依般若波羅蜜多故

仏陀より、般若の智慧のほうが上!?

前回の続きで、今回はシリーズ28回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

依般若波羅蜜多故

読み:えはんにゃはらみたこ

現代語訳:般若の智慧に依るがゆえに、

主語は、前回記事の”三世諸仏”です。

「過去・現在・未来のもろもろの仏陀たちは、般若の智慧に依るがゆえに」という流れです。

ここのところを単純に解釈すると、「”仏陀たち”は”般若の智慧”に依拠して〜」となるわけですから、

 仏陀たち<般若の智慧

というふうに、「仏陀より、般若の智慧のほうが上位にある」と読めてしまいますね。

これは、キリスト教・イスラム教などのセム的一神教からみると、摩訶不思議な光景でしょう。

仏教が、”法中心”の宗教と言われる所以(ゆえん)です。

ただし、この解釈はまだまだ表面的なものと言えると思います。

ここの主語の”仏陀たち”というのは、究極の仏陀・久遠実成の仏陀というよりも、「菩薩時代から修行を重ねて仏陀になった存在」のことです。

仏教的には三身説というのがありまして、そのなかでも応身(おうじん)と呼ばれる存在です。

応身とは、地上へ下生し、菩薩として修行を重ね仏陀になった存在のことを言います。

観世音菩薩像

キリスト教の教理で言えば、”受肉”に近い概念です。

*参考記事:ふしぎでないキリスト教-⑦キリスト教の神は人格神ではない!?(三位一体)

なので、「三世諸仏 依般若波羅蜜多故」=仏陀たちも般若の智慧に依って(学んで)、というのは、厳密に言えば、

応身としての(菩薩時代の)仏陀たちは、般若の智慧を学んで仏陀となったのだ、ということになります。

究極的には、法と仏陀・唯一神を区別する必要はなくなる

一般的には、仏教とキリスト教/イスラム教を比較して、

  • 仏教:法中心の宗教
  • キリスト教/イスラム教:人格神中心の宗教

との解釈が多いですよね。

これはもちろん、間違えとまで言うつもりはありませんが、しかし、ネオ仏法的には、「まだまだ奥がある」と考えています。

まず、仏教的には、

法をみるものは我をみる。我をみるものは法をみる
 (『サンユッタ・ニカーヤ』「ヴァッカリ」)

と説かれているように、法と仏陀は同一視されています。

このサンユッタ・ニカーヤで説かれているところの”我”=仏陀は、今地上にあるゴータマ・ブッダの本質であるところの”久遠実成の仏陀”、法身仏としての仏陀、ということでしょう。

あるいは、別の捉え方として、

現象としての”我”=応身仏を見るものは、実在としての”法”=法身仏を見ることと同義である、というふうにも理解することができます。

三身説には、これら応身、法身の他に、報身(ほうじん)という形態もあります。

報身は、「仏陀になるための修行という種を蒔き、その報いとして仏陀となった存在」のことです。

報身はさらに、「他者の利益(りやく)を提供する仏」という定義もあります。むずかしくなるので覚えなくてもいいですが、これを他受用報身(たじゅゆうほうじん)と言います。

この報身は、応身とどう違うかと言いますと、「他者への利益」と定義されているように、「仏が衆生へ利益という作用を及ぼす」という側面に注目しているわけですね。

*ただし、自ら法悦、法の喜びにひたる仏のことを自受用報身(じじゅようほうじん)と呼ぶこともあります。

作用というのは、言葉を換えれば、”働きかけ”のことでもあります。

つまり、仏が衆生に利益という働きかけを行う形態ですね、これを報身と呼んでいるわけです。

そのように”働きかけ”あるいは”作用”という側面に注目すると、報身はキリスト教理でいうところの”聖霊”とほぼ同じ理解をしていくことができます。

三身説をまとめますと、「本質としては法身であるが、地上に下生すると応身になり、利益を供与する役割としては報身と呼ばれる」という理解の仕方です。

  • 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀
  • 応身:地上に下生した仏陀
  • 報身:利益を供与する仏陀

というふうにまずは、整理しておきます。

また、WIKIの三身説を参照すると、三身をそれぞれ、

  • 法身:盧遮那仏(久遠実成の仏陀と同義と考えて良いです)
  • 報身:阿弥陀仏
  • 応身:釈迦仏

としても整理されています。

このうち、報身の阿弥陀仏に注目すると、来世(あの世)におけるいわば主宰神としての存在、ということですよね。阿弥陀仏は実際に”救済”という働きかけをします。

つまり、報身には、

  • 人格神的報身
  • 作用的報身

の二種の理解の仕方があるというわけです。

これらの考え方を再び整理してみますと、

  1. 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀
  2. 人格的報身:来世における主宰神としての仏陀
  3. 作用的報身:衆生に利益を供する仏陀
  4. 応身:地上に下生した仏陀

となります。

この整理の仕方はかなりネオ仏法的なオリジナルな整理の仕方ですが、理論的には筋が通っているでしょう。

なぜ、このような整理の仕方をしているか?と言いますと、キリスト教の三位一体との整合性をとるためです。

*参考記事:ふしぎでないキリスト教-⑦キリスト教の神は人格神ではない!?(三位一体)

実際に照合してみましょう。

  1. 法身:法としての存在。仏陀の本質。久遠実成の仏陀→三位一体の”一”としての在り方
  2. 人格的報身:来世における主宰神としての仏陀→父の位格
  3. 作用的報身:衆生に利益を供する仏陀→聖霊の位格
  4. 応身:地上に下生した仏陀→子の位格

という具合です。

もちろん、ピタリと一致しているとは言い難いのではないか?という反論はあると思います。

応身としての釈迦仏は、人格的報身としての仏陀を”天の父”という具合に把握していたわけではないですからね。

ただこうした差異は、神的実在が歴史的・文化的なコンテクストのなかで、「どのように人類に顕現・応答していくか?」、という問題であって、本質的な差異ではないと私には思えます。

これらの理論を「依般若波羅蜜多故」にからめていきますと…、

”般若の智慧”を法身仏として把握し、”三世諸仏”を応身仏と把握していくわけですね。

どちらが偉いという問題ではなく、「顕現の仕方」の問題です。

逆に、キリスト教的に言えば、3つの位格を総合した一なる神というのは、三身説で言うところの法身に相当する、ということです。

キリスト教の神を人格神として捉える向きが一般的ですが、三位一体論に沿って言えば、3つの位格・ペルソナを総合した一なる存在は、法としての本質的存在として把握されうる、ということです。

今回も『般若心経』からはずいぶんと逸れたようではありますが、

新時代に適合する法理論として、「三世諸仏 依般若波羅蜜多故」をエキュメニカル(宗教一致的)に解釈する方向性は、非常に大事な考え方になってくると思われます。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ㉘依般若波羅蜜多故

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