ふしぎでないキリスト教-⑧救いは信仰によるか?行為によるか?

信仰のみ

信仰義認論と行為義認論

ふしぎでないキリスト教シリーズの8話目です。

キリスト教では、「救いは行為によるのではなく、信仰による」という理解の仕方があります。

こうした「信仰による救い」を神学用語では”信仰義認論”と言います。

一方、「行為による救い」を”行為義認論”と言います。

とくにプロテスタントでは、「信仰のみ」を強調します。

宗教改革者マルティン・ルターの主張ですね。

もっとも、ルターの思想の原点は、「パウロの再発見」にありますので、元をたどれば、これはパウロ神学にあると言えるでしょう。

ところが、パウロには下記の言葉があります。

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の生命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。(ローマの信徒への手紙2:6-8)
*太字は高田

この聖句によると、「信仰のみ」ではなく、「行い」が求められていますので、ここでは、行為義認論を説いているように感じられます。

聖書というのは、通して読んでみると、ひとつのテーマについても様々な記述をしています。

なので、ある意見をたて、それについて該当の聖句を引用しておくと、なんとなく「それらしく」主張を裏付けることができます

ところが、それとは逆の意見をたてて、べつの聖句から根拠付けることも可能なのです。

上記はその一例ですね。パウロは「行為による救いを説いていた」という主張をして上記の聖句を挙げておけば、一応は整合性がとれる寸法になっています。

一方、ルターに関しては、彼の主張である「信仰のみ」を徹底させるため、聖書をドイツ語に翻訳する際に、原文にない文言を補っていたりします

ローマの信徒への手紙の第3章28節では、

人が義とされるのは(中略)信仰による
*太字は高田

と書かれています(新共同訳)。

ルター訳ではここのところが、

人が義とされるのは(中略)信仰のみによる
*太字は高田

というふうに、「のみ」の文言が付加されています。

これはもちろん、ルターの主張であるところの「救いは信仰のみによる」という文脈の強化で、原文にはない文言を追加しているわけですね。

これは、当時のローマ・カトリック教会からの反撃の焦点になったところでもあります。

信仰は行為の一部

私の考えを先に書いておきます。

信仰と行為というのは、そんなにハッキリと分けられるものだとは思いません

「思い」というのも広い意味で「行為」の一部です。

あるいは、「行為のエッセンシャル(本質的)な部分が信仰である」とも言えるでしょう。

なので、パウロ神学に関して、「信仰か、行為か」という二者択一の議論そのものが不毛であるように思われます。

パウロが、「救いは行為によるのではない」という主張をする場合、たいていは、ユダヤの律法の遵守と関連付けられていることに注意すべきだと思います。

上に挙げたローマの信徒への手紙の第3章28節でも、(中略)部分を復元して引用してみると、

人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく信仰による
*下線と太字は高田

となっております。

つまり、パウロとしては、(イエスがそうであったように)、律法でがちがちに縛られていた当時のユダヤ教への違和感がまず、あったのでしょう。

そして、律法を守りきれない人々は社会から阻害され、差別を受けていました。

一方、そもそも「思いまで厳密に含めれば、律法を守りきれるのか?」という厳しい観点からは、

人間は律法を完全に全うできるほど強くはないし、にも関わらず、形式的に律法を守ることにより、傲慢な人間ができあがってしまうことへの懸念、ですね。

この傲慢さがむしろ、人を神から遠ざけていると。パウロは自身の経験にも照らし合わせて、そのように考えたのだと思います。

なので、パウロが「行為による救い」を否定する場面は、「形式的に律法を遵守して救われた気になっている人間の傲慢さ、

その傲慢さが結局、自己を神から遠ざけてしまう逆説」というコンテクストにおいて主張されていることに注目すべきでしょう。

そもそも、パウロが「行為」を軽視しているのであれば、大量の手紙を各教会に送る必要はないわけです。

各教会における信徒たちのふるまいに警告を発するために、パウロの書簡は書かれていますからね。

なので、パウロの信仰義認論というのは、行為を除外もしくは軽視しているのではなく、むしろ、「キリスト・イエスへの信仰を前提とした行為」「行為を含めたところの信仰」について語っていると捉えるべきだと思います。

一言でいえば、

 信仰の具体的展開が行為

というふうに理解すれば良いと思います。

「信仰か、行為か」という、「あれか、これか」という議論そのものが不毛で、

まあここで、仏教的な「中道」という言葉を出して良いかどうか分かりませんが、結果的にはそういうことです。

続き→→(執筆中)。

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