ふしぎでないキリスト教- ①イエス復活の真相を解き明かす

肉体の復活

ふしぎなキリスト教

『ふしぎなキリスト教』(橋爪 大三郎 /大澤 真幸 著)という本がけっこう話題になっているので、読んでみました。

ふしキリ

「ふしぎなキリスト教」、略して、「ふしキリ」と呼ばれたりしています。

対談というリラックスした形式で、よくこれだけ問題点を整理しつつ説明できているなあ、と感心するとともに、勉強させて頂きました。

この本に対しては、「記述にミスが多すぎる」ということで、『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』という反論本、これはネットの有志が自費出版したものですが、こういう本も出ています。

その後、同じ、橋爪大三郎/大澤真幸 の執筆陣で、『やっぱりふしぎなキリスト教』という続編も出ました。

反論本の『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』については、こちらは読みかけなんですけど、「若干、揚げ足どり気味かな」という印象でした。

つまり、「正確さ」を詰めていけば問題があると言えないこともないけれど、

  • 対談というリラックした形式/文体で
  • 初心者向けに問題点を整理して解説する
  • 読後に、「キリスト教が文明に与えた影響をもっと考えてみたい」と読者に思わせる

という意味では、『ふしキリ』は成功している。逆に、あまりに正確さを求めると、上記の3点が吹き飛ぶだろうな、という印象なのですけどね。

ただそれにしても、「よくこんなことまで知ってるな」というほどキリスト教に詳しい方々が参戦していますので、両著作を比較検討して読むと、すごく勉強になります。

この『ふしぎなキリスト教』の論点をそのまま参考にしつつ、というわけでもないのですが、

たしかに、キリスト教とその母体になったユダヤ教には一般的に考えて、すごく不思議な面があります。

今回、トピックで挙げている「復活」は、キリスト教の教義の中では、

イエスの復活によって、神と民の間に新しい契約が結ばれた(新約)

という位置づけでありますので、もっとも重要な思想であると言えるでしょう。

ただ、復活思想は信者でない立場からするとかなり面妖と言いますか、

つまり、「イエスは死後3日で、肉体のまま復活し、40日あまり弟子たちの前に姿を表して説法をし、その後、昇天していった」ということなので、

これは、実際は信者であってもどれだけ真面目に信じているのか?けっこう難しいところがあるでしょうね。

今回のシリーズでは、まずはこの「復活」を皮切りに、

「ふしぎでないキリスト教」というタイトルで、キリスト教について、思いつく論点をいくつか挙げながら、「ふしぎを、ふしぎではないように説明する」という試みをやってみたいと思います。

本当にイエスは復活したのか?

上述の通り、とくに現代人にとって復活はとうてい信じがたい、というのも無理はないですね。

中立な立場である学者はやはりほとんど、「思想的なものを文学的に、比喩的に表現したもの」と捉えているでしょう。

それでは、ネオ仏法的にはどう考えるか?ということですが…。

「復活は本当に起きた」というのが真実であり、かつ、事実です(という立場をとります)。

比喩でも文学表現でもありません。そのまんまの事実として受け止めます。

もちろん、証拠を出せ!と言われると困ってしまうのですが…。

やはり、イエス復活の前と後での弟子たちの心境と行動にあまりに差があることに驚きます。

イエスがエルサレムに入城し、十字架にかけられたあたりは、マグダラのマリアをはじめごく少数の信奉者を除いては、主だった弟子たちはみな逃げ出しました。

一番弟子のペテロでさえ、「イエスなんか知りません」と3度も言っています。

それ以前に「イエスの教えをそもそもキチンと理解できていたかどうかも怪しい…」ということは聖書の記述を読んでも分かりますね。

ところが、「イエス復活後」の使徒たちはどうであるか?というと、

  • 命をおそれぬ宣教活動を始め、また実際に多くが殉教していった
  • 町でも通りでも法廷でも雄弁に説法をした
    *イエスの弟子たちはは元、漁師・徴税人など学のないひとがほとんどであった
  • イエスのごとく、人々の病を癒したり死人を蘇らせる奇跡現象を行った
  • 異言を語れるようになった

…などなど、以前とはまるで別人になっていきます。

もっとも、「奇跡現象」とか「異言」も、たとえ話とか心理療法の一種、などと捉える人も多いでしょうけど、命がけの宣教と雄弁な説法は歴史的事実ですね。

これは、やはり何か使徒たちにとって大きな契機があったのは間違いのないことである、と捉えたほうが自然だと思いますね。

たとえば、「イエスを捨てて逃げてしまった罪の意識。その反作用」とか、その程度では心理的にも説明がむずかしいでしょう。

やはり、

「復活は本当にあった」「復活現象を目の当たりに見て、弟子たちのイエスへの(真理への)確信が一気に深まった」と捉えるほうが自然です。

肉体として復活したのか?

ポイントは実はここのところなんです。

そもそも、キリスト教の復活思想は、「肉体としての復活」という立場をとります。最後の審判で死者が墓から蘇り…という思想もそうですよね、肉体としての復活。

実際のところ、この「肉体としての復活」という思想は、古代エジプトの復活信仰の影響で成立したのだと思います。

いわゆる、「ミイラが蘇る」というやつです。
*この「ミイラ」についてはまた別の機会に考えてみたいと思います。

キリスト教とその母体になったユダヤ教は独特なアイデンティティを持っていますが、

しかし、「一神教」にしても「天地創造」にしても、周辺大国の宗教の影響を受けて成立したのではないか?ということが学問的にも指摘されています

復活思想についても、「復活が神人の証明である」という古代エジプトの思想が流れ込んでいると思います。

エジプトの復活思想についてはまた別途論じる機会もあると思いますが、

今回はイエスの復活がどうであったか?というところですね。

これはですね、キリスト教会の信条に反してしまいますので、いきなり私は信者失格ということになりますが、

「イエスの復活は肉体としての復活ではなかった」というのが真相だと思います。

しかしそうすると、

「では、なぜ、弟子たちと食事をしたり、あるいは、トマスがイエスの傷口を触ったりできたのか?」という疑問が出てきますね。聖書との整合性では。

なので、単純な「霊としての復活であった」とも言い切れないところがあるでしょう。

ここのところはですね、

じつは意外にも、「幽霊の原理」を援用すると理解することができるんです。

幽霊というのは、色々な物語や言い伝え、まあ実際は実体験されている方も多いのですが、ある特定の人に視えたり、物を動かしたり(戸をガタガタさせるとか)しますよね。

寝ているときに幽霊に乗られると「重さ」も感じることでしょう。

「人は死後、肉体を抜け出して霊体になる」と宗教やスピリチュアルでは言われていますし、ネオ仏法でもそのように説明することがあります。

が、これは簡略化した説明の仕方でして、

実際は、「肉体 – 霊体」という二元論ではないのです。

そうではなくて、死後の居場所によって特定の霊的な衣をまとっている、というのが真実に近いです。

そのなかでも、もっとも肉体に近い霊的衣装としてアストラル体というのがあります。

*「アストラル体」は神智学で使われている用語です。ネオ仏法で使うとすると、厳密なところでは意味の差異が出てしまうところもある、ということはご承知願います。

(ネオ仏法的な意味での)アストラル体は、霊的な衣ではありますが、働きとしてはかなり肉体に近いところがあります。

姿形もありますし、内臓もあり、さらに痛みや快楽を感じることもある、というあたりです。

肉体と違うところは、「一般の人には視えない」ということだけです。

話が変わるようですが、じつは「病気の原理」というのもこのアストラル体に関わっています。

つまり、

まず、心(これは霊的本質の部分ですね)がストレスを感じたり歪を生じますと、それが、アストラル体に影響して特定の部位に異変が起きます。

そして、そのアストラル体の異変部分ですね、肉体に該当する部分が現象化して現れてくる、という順序になっています。

なので、よく、「宗教で病気が治る」というのも、上記とは逆のパターンで、

  1. 心(霊的本質の部分)の葛藤が晴れる
  2. それがアストラル体に影響し、異変部分が修復される
  3. 肉体に該当する部位の異変も正常に戻る

という順になっているわけです。

このように、アストラル体というのは、「肉体の現象化」への橋渡しの役割をしているのです。

一般に「幽霊」という場合、純粋な霊体ではなく、霊体の外郭部分にアストラル体をまとっている状態なのですね。

幽霊というのは、要は、「この世に恨み・つらみ・想い残しがある」から出てくるパターンが多いでしょう?

これはつまり、

幽霊の心(霊的本質部分)にあるところのマイナス想念が一定以上に強くなると、アストラル体が活性化して、肉体に近い状態になる、ということなんです。

すべての人に視えるとは限りませんが、ある特定の人には視える程度には「肉体に近くなる」という状態です。

そして、一般にいう「重さ」もあったりします。

「寝ているときに、幽霊に乗っかられた」という体験をしたことのある方は「重さ」も感じられたはずです。

これはやはり、一定レベルで質量化しているということなんですね。

じつは「生霊(いきりょう)」もこれと同じような原理で、

ある特定の人に特定の強い想いを発し続けていると、自分のアストラル体の一部が分離してその対象者のところへ行ってしまう、という仕組みになっています。

ここのところですね、

想念が一定レベル以上の強さになるとアストラル体が活性化され、質量を持つ

というところ。

幽霊の場合は、思わず知らず、そういう状態になっているわけです。化けて出ようという気持ちが先にあるのではなく、まず、恨み・つらみなどの想念があり、その強度で、思わず知らずアストラル体が活性化されてしまう、という順序です。

ところが、イエス・キリストはもちろん真理の体現者でありますから、このような原理は知り尽くしているはずです。

なので、「思わず知らず」ではなくて、「意図的に」アストラル体を活性化させて、半物質として現象化することが出来たわけです。

「幽霊の原理と同じです」というと、キリスト者の方におこられそうですが、上述の通り、イエスは「確信的に行っている」というところが幽霊とはまったく違うのです。

この「確信」というのは、上述したアストラル体の原理ももちろん含まれますが、これ自体は高度な霊存在にとって初歩的なことで、

イエスの「確信的」というのは、さらにそれ以上のものがあります

つまり、

「旧約で予言されていた復活によって、メシアが私(イエス)である」という物語を完遂することであった、ということです。

ここにおいて、イエスは「キリスト」であることを証明したわけです。
*キリストはメシア(=救世主)のギリシャ語読みです

ここのところですね、

旧約との連続性で教えの正統性を担保しつつ、同時に、真の意味での普遍宗教化へのイノベーションを行う

というのが、キリスト・イエスの生涯の筋書きです。

この「旧約との連続性で…云々」というところが別途また問題があるのですが、それはまた別の機会に述べます。

ちなみに、「聖書の記述によると、イエスの死体が消えていたというではないか?」という疑問もあるでしょう。

ここはですね…、

ちょっと言いにくいのですが、どうしましょうかね…。

マグダラのマリアのところに最初にイエスは復活して現れたわけなのですが、

現行の聖書に書かれている以上に、マグダラのマリアはイエスの高弟の位置にいた、ということなんです。

なので、復活の意味というのも、その戦略性も充分に理解されていたわけなんです、マグダラのマリアは。

そうすると、お墓に死体が残っているとうまくない、ということはお分かりですよね。

ここまでにしておきましょう(笑)。

あと、復活といえば、

イエスの復活ではなく、「個人レベルの復活」という観点も検証していく必要があります。

ここのところは、「最後の審判」などにも関わってきますので、そこのトピックで解説させていただきますね。

無料Eブック特典【潜在意識(守護霊)と交流して、 インスピレーションを受ける方法】

私たちは地上に肉体を持って生きている部分だけではなく、潜在意識に自らのグループソウルのメンバーがいます。 それを古来より、”守護霊”と呼んでいます。

この無料プレゼントを読むことによって、潜在意識にアクセスして、守護霊からのインスピレーションを受け取る方法を知ることができます。完全無料ですので、ぜひこの機会に手に入れてくださいね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください