ふしぎでないキリスト教-⑤全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?(神義論)(a)

延々と議論されてきた神義論

ふしぎでないキリスト教シリーズの5話目です。

ふしぎでないキリスト教- ①イエス復活の真相を解き明かす
ふしぎでないキリスト教- ②「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の真意を解き明かす
ふしぎでないキリスト教- ③地獄で「永遠の業火に焼かれる」のは本当か?
ふしぎでないキリスト教-④最後の審判は本当に”最後”なのか?

今回のトピック、「全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?」というテーマは、長らくキリスト教史でも論じられてきたところでもありますし、

また、一般の方が「神がいるのであれば、なぜ悪とか戦争がある?だから宗教なんて信じられないんだ!」という論拠にもなっていますよね。

このテーマは、キリスト教的には「神義論(しんぎろん)」と呼ばれています。別名、「弁神論(べんしんろん)」とも言います。

そして、アウグスティヌストマス・アクィナス、近世ではライプニッツなど錚々たる哲学者たちが論じているところでもあります。

ちなみに、私はこの小論で、「神義論の最終回答」を出すつもりでおりますので、興味ある方は最後までお付き合いいただければと思います。

とりあえずは、神義論の代表的な類型を2つ挙げてきます。これは、当サイトでも何度か言及している宗教多元論者、ジョン・ヒックの分類です。

*下記以外にも現代ではいくつかの神義論パターンはありますが、今回は割愛します。

  • アウグスティヌス型神義論:神は世界の創造者であり絶対の善である。悪は人間の原罪と自由意志の乱用によって生じている。いわば、「善の欠如」が悪の正体である。
  • エイレナイオス型神義論:神は悪に対する責任を持つものの悪の存在は人間の発展にとって有益であるために正当化されうる

これらについてコメントする前に、まず私の考えを述べておきますね。

ネオ仏法の神義論

神義論の前提にあるものは、いわば”神の全能性”です。

この前提に立つからこそ、「ではなぜ、”全能”の神が創られた世界に悪があるのか?」という疑問が出てくることになります。これが神義論ですよね。

私はまず、この前提部分をもっと吟味してみたいと思うのです。

「”全能”(あるいは、”全知全能”)とはそもそも何であるか?」

じつはこの点については、過去記事の中ですでに述べております。
*参考記事:「全知全能」とはそもそも何であるか?を吟味する – 超越と実在

要点をまとめてみます。

従来の”全能”という概念は「これ以上はない」というスタティックな(静的な)状態を想定している。

ところが、これでは”発展性”という明らかに神の属性と思われる性質と矛盾することになる。神の全能性に制限をかけることになってしまいます

つまり、スタティックな(静的な)状態は、そもそも神の全能性に齟齬をきたすことになる。

ゆえに、この矛盾を乗り越えていくためには、神の全能性は”ダイナミック(動的な)もの”として把握されなければならない、ということになります。

全体であり一である存在がそこにスタティック(静的)にとどまらずに、全体でありかつ一のままダイナミック(動的)に発展していくイメージです。

”全能”の領域そのものを更新していく存在と言っても良いでしょう。

ところで、全体でありかつ一である存在が発展していく、すなわち”増えていく”にはどうしたら良いのか?

それは、全体でありかつ一である存在の内部に個別的な存在を創り出していくことです。

これが解決策であり、ほんとうの意味での”天地創造”はこのようなものであると思われます。

旧約聖書に描かれている天地創造は文字通りに受け取るのではなく、このような象徴として受け取るべきです。

ここを文字通りに受け取ってしまうと、アウグスティヌスのいう「文字は殺し、」という状態に陥ってしまいます。

なにしろ、旧約冒頭の天地創造は1ページ〜3ページめでいきなり矛盾がありますから。

ここでは詳しく書きませんが、男女を創る順序、植物を創る順序に矛盾した記述が見えます。

なのでやはり、「霊は生かす」方向で解釈していかねばなりません。

さて、では、全体かつ一である存在(神=実在)がその内部に個別的な存在、つまり有限である”現象”を創造すると、いかなる事態が起きるのか?

それは、

それぞれの現象の間に”争い””矛盾”が生じてくるということです。

なぜそうなるかと申しますと、全体かつ一である存在(神=実在)は”意思”を持っておりますので、その内部に創造された存在もやはり”意思”を持っていることになるからです。

*”実在(=神)が意思を持つ”ことについてはまた別の記事に書いてみます。今回は、キリスト教における神義論なので、「”人格神として顕現する神”、すなわち、意思を持つ神」は三位一体の教理的に前提条件として話を進めていきます。

イメージ的なたとえ話をすると、

盥(たらい)の中に水がいっぱいに入っている状態を想像してみてください。次に、逆さまにしたガラスコップをいくつか手に持ったまま盥の中に沈めてみます。

すると、それぞれのガラスコップのなかにも水が入ってきますよね。

ガラスコップAには水Aが、ガラスコップBには水Bが入っているように見えます。

この盥全体の水が、いわば、全体でありかつ一である実在の意思です。仮に”全体意思”、”実在意思”とでも呼ぶべきものです。

対して、ガラスコップA、Bに入っている水は、当然、元は同じ水なので”全体意思”としての性質は共用していますよね。

その証拠に、ガラスコップA、ガラスコップBを盥から引き上げると、おのおのの水はもとの”全体”に還元されていきます。

なので、水Aと水Bは別べつのように見えても、実際は一のなかの各部分に過ぎないわけです。

ガラスコップAの意思、ガラスコップBの意思は、いわば”個別意思”、”現象意思”とでも呼びましょう。

さて、これで、おのおのの現象が”意思”を持つことは分かりました。

ここのところでようやく先の問題に戻ります。

つまり、それぞれの”現象意思”相互に矛盾をきたしてくる、ということです。

というのも、各現象は一応は独立していますので、おのおの特有の環境の中にあります。

なので、「幸福を追求する」という実在意思を共有していたとしても、現象意思Aと現象意思Bの個々の具体的な欲求同士がぶつかってしまうことがあります。

むずかしい話をしているようですが、これは私たち一人ひとりに置き換えてみると、実感として分かるはずです。

つまり、私たちはみな、「幸福を追求する」という意思を共有しています。全体意思を共有しているということですね。

ところが、個別の場面においては、

たとえば、AくんとBさんが「お腹が空いたのに林檎が1個しかない」という場合、AくんとBさんで林檎の取り合いが起きることがあります。

”幸福へ”という実在意思は各々の現象意思としても共通しているのに、時間の経過のなかでは、このような争いや矛盾が生じてくるということです。

これが神義論で言うところの、「神は全能であるのに悪が生じている状態」です。

ここまでの流れを振り返ってみますと、ちょっと矛盾した言い方になりますが、

全能性を維持するための必要悪が”悪”

という結論になります。

そういうわけで、トマス・アクィナスの次の言葉、

「もし悪が存在するのであれば、神は存在する」
(トマス・アクィナス『対異教徒大全』第3巻第71章)

という考察も裏書きされることになります。

長くなりますので、今回のトピックは2回に分けます。

次回は、善と悪の構造を分析して、さらに”悪”の正体を明らかにしていきます。

続き→→ふしぎでないキリスト教-⑤全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?(神義論)(b)

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