龍樹(ナーガールジュナ)とは?
龍樹(りゅうじゅ)は「龍樹菩薩」とも呼ばれますが、実在の人物です。2−3世紀のインドの学問僧ですね。 元のサンスクリット語読みでは、「ナーガールジュナ」と呼ばれます。
釈尊没後、「無我」の思想が、「我が無いのだから魂もない」という無霊魂説に流れていったので、それに対するアンチテーゼとして、大乗仏教では、より本質的な「空(くう)」の思想を主軸に置くことにしたわけです。
*参考記事:無常・苦・無我(三相)とは?仏教学通説の誤りを正す
この空の思想を理論的に体系化したのが龍樹ということになります。
まあ、学問的なことをつつくのが当サイトの趣旨ではありませんので、例によって、私の直感で書き進めていきますね。
釈尊の「有無の中道」
カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における集起(じゅうき)を見るものには、世間において「無いこと」はない。
カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅(めつ)を見るものには、世間において「有ること」はない。 (『サンユッタ・ニッカーヤ』12・15)
この引用文は、釈尊の言葉として仏典に残っているものです。一般に、「有無の中道」(うむのちゅうどう)と呼ばれています。
中道は弁証法として理解すれば分かりやすい、とお話したことがありますね。
*参考記事:”苦楽中道 ”の意味を分かりやすく説明するー ミクロとマクロの悟りへ
例えば、手のひらに氷が乗っているところを想像してみてください。
「氷はあるのか?無いのか?」つまり、「有か?無か?」という問いになります
氷になっていくためには、「水を冷やした(冷やされた)」という原因があるわけですよね。
そういった原因によって、「氷」という結果が今、手のひらの上にある。という意味では、「無い」とはいえないわけです。
これが、引用文の1段落目の、
「集起(じゅうき)を見るものには、世間において「無いこと」はない。
の意味です。
*集起=原因によって起こるもの。縁起の理法(原因・結果の法則)と考えればいいです。
でも。
手のひらの上の氷はいずれ溶けて水になっていきます。さらには、水蒸気にもなっていきますね。
というか、厳密に言えば、今この瞬間にも水へと変化していっています。
そういう、変化という視点でみれば、「有る」とも言えない、ということになります。
これが、引用文の2段落目の、
世間における滅(めつ)を見るものには、世間において「有ること」はない。
の意味です。
*滅、は滅っしていくいうことで、「変化」と捉えればいいです。
このように、氷は個々の瞬間としては「無い」とは言えず、個々の変化という視点では「有る」とも言えないわけです。
「無い」というわけでもなく、「有る」というわけでもない。
二重否定ですね。
これはまさに弁証法のやり方そのものですね。
テーゼとアンチテーゼの両者を否定する。
否定するが、本質を保存して、両者が両立するように総合する→次元上昇する。
*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい
それでは、「有る」と「無い」の二重否定の結果、現れてくる総合(ジンテーゼ=中道)とは……?
「全体としては有る。が、全体の内部は時々刻々と変化している」
変化する実体(ジンテーゼ)
↑
有る(テーゼ)⇔ 無い(アンチテーゼ)
手のひらの上の氷は、水に変化したり、水蒸気に変化しても、全体のエネルギー値は変わりませんね。
まさに、エネルギー保存の法則です。
ここで、私がfacebookの「好きな言葉」に載せている、じつに色気のない言葉を引用してみます。
真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。(『精神現象学』ヘーゲル)
全体のみが真理であるということ。実体であるということ。
宗教的に言えば、「根本仏(唯一神)」であるということ。
私たちも、自然も、物質も、……あらゆる存在は、全体の内部にあるということ。
ゆえに、<根本仏(唯一神)、一なるもの、実体>は、私たちを離れた超越者ではなく、私たちを含むところの”全体”であるということ。
*しかし、私たち<個々の現象、多なるもの、無常かつ無我なるもの>からすれば、上記の<一なるもの>は超越者に視えるわけです。
つまり、「空」の全体像こそが<実体>(=本当に存在するもの)であり、この実体が宗教で言うところの「根本仏(唯一神)」であるということです。
以上が、「八不中道」解説の前提としての、ネオ仏法的「空理解」の骨格です。
八不中道(はっぷちゅうどう)の種類
直接、龍樹(りゅうじゅ)の言葉を引用してみましょう。
滅することなく生ずることなく(不生不滅)、(死後)断滅することなく永遠ではなく(不断不常)、同じではなく異なることなく(不一不異)、来るのでもなく去るのでもなく(不来不去)、戯論が寂滅する、吉祥なる、縁起を説いた正覚者(ブッダ)に対し、最高の説法者として、わたしは敬礼する。(『中論頒』帰敬偈)
*引用は、『龍樹―あるように見えても「空」という (構築された仏教思想) 』石飛道子著 P54より
不生不滅(ふしょうふめつ)、不断不常(ふだんふじょう)、不一不異(ふいつふい)、不来不去(ふらいふこ)、と八つの項目を否定して「中なる道」(=弁証法)を行くので、八不中道(はっぷちゅうどう)と言うのですね。
空(くう)を整理してみる
難しいようですが、上述したの「有無の中道」が理解できていれば、もう、空(くう)の理解はすぐそこです。
もう一度、整理してみましょう。
空は「全体としては有る。が、全体の内部は時々刻々と変化している」ということ。そして、「全体」とはすなわち、宗教的に言えば、一者としての根本仏(根本神)であり、真理(究極のイデア)そのものである、ということです。
仏教的には”三千世界”と言いますが、文字通りの「全体」です。
一切は、その「全体」の内部にあるということ。
その、「全体=一者=真理」が内部矛盾を包含しながら、さまざまに変転変化をしている。そして、変転変化の過程で、真理自体が生成発展していく、ということです。
その内部矛盾→生成発展の原理・構造が「弁証法」ということです。
*参考記事:ヘーゲルの弁証法を中学生にもわかるように説明したい
ゆえに、弁証法は仏教的には「中道」と言い換えることもできる。
八不中道から「空」を点検する
不生不滅(ふしょうふめつ)
一者は「在りて有るもの」(「出エジプト記」)であるから、最初から在る(有る)し、これからも有る(在る)。
ゆえに、新たに生じることもなければ、滅することもない、ということになります。
不断不常(ふだんふじょう)
一者は、その内部において、常に変転変化していく。
「変化」が持続しているだけなので、「断じる」わけではない。かといって、同じ状態がずっと続くことはないで、「常なる」わけでもない。
断ずるということでもなく、常なるものでもない。
不一不異(ふいつふい)
一者は、一者自体が変化の過程にあるので、同一の有り様をしているわけではない。
”一”の内部では互いに「異なる」”多”があるので、「一である」と断ずることも出来ない、一方、”異なる多”はあくまで現象に過ぎず、総体としての”一”こそが実体である。ゆえに、「異なる」と断ずることも出来ない。
ゆえに、一とも言えず、それでいて、異なるとも言えない。
不来不去(ふらいふこ)
一者は、全体であるがゆえに「時間」をも包含している。しかして、「存在が変化しながら持続している」のが時間の正体である。
ゆえに、なにか(新しいものが)来ることもなければ、それが去るということでもない。
このように、八不中道は、四つの二重否定(計、八つ)によって、より高次の”本質”を抽出→総合して、究極の真理を浮かび上がらせていくわけです。
なぜ、否定論法を使うかというと、肯定論法では、「〜である」と静的なものになってしまって、「余りがない、スペースがない」ということになってしまい、それは究極の真理(一者)に限定を与えることになるからです。
否定論法であれば、「〜ではない」ということで、「〜ではないが、〇〇の可能性はある」ということで、スペースができますよね。
その”スペース”をつねに担保することによって、究極の真理(一者)に無限性および動的なダイナミクスを付与しているわけです。
このダイナミクスこそが空を理解するポイントなんです。
お分かりでしょうか?
……どうしたって難しいですよね。
ただ、難しくはあるけれども、知的に把握してゆくことは可能です。
これをさらに、どれだけ実践と瞑想のなかで腑に落とせるか。それが「悟り」なんです。
三学を思い出してみましょう。戒・定・慧(かい・じょう・え)の順番でしたね。
- 戒→実践
- 定→瞑想
- 慧→智慧
です。智慧を獲得するために、戒があり、定があるわけですね。
そして、
「智慧というのは、結局、究極のイデアである”真理”を把握すること、すなわち、空(くう)を知性・理性・悟性・感性を総動員して理解していくこと」
というふうにネオ仏法では解釈しています。
この悟りこそが、『般若心経』などで説かれている「般若の智慧」なのです。
真なるものは全体である。しかし全体とは、ただ自己展開を通じて己れを完成する実在のことにほかならない。 (『精神現象学』ヘーゲル)
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