニングです。
輪廻というシステムが用意されている以上、そこになにか意味があるはずだ、ということを考えていくのです。
神は(仏は)無駄なシステムを作らないはずだ、ということですね。
そして実際に、輪廻は悪どころか、「智慧の発現と慈悲の発揮」という大宇宙が創造された目的とも合致してくるのであり、これは文字通りシステマティックな善である、というふうにも解釈できるのです。
ある意味では、”無明”からはじまる「迷いの輪廻」ですら、「こうすればかくなる」「無明で始めれば苦しみになる」という体験学習であるとさえ言えます。
このように考えると、宇宙にはなにひとつ無駄なものはない、ということが言えます。
…というか、そこまで見抜いていくことが、「奥の奥なる智慧」であり、「般若心経の悟りをはるかに超えていく」契機になります。
真理の奥行きがここまで開陳されるのは稀なることです。
いま、この文章を「なるほど」と思いながら読める人は、やはり過去世からの精進の蓄積がある人であり、最高に幸運な魂である。
この幸運は王侯貴族の位とも代えがたいもの(比較になりませんが)と思っていいです。
コメント