『ふしぎなキリスト教』(橋爪 大三郎 /大澤 真幸 著)という本がけっこう話題になっているので、読んでみました。
「ふしぎなキリスト教」、略して、「ふしキリ」と呼ばれたりしています。
対談というリラックスした形式で、よくこれだけ問題点を整理しつつ説明できているなあ、と感心するとともに、勉強させて頂きました。
この本に対しては、「記述にミスが多すぎる」ということで、『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』という反論本、これはネットの有志が自費出版したものですが、こういう本も出ています。
その後、同じ、橋爪大三郎/大澤真幸 の執筆陣で、『やっぱりふしぎなキリスト教』という続編も出ました。
反論本の『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』については、こちらは読みかけなのですけど、「若干、揚げ足どり気味かな」という印象でした。
つまり、「正確さ」を詰めていけば問題があると言えないこともないけれど、
- 対談というリラックした形式/文体で
- 初心者向けに問題点を整理して解説する
- 読後に、「キリスト教が文明に与えた影響をもっと考えてみたい」と読者に思わせる
という意味では、『ふしキリ』は成功している。逆に、あまりに正確さを求めると、上記の3点が吹き飛ぶだろうな、という印象なのですけどね。
ただそれにしても、「よくこんなことまで知ってるな」というほどキリスト教に詳しい方々が参戦していますので、両著作を比較検討して読むと、すごく勉強になります。
この『ふしぎなキリスト教』の論点をそのまま参考にしつつ、というわけでもないのですが、たしかに、キリスト教とその母体になったユダヤ教には一般的に考えて、すごく不思議な面があります。
今回、トピックで挙げている「復活」は、キリスト教の教理の中では、「イエスの復活によって、神と民の間に新しい契約が結ばれた(新約)」という位置づけでありますので、もっとも重要な思想であると言えるでしょう。
ただ、復活思想は信者でない立場からするとかなり面妖と言いますか、
つまり、「イエスは死後3日で、肉体のまま復活し、40日あまり弟子たちの前に姿を表して説法をし、その後、昇天していった」ということなので、これは、実際は信者であってもどれだけ真面目に信じているのか?けっこう難しいところがあるでしょうね。
今回はこの”復活”について、「ふしぎを、不思議ではないように説明する」という試みをやってみたいと思います。
ちなみに、キリスト教において、そしてイスラームにおいても、”復活”は、終末 – 復活 -最後の審判という一連の流れで理解されておりますが、今回話題にするのは、あくまでも、「十字架刑後のイエス・キリストの復活」についてです。
実際に復活がなければ、その後の使徒たちの行動が説明できない
上述の通り、とくに現代人にとって復活はとうてい信じがたい、というのも無理はないですね。
中立な立場である学者はやはりほとんど、「思想的なものを文学的に、比喩的に表現したもの」と捉えているでしょう。
それでは、ネオ仏法的にはどう考えるか?ということですが、「復活は本当に起きた」というのが真実であり、かつ、事実です(という立場をとります)。
比喩でも文学表現でもありません。そのまんまの事実として受け止めます。もちろん、証拠を出せ!と言われると困ってしまうのですが…。
やはり、イエス復活の前と後での弟子たちの心境と行動にあまりに差があることに驚きます。
イエスがエルサレムに入城し、十字架にかけられたあたりは、マグダラのマリアをはじめごく少数の信奉者を除いては、主だった弟子たちはみな逃げ出しました。
一番弟子のペテロでさえ、「イエスなんか知りません」と3度も言っています。
それ以前に「イエスの教えをそもそもキチンと理解できていたかどうかも怪しい…」ということは聖書の記述を読んでも分かりますね。
ところが、「イエス復活後」の使徒たちはどうであるか?というと、
- 命をおそれぬ宣教活動を始め、また実際に多くが殉教していった
- 町でも通りでも法廷でも雄弁に説法をした
*イエスの弟子たちはは元、漁師・徴税人など学のないひとがほとんどであった - イエスのごとく、人々の病を癒したり死人を蘇らせる奇跡現象を行った
- 異言を語れるようになった
…などなど、以前とはまるで別人になっていきます。
もっとも、「奇跡現象」とか「異言」も、たとえ話とか心理療法の一種、などと捉える人も多いでしょうけど、命がけの宣教と雄弁な説法は歴史的事実ですね。
これは、やはり何か使徒たちにとって大きな契機があったのは間違いのないことである、と捉えたほうが自然だと思いますね。
たとえば、「イエスを捨てて逃げてしまった罪の意識。その反作用」とか、その程度では心理的にも説明がむずかしいでしょう。
やはり、
「復活は本当にあった」「復活現象を目の当たりに見て、弟子たちのイエスへの(真理への)確信が一気に深まった」と捉えるほうが自然です。
肉体としての復活だったのか?
復活思想は、エジプトの宗教の影響
ポイントは実はここのところなのです。
そもそも、キリスト教の復活思想は、「肉体としての復活」という立場をとります。最後の審判で死者が墓から蘇り…という思想もそうですよね、肉体としての復活。
実際のところ、この「肉体としての復活」という思想は、古代エジプトの復活信仰の影響で成立したのだと思います。
いわゆる、「ミイラが蘇る」というやつです。
*この「ミイラ」についてはまた別の機会に考えてみたいと思います。
キリスト教とその母体になったユダヤ教は独特なアイデンティティを持っていますが、
しかし、「一神教」にしても「天地創造」にしても、周辺大国の宗教の影響を受けて成立したのではないか?ということが学問的にも指摘されています。
復活思想についても、「復活(蘇生)が神人の証明である」という古代エジプトの思想が流れ込んでいると思います。
エジプトの復活思想についてはまた別途論じる機会もあると思いますが、今回はイエスの復活がどうであったか?というところですね。
実際は、エーテル体を使った復活であった
これはですね、キリスト教会の使徒信条に反してしまいますので、いきなり私は信者失格ということになりますが、
「イエスの復活は肉体としての復活ではなかった」というのが真相だと思います。
しかしそうすると、
「では、なぜ、弟子たちと食事をしたり、あるいは、トマスがイエスの傷口を触ったりできたのか?」という疑問が出てきますね。聖書との整合性では。
なので、単純な「霊としての復活であった」とも言い切れないところがあるでしょう。
ここのところはですね、
じつは意外にも、「幽霊の原理」を援用すると理解することができるのです。
幽霊というのは、色々な物語や言い伝え、まあ実際は実体験されている方も多いのですが、ある特定の人に視えたり、物を動かしたり(戸をガタガタさせるとか)しますよね。
寝ているときに幽霊に乗られると「重さ」も感じることでしょう。
「人は死後、肉体を抜け出して霊体になる」と宗教やスピリチュアルでは言われていますし、ネオ仏法でもそのように説明することがあります。
が、これは簡略化した説明の仕方でして、実際は、「肉体 – 霊体」という二元論ではないのです。
そうではなくて、死後の居場所によって特定の霊的な衣をまとっている、というのが真実に近いです。
そのなかでも、もっとも肉体に近い霊的衣装としてエーテル体というのがあります。
*「エーテル体」は神智学で使われている用語です。ネオ仏法で使うとすると、厳密なところでは意味の差異が出てしまうところもある、ということはご承知願います。
(ネオ仏法的な意味での)エーテル体は、霊的な衣ではありますが、働きとしてはかなり肉体に近いところがあります。
外形もありますし、内臓もあり、さらに痛みや快楽を感じることもある、というあたりです。肉体と違うところは、「一般の人には視えない」ということだけです。
話が変わるようですが、じつは「病気の原理」というのもこのエーテル体に関わっています。
つまり、
まず、心(これは霊的本質の部分ですね)がストレスを感じたり歪みを生じますと、それが、エーテル体に影響して特定の部位に異変が起きます。
そして、そのエーテル体の異変部分ですね、肉体に該当する部分が現象化して病気となって現れてくる、という順序になっています。
なので、よく、「宗教で病気が治る」というのも、上記とは逆のパターンで、
- 心(霊的本質の部分)の葛藤が晴れる
- それがエーテル体に影響し、異変部分が修復される
- 肉体に該当する部位の異変も正常に戻る
という順になっているわけです。
このように、エーテル体というのは、「肉体の現象化」への橋渡しの役割をしているのです。
一般に「幽霊」という場合、純粋な霊体ではなく、霊体の外郭部分にエーテル体をまとっている状態なのですね。
幽霊というのは、要は、「この世に恨み・つらみ・想い残しがある」から出てくるパターンが多いでしょう?
これはつまり、幽霊の心(霊的本質部分)にあるところのマイナス想念が一定以上に強くなると、エーテル体が活性化して、肉体に近い状態になる、ということなのです。
すべての人に視えるとは限りませんが、ある特定の人には視える程度には「肉体に近くなる」という状態です。
そして、一般にいう「重さ」もあったりします。
「寝ているときに、幽霊に乗っかられた」という体験をしたことのある方は「重さ」も感じられたはずです。
これはやはり、一定レベルで質量化しているということなんですね。
じつは「生霊(いきりょう)」もこれと同じような原理で、ある特定の人に特定の強い想いを発し続けていると、自分のエーテル体の一部が分離してその対象者のところへ行ってしまう、という仕組みになっています。
ここのところですね、
「想念が一定レベル以上の強さになるとエーテル体が活性化され、質量を持つ」
というところ。
幽霊の場合は、思わず知らず、そういう状態になっているわけです。化けて出ようという気持ちが先にあるのではなく、まず、恨み・つらみなどの想念があり、その強度で、思わず知らずエーテル体が活性化されてしまう、という順序です。
ところが、イエス・キリストはもちろん真理の体現者でありますから、このような原理は知り尽くしているはずです。
なので、「思わず知らず」ではなくて、イエスは「意図的に」エーテル体を活性化させて、半物質として現象化することが出来たわけです。これが実際の復活のからくりです。
「幽霊の原理と同じです」というと、キリスト者の方におこられそうですが、上述の通り、イエスは「確信的に行っている」というところが幽霊とはまったく違うのです。
この「確信」というのは、上述したエーテル体の原理ももちろん含まれますが、これ自体は高度な霊存在にとって初歩的なことで、イエスの「確信的」というのは、さらにそれ以上のものがあります。
つまり、「旧約で予言されていた復活によって、メシアが私(イエス)である」という物語を完遂することであった、ということです。
ここにおいて、イエスは「キリスト」であることを証明したわけです。
*キリストはメシア(=救世主)のギリシャ語読みです
ここのところですね、
旧約との連続性で教えの正統性を担保しつつ、同時に、真の意味での普遍宗教化へのイノベーションを行う、というのが、キリスト・イエスの生涯の筋書きです。
ただ、この「旧約との連続性で…云々」というところが別途また問題があるのですが、それはまた別の機会に述べます。
「エーテル体を使った復活」ということについては、直接、証明は出せませんが、聖書の中には「肉体としての復活」とは違ったものを匂わせる記述はいくつかあります。
その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現された。(マルコ16:12)
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカ24:31)
このように生前とは番った姿で現れたり、また、突然消えたりしています。
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(中略)イエスは言われた。「私にすがりつくのはよしなさい(後略)」(ヨハネ20:16-17)
この記述の直前では、マリアはイエスを園庭と間違えて話しかけていたのです。つまり、目の前にいたということです。それが、なぜ「振り向いて」イエスを認めたのでしょうか?
ここでも、違った姿で現れ、瞬間移動するといったふうに、肉体とは違う側面が匂わされています。
また、「私にすがりつくのはやめなさい」というのもなかなか意味深です。
”復活”の本当の意義は”死の克服”、”永生への道”にある
「事実としての復活はどうであったか?」については上記の通りで、かなりスッキリされたのではないかと思います。
それでは次に、「復活したからと言って、それが何なのだ。たしかに奇跡ではあるけど…?」という疑問ですね。「復活の意義」について書いてみたいと思います。
結論から申し上げると、イエスは復活によって、死を克服した。不死、永生への道を万人に示したということです。これが復活の意義です。
イエス個人が事実として復活した、ということだけであれば、信じるとしても、「それはすごいですね!ミラクルですね!」で終わってしまいます。
それだけではなく、「死を克服する見本・手本を見せられた」ということなんです。これによって、復活は万人に可能な真理となります。
もちろん、「エーテル体を使って、疑似肉体を示す」ということは誰にでもできることではありませんし、また、万人がそれをやったら、かなり奇妙な世界が展開することになってしまうでしょう。
そうではなく、「死の克服、永生への確信、という”復活”の中心的意義を万人が経験することができる」というところがポイントなのです。
地上にある人間にとっての、不安・恐怖の根本はやはり、”死ぬこと”にあると思います。
栄耀栄華を極めたとしても、それは死によって無に帰してしまいます。そうした、一切を奪っていく死というものを直視することはなかなか難しいことです。
難しい一方、「死についてどういう態度をとるか?」を決定できないと、人生の意義そのものを掴むこともできなくなってしまいます。
それゆえ、20世紀最大の哲学者と呼ばれるハイデガーも、「不安の根源は死にある。死を直視することによって、人間は本来性を取り戻す」という趣旨のことを述べているわけです。
ところがそれがなかなか難しいので、多くの人は、死から目をそらして何とか誤魔化しごまかし生きていくことになります。
これはハイデガー的に言えば、非本来性の状態です。
しかし、そうした生き方では一時的な麻痺状態を得ることはできますが、根源的な恐れ・不安からは逃れられないですよね。
結局、死によってすべてが奪い去られてしまう、という価値観は、表面で意識していなくても、どこまでもついてまわるからです。
ということは、やはり逆の価値観、つまり、「死によって自分および自分が得たものは決して奪い去られない」という新しい価値観、この世の論理を離れた価値観が要請されてくることになります。
もっとも、”自分が得たもの”には、財産とか車とかいろいろありますが、そうした物質的なものはやはり手放していかなければなりません。
そうではなく、心の価値観や人生で得た経験値のようなもの、ですね。こうした「心に属するもの」は肉体の死を迎えても保存されていくのです。
イエスは「思っているだけで罪になる」と言っていますよね。
この理由は、「心こそが本質的なものであるので、心の内容そのものが罪の判定基準になる」ということなんです。
そしてその心は、肉体の死を迎えても、その後も存続していくのです。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
なので、超かんたんに申し上げると、
肉体の死で「自分は死んだ」と思っていても、あら不思議、で。この「死んだかも」とかいろいろ考えている意識そのものですね、これが”心”というものですが、それは残っているじゃないか!という驚愕です。
自分自身=心の蘇生、それが誰にでも起こりうる復活なのです。
まあそうすると、「復活したけど地獄だった」とか…復活しなきゃ良かったみたいなこともあるわけですけどね。
ただまあ、死後のことはともかく、現象界(この世)にいるうちに永生の確信を得ることができるわけですよね、ここがポイントです。
あとは、改心や真理への目覚めを「復活」と解釈することも可能でしょう。
この世に在りながら永生を先駆けて確信して生ききることができる。イエスは生前の教えと死後の復活によってその手本を自ら示されたということ。万人に可能な福音となったこと。
そして、”最後の審判”が待っているのであれば、「やはりこの世にいるうちに、真理に沿って生きるほうが正解だろうな」という。まあこのように言うとかなり功利的に聞こえてしまいますけども、
しかし、万人に可能な「道徳の基礎づけ」が完成されるわけです。そして、この完成こそまさに”復活の意義”そのものである、ということです。
”罪”とは原義としては「的外れ」という意味です。現象界がすべてという認識が的外れであり、それはすなわち”罪”の状態にあるわけですね。そしてそうした認識で生きている以上、”死”からは逃れられない(ように思えてしまう)。
このことこそが、
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(「ローマの信徒への手紙」 6章23節)
という聖句の本当の意味なのです。
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