四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方

四諦 わかりやすく

今回は、仏教の基本教説のひとつである四諦八正道(したいはっしょうどう)をなるべく分かりやすく解説する試みをやってみたいと思います。

「仏教書を読んでも、四諦八正道がどうも分かりにくい…」と思われる方が多いかと思います。

それもそのはずで、多くの解説は(インターネットの記事を含めて)、四諦なら4項目を並べて(八正道なら8項目を並べて)解説しているだけで、それぞれがどう繋がっているか?の論理的説明が足りないように思えるのですね。

また、のちほど、チェックしていきますが、「苦しみを脱した状態とはどのようなものであるか?」ということについて、解説している人自身がきちんと理解できていないパターンが多いのです。

理解できていない

四諦八正道は、学問的・教学的にのみ整理してもなかなか分からない全体の構造になっているのです。

ある程度の霊的洞察力と合理的な解釈力、すなわち、神秘主義と合理主義をほどよくブレンドした解釈力が必要であるのです。

前置きはこのくらいにして早速、解説に入ってまいりましょう。

目次

四諦(したい)とは?

四諦は、別名、四聖諦(ししょうたい)とも言います。「諦」はサンスクリット語の「サティヤ」の音写で、「真理」という意味です。

つまり、四諦=四つの真理ということですね。

四諦の4つの項目はそれぞれ、苦・集・滅・道(く・しゅう・めつ・どう)です。

ここでいきなり解説に入らずに、この4項目の論理構造を超訳的に見ていきましょう。そうすると、分かりやすくなります。

四諦のかんたん論理構造

苦集滅道のそれぞれについて、超かんたん解説をしておきますので、解説の部分をつなげて読んでみて下さい。

  1. 苦:人生は苦しみですよね?
  2. 集:苦しみの原因は執着なのです
  3. 滅:執着をなくせば、苦しみから脱することができますよ
  4. 道:その執着をなくす方法が、八正道なのです

といった塩梅(あんばい)です。

この4つは、実は、

結果→原因、結果→原因

という順番になっています。

より正確に言えば、

苦の結果→苦の原因、楽の結果→楽の原因

という構造です。

*話をわかりやすくするために、「苦から脱した状態」を”楽”と呼んでいます

もう一度、四諦の解説を眺めてみて下さい。

  1. 苦:人生は苦しみですよね?(苦の結果)
  2. 集:苦しみの原因は執着なのです(苦の原因)
  3. 滅:執着をなくせば、苦しみから脱することができますよ(楽の結果)
  4. 道:その執着をなくす方法が、八正道なのです(楽の原因)

すごく論理的でしょう?

卑近な例で言えば、下記と同じ構造です。

  1. 苦:空き缶が散らかっていますよね?(苦の結果)
  2. 集:散らかす人がいるせいです(苦の原因)
  3. 滅:空き缶を片付ければキレイになります(楽の結果)
  4. 道:片付ける方法がコレなのです(楽の原因)

空き缶

骨太でかんたんな論理構造になっていますよね。これなら分かりやすいでしょう?

四諦(苦集滅道)を具体的に理解する

さて今度は、上記の「超訳」よりも、もう少し正確に四諦(苦集滅道)を整理してみましょう。

ちなみに、苦集滅道の読み方は、「くしゅうめつどう」「くじゅうめつどう」どちらでも良いと思います。

どちらでも、リズムがよいほうを選んで、「くしゅうめつどう(くじゅうめつどう)!」と唱えて、一気に覚えてしまいましょう。

  1. 苦:人生は苦しみです。実際に、四苦八苦(しくはっく)からは逃れることができないでしょう?
  2. 集:苦しみの原因は、肉体我(にくたいわれ)の観点から人生を眺めている(=執着)ことにあるのです。
    *”集”は、「原因を集める」→「原因をつきとめる」こと
  3. 滅:そうであるならば、仏陀の法(教え)中心に人生の諸相を眺めていけば、生きながらにして、平安な境地(涅槃の境地)に入ることができるのではありませんか?
  4. 道:そのための方法論として八正道があるのです。八正道で日々自らを振り返り、点検してみましょう。

これで、四諦の8割は正確に理解できたことになります。やはり、結果→原因、結果→原因、という順序になっていますよね。

つまり、四諦の構造そのものが”縁起”になっているわけです。このように論理的に四諦の構造を把握することがまずは大事です。

それでは、四諦(苦集滅道)のそれぞれを具体的にチェックして、さらに理解を深めていきましょう。

苦(苦諦)

四諦の出発点は”苦”です。文字通り、「苦しみ」ということです。”苦諦(くたい)”とも言います。

”諦”は「真理」という意味でしたね。なので、”苦諦”は「人生は苦しみであるという真理」という意味になります。

四諦の出発点から、いきなり重い事実を突きつけられています。

生老病死

しかし、ここに仏陀・釈尊の、現実的思考を見て取ることができます。

仏教はもちろん、宗教でありますので、神秘的な要素はありますが、それと同時に、現実的・合理的な要素もあります。神秘性と合理性が両立しているのが仏教なのです。

”苦”の内容を整理してみましょう。有名な「四苦八苦(しくはっく)」です。

  • 四苦:生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)
  • 八苦:上記の4つにプラスして、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)、を加えたもの

いかに成功した人であっても、生老病死の苦しみから逃れることはできません。

ちなみに、「生」は「生まれる苦しみ」です。自由な実在界(霊的世界)から、不自由な現象界(地上世界)に生まれてくる苦しみです。

これがあらゆる”苦”の出発点になっているので、最初に置かれているわけです。

そのそも、釈尊が王子ゴータマ・シッダールタの時代に「悟りを求めよう!」と決意したのは、この「生老病死」の克服にあったのでした。

宮殿の4つの門を出てみると、それぞれ、老人に出会う、病人に出会う、死人に出会う、最後に修行者に出会う…というエピソードがありましたね。

四門出遊(しもんしゅつゆう)と呼ばれるエピソードです。

四門出遊

四門出遊をそのまま事実と受け取る必要はないと思いますが、象徴的にはこの通りにゴータマ・シッダールタは受け取り、悩まれたと解釈して良いでしょう。

そう、悟りの出発点は、まずは、虚心坦懐に、「生老病死」を見つめることから始まるのです。

たいていの人はここのところを「見て見ぬ振り」して日々を過ごしています。

実存主義哲学の祖とされるセーレン・キルケゴールは主著『死に至る病』で、この状態を、「絶望していることにすら気づいていない絶望」ということで、もっとも下位に位置づけました。

死にいたる病

ゆえに、今、この記事を読んでいるような人は、それだけでも優れた魂である、ということになります。死を直視し、本来の自己を取り戻そうとする勇気があるからです。

さて、残りの八苦です。

  1. 愛別離苦:愛する人と別れる苦しみ
  2. 怨憎会苦:嫌な人と会う苦しみ
  3. 求不得苦:求めても得られない苦しみ
  4. 五蘊盛苦:肉体煩悩が燃え盛る苦しみ

の4つです。

この4つからもなかなか逃れることはできませんよね。ひとつひとつ、振り返ってみると、身にしみて分かってきます。

*五蘊盛苦については、「要するに五蘊が苦しみである」という解釈もありますが、今回は採用しません

集(集諦)

二番目は”集”です。”集諦(じったい)”とも言います。

「集める」という字を書きますが、なにを集めるかと言うと、「”苦”の原因を集める」のです。

要は、「苦しみには原因がある」ということです。

一般的な解説では、この原因を「執着にある」としています。

もちろん、これで正解なのですが、じつは四諦八正道が分かりにくくなっているのが、まさにこの”執着”であるのです。

「執着とはそもそも何であるか?」が(日常的な言葉であるがゆえにかえって)分かりづらいのです。

そのせいで、「八正道で執着をとりましょう!」という段階になっても、心のどこかで、「まあ、たしかに、執着(執われ)から離れれば楽になるのかもしれないけど…なにか今ひとつ”後ろ向き”というか、インパクトがないかなあ…」と思ってしまいます。

そこで、「執着とはそもそも何であるか?」ということについて考えてみます。

結論から言えば、執着している状態というのは、”肉体我(にくたいわれ)”、もっと一般的な言葉で言えば、”自我”を中心に発想をしている状態のことなのです。

ところが、”自我”つまり「ワタクシ」「ジブン」ですね、”ワタクシ”というのは、けっこうフラフラしているものですから、それに振り回されてしまう、だから苦しみになってしまうのです。

最近よく言われる”自分軸”の生き方が意外に難易度が高いのも、そのせいです。

”自分”そのものが不確かなので、それを軸にしても決して安定しないのですね。

*参考記事:”自分軸”で生きるのは難しい – 真理スピリチュアルが提唱する”絶対軸”とは?

なので、「ワタクシ中心の発想をいっそやめて、(仏教で言えば)”法(教え)”中心の発想にしましょうよ」というのが、釈尊の真意なのです。

ここのところ、”太陽系”をイメージすると、とても理解しやすいです。”天動説”と”地動説”の2つがありましたよね。

  • 天動説(プトレマイオス型発想);自我を中心に生活が廻っている状態→不安定…
  • 地動説(コペルニクス型発想):法(教え)中心に生活を廻している状態→安定!

というイメージの仕方です。

太陽系

仏陀の法(教え)は、地域や時代を超えて不変のものですから、それを中心軸にするに足るのですね。だから、感情も安定するのです。

滅(滅諦)

三番目は”滅”です。”滅諦(めったい)”とも言います。

自我中心の価値観から法(教え)中心の価値観へ移行した際の幸福感を表しています。

これを仏教用語で、”涅槃(ねはん)”と呼んでいます。

涅槃は、サンスクリット語で”ニルヴァーナ”(パーリ語で”ニッパーナ”)と言いますが、これはもともとは、「煩悩の火を吹き消した状態」を指します。

肉体的自我から脱した状態、という意味です。

さて、実はこの”滅”のところが、いちばん解釈が難しいところであり、かつ、誤解を生んでいるところでもあります。

ここの探求が不十分だと、”苦諦”、苦しみですね、ここから脱却することは難しいものになってしまいます。

実際は、自我中心の発想から、法中心の発想へコペルニクス的転回をするとどうなるか?ですね。

法中心の発想というのは、じつはもっと踏み込んで、”霊的我(れいてきわれ)”のところまで読み込んでいく必要があるのです。

つまり、地上世界(現象界)を超えた霊的世界(実在界)の価値観でもって、いまの人生を眺め直す作業です。

ここのところを本当に理解するためには、「人生の意味とミッションとはなにか?」「何のために地上に生まれてきているのか?」を、より俯瞰した立場で眺める必要があります。

ほんとうの意味で、「抽象度を上げる」モノの見方です。

これを語っていると、すごく長くなってしまいますので、下記の記事を参照されることをお勧めいたします。

*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします

要約して申し上げると、

人間の本質は”実存エネルギー”なのです。あなたであれば、「あなたという個性をもったエネルギー」であるということです。

そしてその”実存エネルギー”は、肉体の死後も存続していきます。

*ここで、「仏教は死後の生命や霊魂の存在は否定しているのでは?」と思われた方は、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:仏教は霊魂を否定していない – 無我説解釈の誤りを正す

そして、もうひとつ、「エネルギーは一定の波動を発している」という法則があります。

そして、波動が似通った者同士が霊界において、一定の”世界”を形作っているのですね。

ところが地上に生まれてくると、肉体がありますし、ご飯も食べなくてはなりませんので、「波動の違う人と会う」ことができます。

それで、霊界では得られない学びを地上世界で得ることができる、という寸法になっているのです。

そういうわけで、怨憎会苦=嫌な人と会う苦しみ、も出てくることになるのですけどね。

ただ、それはそれで学びになりますし、逆に、霊界では波動が高すぎて会うことができないような人とも地上では会うことができます。これはじつに貴重な機会です。

…このように考えてみますと、冒頭の”苦”、”苦諦”というものが、まるで違った風景として視えてくることに気づきます。

つまり、「実存エネルギーは肉体の死後も存続する」という真理から言えば、すでに、「生老病死」のポイントであところの”死”を乗り越えることができてしまっているのです。

こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。(『スッタニパータ』より)*太字は高田

スッタニパータ

つまり、”滅”あるいは”涅槃”というのは、キリスト教的に言えば、「永生への確信」なのです。

”霊的我”が本当の自分であるならば、「老病死」というのも、いわば、着ぐるみ(=肉体)の部分にほつれが出て、破れていくようなものです。

また、この考え方により、四苦八苦全体を「学びの材料」と捉え直すことができます。

この世に生まれてくるからこそ、さまざまな経験値を重ねていくことができるからです。

当サイト(ネオ仏法)で言うところの、”真理スピリチュアル的人生観”で、この世、現象界の意味合いを知り尽くして生きることができれば、心境としては、実在界にいるのと同じような平静・明朗な気持ちで人生を生ききることができる。

この世で生きているのは、いわばRPGゲームをしているようなものなのです。

ゲームの中で、「病気になった」「嫌な人と合った」ということがあっても、それは経験値を上げるためで、本当のあなた自身はゲーム機を握っているあなたでありますよね?

「愛する人と分かれる苦しみ」も、霊界に戻ってくれば、ふたたび会うことができます。

RPGゲーム

こうした「俯瞰した余裕の心境」が”滅”の状態であり、かつ、真実の「涅槃(ねはん)」の意味です。

仏教書を何冊読んでもここのところがよく分かりませんが、この説明でスッキリと論理が通ってくると思います。

道(道諦)=八正道

そして、四番目が”道”ですね。”道諦”とも言います。

道は、「中道」であり、その内容が「八正道(はっしょうどう)」です。

八正道とは、

  1. 正見(しょうけん):正しい見解
  2. 正思(しょうし):正しい思惟・思考
  3. 正語(しょうご):正しい言葉
  4. 正業(しょうごう):正しい行為
  5. 正命(しょうみょう):正しい生活
  6. 正精進(しょうしょうじん):正しい努力
  7. 正念(しょうねん):正しい念(おも)い
  8. 正定(しょうじょう):正しい禅定
  9. の八つです。

八正道は、”苦”を智慧に変換していくための瞑想の方法論ということになります。

この八つがまた実に論理的な構造になっておりますが、八正道についてはまた項を改めて書いてみますね。

*参考記事:八正道の意味と覚え方のコツ

また、八正道の「正しい」ってそもそも何?と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。ぜひ、下記の記事を参考になさってください。

*参考記事:八正道 – 正しいとはそもそも何であるか?- 倫理の基礎づけとしての仏法

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