スピリチュアルの問題を考えるのに際して、避けて通れない話題が、
「神が全能であり、一切者であるならば、なぜ悪が存在するのか?」
という論点があります。
旧約聖書などを読んでいると、神と悪魔が対談している場面などがでてきまして、
そういうイメッジから推測するに、「悪魔的なものも神の属性の一つとして、実体として存在するのではないか?」という議論が古来より行われています。
これがいわゆる、「神のヤヌス性の問題」ですね。
この点については、
「そもそも悪とは何であるか?」という、ソクラテス的な「そもそも論」から検討していく必要があると思います。
また、「神のヤヌス性」といった神学上・哲学上の問題と言うだけではなく、現に今、この現実世界の中に生きているわれわれにとって、
「なぜ悪が存在するのだろうか?」「このような世界であるのだから、神々など存在しないのではないか?」
といった切実な問題にもなってきますね。
さて、それでは「悪」とはそもそも一体、何なのでしょうか?
これはですね、実はきわめて「時間論」と関係してくるトピックになるんです。
というのも、私たちが日々、目にしている数多くの悪徳ですね。
この特徴をひとつあげて見るとするならば、
「時間を止めた状態において存在するもの」あるいは、「一定の時間内に存在するものである」
といえるかと思います。
人間はひとりひとり自由意志を持っておりますね。
自由意志の自由意志たるゆえんは、「さまたげるものがない」という特徴にあるのはお分かりかと思います。
ところが、この地球上にも数多くの、人間を始めとする生物が生息しているわけですね。
そうした生命体が、おのおの「自由意志」を発揮していくならば、
「自由意志Aと自由意志Bが衝突することがある」というのは、容易に察しがつくことであると思います。
この、自由意志と自由意志がぶつかるところ、歪みの部分が、実は「悪」と呼ばれるものなんです。
人間は、無人島で独りで暮らしている限りは、なかなか悪を犯すのは難しいでしょう。
やはり、自由意志をもった存在同士の、欲求がぶつかるところ、その矛盾点にこそ悪が現れてくることになります。
さあ、で?
結局、「悪は実在なの?」ということですが、
次にこの「時間」というものを、ぐぐーーっと引き伸ばしてみましょう。
そうすると、自由意志と自由意志の相克・歪みで生じた悪というものも、広大なる時間の流れの中では、また別のものに転化していくのではないか?ということに思い当たります。
繰り返し当サイトで述べておりますように、人間は究極の宇宙エネルギー(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)とか仏陀とか、アッラーとか、なんでも良いですが)の一部として、
その巨大な生命エネルギーの一部として存在が許されております。
そして無限とも思われる輪廻転生の過程にあるわけです。
そもそも、なにゆえに輪廻転生を繰り返していくかというと、それは、魂の向上/霊性の向上を目的としているわけですよね。
そうであるならば、一見、悪と見えるものの中にも魂の向上/霊性を高める機会へと転化していくことが可能になってきます。
たとえば、「誰々さんにひどい目に合わされた…」ということが誰しもあるかと思いますが、
まあこれは言ってみれば、「悪」ですよね。
少なくとも、一定の時間の範囲内では、悪でしょう。
ところが、こうした経験も、「他人をひどい目に合わせると、自分のような悲しい思いを引きずることになるんだ」というのが、ひとつの体感覚を伴う「悟り」になるわけです。
そして、そういう経験を経ていることが、他者への理解、他者への優しさという方向へ転化していくことになります。
ここでは一例を挙げましたが、
やはり、悪というもものは文字通り必要悪な面もありますし、また、人間が自由意志を行使することができるという特性にどうしても付随してくる問題ではありますね。
ただし、上記で考察したように、ここでも「人間は永遠の旅人である」という視点を入れていけば、悪と見えるものも、やがては、智慧や愛に転化していくことになるわけです。
視覚的なたとえを述べてみましょう。
大きなおおきな川があります。
水源から河口に至るまで、その流れのなかで、部分的には、水流が岩にぶつかって逆流現象を起こしているところもあります。
だけれども、それはその場所だけの現象であって、川全体を俯瞰してみれば、やはり、上流から下流へ滔々と流れていくのが川なわけです。
これと同様に、悪というものも、ある一定の時間内における「逆流現象」なんです。
しかし、さらに時間軸を引き伸ばしてみると、そうした逆流現象も自らの一部に含みつつも、大河の水はやがては河口へと河口へと流れていくわけです。
悪を思うときに、この大河のイメージを持つと、とても心が軽くなります。
悪とまで言わずとも、自らの人生での過ちを考える時、「なんてダメなんだ…」と落ち込むこともあるかと思いますが、
その、「ダメダメ」なことすら、ひとつの経験として、今後の無限とも思われる輪廻転生のなかで、ひとつの智慧や慈悲として輝いてくるわけです。
自らの至らないところを徹底的に味わった経験があるからこそ、他者への優しいまなざしも生まれてきます。
さて、
こうしてみると、全時間・全空間という、大きな大きな視点から見るならば、(そしてネオ仏法で言う仏は時間も空間もその掌中に収めている存在です)、一切の出来事はいずれ、善に転化していくことになるわけです。
この事実そのものが大きな福音であるかと思いますが、
ここからさらに、ネオ仏法がなにゆえ、最大・最勝の成功哲学になりうるか?への回答がひそんでいるんです。
これはとてもとても大事な視点です。本当に、最強の成功哲学を構築することが可能になってきます。
これは、稿をあらためて書いてみますね。
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