比丘たちよ、まだわたしの教法を聞かないひとたちは、
苦受にふれられると、憂え、疲れ、悲しみ、胸を搏って泣き、なすところを知らず。
彼らは二種の受を感ずる。見に属する受と、心に属する受である。
比丘たちよ、たとえば、第一の矢をもって射られども、さらに第二の矢をもって射られるがごとし。
それとおなじく、比丘たちよ、すでにわたしの教法を聞いた弟子たちは、
苦受にふれられるども、憂えす、疲れず、悲しまず、胸を搏ちて泣かず、
なすところを知らざるに至らず。(雑阿含経『箭経』第十七)
「第一の矢、第二の矢」と言っても、アベノミクスの話ではありません。笑
比丘(びく)というのは、男性出家修行者の呼び名です。
*ちなみに、女性の出家修行者は、比丘尼(びくに)と呼びます。
この法話の趣旨は、
- 修行者(仏法を学んでいる者)と凡夫(ぼんぷ)の違いは、どこにあるのか?
- 修行者であれば、一切の苦しみから解放されるや否や?
というところにあります。
現代では、比丘・比丘尼=出家修行者というよりも、広く、真理知識を学び、実践している人とそうでない人の違い、ということになりますかね。
真理知識を学ぶ段階、というと、例の十界説でいえば、声聞(しょうもん)の段階にある人ということになります。
*十界説についてはコチラの記事を参照
結論から言うと、
声聞であっても、苦しみを受けることはあります。
それは、この世、現象界に生まれている限りは、どのような偉大な魂であろうとも、四苦八苦からは逃れがたい、という釈尊の、実に冷静なものの見方に根拠があります。
たとえば、声聞であっても、病気になったり、あるいは、他人からの批判(的外れであっても)を受けることもありますね。
そういう意味での、この世の現象世界で生きてゆくことに付随する苦しみを受けることはあるわけです。これが、「第一の矢」ですね。これは何人たりとも逃れることは出来ない。
ところが、第二の矢を受けるかどうか、で修行者と凡夫は分かれてきます。
上記の例でいえば、他人からの批判を受けて、さらに、様々な心の苦しみを作ってしまうケースがありますね。これを、「第二の矢」と呼んでいます。
そういう意味では、第二の矢どころか、矢を十本くらい受けてしまうこともあるかもしれません。
しかし、第一の矢を受けたあと、その矢をどのように解釈し、さらに、どのように反応していくか、ということに対しては、各自、自由に選んでいくことができる、という事実があります。
声聞の段階では、真理知識がありますので、第一の矢が自らの価値を損なうものではない、ということを、まず知識として知っております。
ゆえに、心が乱されることなく、さらに積極的な心の態度としては、「この第一の矢をも加工して、自分の武器にしてしまおう」という積極思考もありますね。
上の例で言えば、他人からの批判を受け(第一の矢)ても、「その批判のどこかに正当性はないか、学びはないか、それを魂の糧に変えることはできないか」と考えていくわけです。
つまり、
第一の矢は外部からやってくるものであって、逃れることはできないけど、その第一の矢について、どのように自分が反応していくかには各自に固有の決定権があるということですね。これが第二の矢を受けるかどうかの分かれ道になるというわけです。

この考え方は、先日ご紹介したストア哲学とほぼ同じ考え方です。
また、『7つの習慣』のスティーブン・コヴィーは、「反応にはスペースがある」と言っています。これも同じことを言っているわけです。
結局、
自らの価値が何に由来するものであるか、それを知っているかどうか、が分岐点になるということです。
自らの価値が他人の評価に決定される、という価値観であれば、第二の矢、いやいや、第十の矢くらい受けてしまうかもしれませんね。
それゆえに、価値の軸というものを真理(仏法)におく絶対軸が、ここでもやはり有効になってくるわけです。
永遠の真理の軸、仏法の軸、絶対軸はゆらぎのないものだからです。
そういう意味では、他人軸ではもちろん心の安定を得られませんが、最近流行りの「自分軸」でもやはり心の安定は得ることはむずかしいでしょう。
「自分軸」と言うと聞こえはいいですが、そしてそれが絶対軸に一致していれば揺るぎないものではありますが、たいていの場合、「他者に対して自分の信条で相対(あいたい)する」といった意味で使われていると思います。
しかしこれでは、「自分 – 他者」という相対観から抜け出せてはおらず、やはり、無常な価値観、移り変わっていく価値観、不安定な価値観です。
そうではなく、不変の揺るぎない絶対軸を基準にしつつ、「それを相対の世界にどうやって当てはめていくか?現実の場面で応用していくか?」ということですね。
ここに智慧の発生ポイントがあるのかな、と思います。