龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の八不中道で「空」を理解するー②

八不中道

八不中道(はっぷちゅうどう)の種類

龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の八不中道で「空」を理解するー①」の続きです。

直接、龍樹(りゅうじゅ)の言葉を引用してみますね。

滅することなく生ずることなく(不生不滅)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。(『中論頒』帰敬偈)

*引用は、『龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) 』石飛道子著 P54より

不生不滅(ふしょうふめつ)、不断不常(ふだんふじょう)、不一不異(ふいつふい)、不来不去(ふらいふこ)、と八つの項目を否定して「中なる道」(=弁証法)を行くので、八不中道(はっぷちゅうどう)と言うのですね。

空(くう)を整理してみる

難しいようですが、前回の龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の八不中道で「空」を理解するー①」の「有無の中道」が理解できていれば、もう、空(くう)の理解はすぐそこです。

もう一度、整理してみましょう。

空は全体としては有る。が、全体の内部は時々刻々と変化しているということ。

そして、「全体」とはすなわち、宗教的に言えば、一者としての根本仏(根本神)であり、真理(究極のイデア)そのものである、ということです。

仏教的には”三千世界”と言いますが、文字通りの「全体」です。

一切は、その「全体」の内部にあるということ。

その、「全体=一者=真理」が内部矛盾を包含しながら、さまざまに変転変化をしている。

そして、変転変化の過程で、真理自体が生成発展していく、ということです。

その内部矛盾→生成発展の原理・構造が「弁証法」ということです。
*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい

また、弁証法は仏教的には「中道と言い換えることもできる。

八不中道から「空」を点検する

不生不滅(ふしょうふめつ)

一者は「在りて有るもの」(「出エジプト記」)であるから、最初から在る(有る)し、これからも有る(在る)。

ゆえに、新たに生じることもなければ、滅することもない、ということになります。

不断不常(ふだんふじょう)

一者は、その内部において、常に変転変化していく。

「変化」が持続しているだけなので、「断じる」わけではない。かといって、同じ状態がずっと続くことはないで、「常なる」わけでもない。

断ずるということでもなく、常なるものでもない。

不一不異(ふいつふい)

一者は、一者自体が変化の過程にあるので、同一の有り様をしているわけではない。

”一”の内部では互いに「異なる」”多”があるので、「一である」と断ずることも出来ない、一方、”異なる多”はあくまで現象に過ぎず、総体としての”一”こそが実体である。ゆえに、「異なる」と断ずることも出来ない。

ゆえに、一とも言えず、それでいて、異なるとも言えない。

不来不去(ふらいふこ)

一者は、全体であるがゆえに「時間」をも包含している。しかして、「存在が変化しながら持続している」のが時間の正体である。

ゆえに、なにか(新しいものが)来ることもなければ、それが去るということでもない。

このように、四つの二重否定(計、八つ)によって、より高次の”本質”を抽出→総合して、究極のイデア=真理を浮かび上がらせていくわけです。

なぜ、否定論法を使うかというと、肯定論法では、「〜である」と静的なものになってしまって、「余りがない、スペースがない」ということになってしまい、それは究極の真理(一者)に限定を与えることになるからです。

否定論法であれば、「〜ではない」ということで、「〜ではないが、〇〇の可能性はある」ということで、スペースができますよね。

その”スペース”をつねに担保することによって、究極の真理(一者)に無限性および動的なダイナミクスを付与しているわけです。

このダイナミクスこそが空を理解するポイントなんです。

お分かりでしょうか?

……どうしたって難しいですよね。

ただ、難しくはあるけれども、知的に把握してゆくことは可能です。

これをさらに、どれだけ実践と瞑想のなかで腑に落とせるか。それが「悟り」なんです。

三学を思い出してみましょう。戒・定・慧(かい・じょう・え)の順番でしたね。
*参考記事:「スピリチュアルで専門用語を使う意外な効用

  • 戒→実践
  • 定→瞑想
  • 慧→智慧

です。智慧を獲得するために、戒があり、定があるわけですね。

そして、

智慧というのは、結局、究極のイデアである”真理”を把握すること、すなわち、空(くう)を知性・理性・悟性・感性を総動員して理解していくこと

というふうにネオ仏法では解釈しています。

この悟りこそが、『般若心経』などで説かれている「般若の智慧」なのです。

真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。
(『精神現象学』ヘーゲル)