”聖霊”をググると、
キリストを信じて洗礼を受けた人に宿る、神聖な魂。創造主である神の意志を示し、精神活動を起こさせるもので、三位(さんみ)の一つ。(Oxford Languagesの定義))
と定義されています。
三位の一つ、と書かれていますので、あの有名な三位一体論ですよね、聖霊を理解するためには、三位一体論を理解することが必須科目になりそうですが、
三位一体についてはいろいろ考察していかなければならないところがございますので、今回は、「聖霊とは、創造主である神の意志を示し、精神活動を起こさせるもの」という簡潔な定義から出発していくことにします。
*参考記事:三位一体は間違い?キリスト教の神は人格神ではない!?
いかにして私たちは神を愛することができるか?
さて、話はいったん聖霊とは別の方へ行きます。
キリスト・イエスは、
- こころを尽くし、念いを尽くし、精神を尽くして主なる神を愛する
- 隣人を愛する
この掟に、すべての律法と預言者がかかっている、とおっしゃっています。
*「律法と預言者」というのは、ユダヤの教えそのものです。
順序としては、1番目の「神への愛」が前提になっていまして、そのつぎに(実践徳目として)隣人に善をほどこす、という愛の実践がつづいくてくることにります。
隣人愛の前提に、神への愛がおかれています。
それでは前提となっているところの「神への愛」はいかにして可能となるか?あるいはすでに可能な人にとっても、「こころを尽くし…」ということですので、「どれだけ尽くせるか?」という程度の差が当然、出てきます。
問題は、「いかにして、心を尽くすほど神を愛することができるか?」というところです、これがいつもベースとなる問いかけとしてついてまわることになります。
そして、目に見えない神を愛する、というのはけっこうな難易度ですよね。
それで、少し視点を変えて、
人間関係において、相手を愛する際に難易度が下がるときというのは、どういう時か?を考えてみましょう。
それは、単純に言って、「相手が自分を愛してくれることが実感できる」というときではないでしょうか?
これが実感できるのであれば「こんなに自分を愛してくれているんだな、ありがたい、嬉しい」ということで、こちらからも、相手を愛するということはわりと容易なわざになりますよね。
なので、神への愛においても同様です。
私たちが個の実存として、「たしかに、神に愛されている」という実感を得ることができれば、比較的容易に、自然に湧き上がってくる感情として、「神への愛」はたちあらわれてくるはずです。
ここまで考えてみて、はじめて冒頭の聖霊論に戻っていくことができます。
聖霊というのは、要するに、実在の神が人間に何らかのはたらきかけをするさま、を言うわけですよね。
そして神が愛の神であるならば、その働きかけは、愛の働きかけであるはずです。
そうすると、「神への愛・隣人愛はいかにしてなしうるか」という問いに対して、いちばん簡潔な流れは以下のようでありそうです。
つまり、
- 聖霊を受けることができれば、神の愛を実感することができる
- 神の愛を実感できれば、神を愛することは容易である
- 神を愛することができれば、同じく神の愛のもとにいる隣人も愛することができる
というふうに、スッキリ繋がってきますよね。
「聖霊を受けること」が最大の幸福論
今回の聖霊論は、教理的にどう、というよりも、むしろ根源的な「幸福論」として書いています。
じつは、私たちが幸福感の欠如を感じる時、逆に言えば、不幸感のまっただなかにいる時に、幸福へ回帰するためにいちばん効果的な方向がまさに「聖霊を受けること」であるのです。
そして、聖霊を受けるために特別なこと、たとえば特定の宗派に入信するとか、洗礼を受けるとか、教義を勉強するとか、そういうことはさして問題になることではないのです。
少なくとも、ネオ仏法ではそう考えています。
むしろ、「自分は〇〇という宗派に属している」という形式的な信仰観や、「神学をすごく勉強している」という知的プライドが、聖霊を受けることを妨げているケースのほうが多いかもしれません。
聖霊を受けるためには、シンプルに、「聖書・福音書のキリストの言葉に触れて、その圧倒的な愛を感じ取り、受け入れる」だけで十分。それ以外のことはむしろまったく不要、もしくは二次的なものだと言い切ってよろしいかと思います。
そのことは、聖書にも、
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(「マタイによる福音書」6章3節)
と書かれています。
つまり、聖霊を受けるためには、赤子が母親を求めるように、「ひたすらに神を求める」という手順で良いのです。
より正確に申し上げると、「私たちが求めるから、神は愛を注いでくださる」ではなくて、神の愛(私たちへの愛の働きかけ、まさしく”聖霊”です)は常に、私たちに注がれています。
ただ、私たちの”自我意識”が神の愛を遮ることが多々ある、というだけのことです。
それはたとえれば、太陽の光は常に燦々と降り注いでいるけれども、雲が光を遮ってしまうのと同じことです。
雲(自我意識)を取り去り、素直な心に立ち返れば、太陽の光(神の愛、聖霊)を浴びることがいつでもできます。
プロテスタンティズムにおける「信仰のみ」とは本来、このことを言うのだと思います。
自我意識を払拭することは、大いなる存在の前での小さな自分を自覚することでもあります。
パウロの言う、
なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(「コリント人への第2の手紙」12章10節)
とは、そういうことです。
しかし、自我意識はこの世に生きている限り、必要悪として常に経ち現れてきます。
それゆえに、「日々、新しくある、新生する」ということが大事なのですね。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(「コリント人への第2の手紙」5章17節)
そして、「キリストのうちにある」ためには、ひたすらに「求める」ことだと思います。
エロースというのは、キリスト教の文脈ではあまり良い意味で使われていませんが、エロースは隣人(人間)に向けるのではなく、神に向けるものだと思います。
そして、神へのエロース(=求める愛)により、神の愛に対してオープンになる。太陽の光を遮る雲(自我意識)を払拭し、神の愛を素直に受ける。
これが「聖霊を受ける」ということです。
そして、「受けた聖霊」を素直に他者(隣人)にバトンしていくこと、いわば「アガペーへの転化」です。この順序が肝要なのではないかと思われます。
「エロースからアガペーへ」については、下記の記事で詳しく考察しています。参考になさってください。
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