不生不滅 不垢不浄 不増不減

不生不滅 不垢不浄 不増不減
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否定論法で究極の真理を浮かび上がらせてゆく

前回の続きで、今回はシリーズ12回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

不生不滅 不垢不浄 不増不減

読み:ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

現代語訳:(新たに)生じることもなければ滅することもない、穢れることもなければ浄くなることもない、増えることもなければ減ることもない

ここの箇所は、前回の、

 「シャーリプトラよ、このようにあらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ」

という言葉の続きです。「したがって、」という言葉を補って理解するとわかりやすいでしょう。

「あらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ(したがって、)(新たに)生じることもなければ滅することもない、穢れることもなければ浄くなることもない、増えることもなければ減ることもない」

という流れです。

「不○不△」という形式が3つ並べられています。「不」を基準に数えれば、6つの否定が並べられています。

これは、龍樹菩薩の「八不(はっぷ)」を踏まえつつ、3つに絞った表現であると思われます。

八不については、以前に記事にしたことがありますので、ご参照ください。

*参考記事:龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の八不中道で「空」を理解する

「不○不△」という論理の展開の仕方は、いわゆる「否定論法」にあたります。

否定論法は、「真理とはなにか?」を探求する際に欠くことのできない論法です。

なぜか?

肯定論法、「○は△△である」という叙述の仕方は結論が確定できるという安心感はあるのですが、一方、「〜である」と落ち着いてしまうことにより、ひとつの”静的(スタティックな)な状態”’に陥ってしまうことになります。

これ以上の”スペース”がなくなってしまうのですね。

スペースがなくなってしまうということは、これは「限定性をかける」ということになりますので、実際は真理という実体に想定されているところの”無限性、永遠性”と矛盾してしまいます

一方、「〇〇ではない」という否定論法においては、「〇〇ではないけれど、△△かもしれない」「〇〇ではないけれど、次に☓☓が現れてくる」といったふうに、スペースとそれに伴う持続可能性がでてくることになります。

この持続可能性が真理の永遠性・無限性を担保することになるわけです。

さて、それでは、今回の6つの否定論法を見ていきましょう。

不生不滅

「(新たに)生じてくるわけではなく、滅するのではない」ということですね。

そもそも、従来の般若心経解釈、すなわち、空≒無我=実体ではない、ということでいけば、

実体性がないのであるから、つまり本来的には「無い」のであるから、「生じた、滅した」ということ自体がありえないことになります。

第一義的にはその解釈でOKだと思います。

そしてここでも、上座仏教へのアンチテーゼがぶつけられていることに気づきます。

初期仏教以来の”無常観”で言えば、存在はすべて変化のうちにあり、「生滅」を繰り返してゆく、という考え方をとります。

これは「生滅がある」という考え方ですよね。

これに対して、「いやいや、「空」という究極の真理の目から見れば、「生滅すら無い」”不生不滅”であるのだ」とカウンターパンチを繰り出しているわけです。

不垢不浄

これも上記と同じように考えればよいです。

本来、実体性がないものに、「汚くなった、キレイになった」と言っても無意味ですよ、ということですね。

初期仏教では、無常観を鍛えるため、とりわけ「情欲」を抑える修行として、「不浄観」という観法を実践しておりました。

「女性が(男性が)美しいと言ったって、その美しさも時々刻々と変化しているではないか、やがて年老いて死んで髑髏(どくろ)になるではないか」

「皮を1枚めくってみれば、それでも美しいだろうか?とても見れたものではないだろう?」

というふうに、要は、「一見きれいに見えるけど、汚い(不浄)じゃないか」という観察を行って、執着を断つ修行をしていたわけです。

なので、初期仏教を継承していると自負している上座仏教にとっては、「生滅がある(無常である)」「不浄である」という教えはとても大事な教えなのですね。

それに対して、不生不滅!!不垢不浄!!と、ズバッと切り込み、

「より高度な”空”の悟りにおいては「不生不滅」「不垢不浄」であるのだ」

と”大乗の悟りの優位性”をアピールしているわけです。

不増不減

これももちろん、同じ論法で理解すればよいです。

ありとあらゆるものは実体がないのであるから、そもそも「増えた、減った」という論自体が成り立たない、ということになります。

「無いものは無いんで!」という開き直り(?)っぽいです。

般若心経の悟りを超えて

シリーズ9回目で展開された”空解釈”において、「般若心経の悟り」をひとつ超えていると自負しておりますが、さらに本稿でもう一段超えて突き放していくつもりです。

上述した6つの否定、”六不”においては、「あらゆるものは実体ではない」という空性の悟りが前提になっているのでした。

ところが、シリーズ9回目で解説させて頂いたように、ネオ仏法は空理解においても、「有無の中道」をとります。

すなわち、

  • 現象においては、個々の存在は実体ではない(従来の空解釈)

で良いのですが、

空とは結局のところ、究極の実在である真理が流転するさまを表現している、ということだと思います。

真理全体は実在(=実際に有る)なのですが、その内実の個々の現象を採り上げてみると、無常であり、無我である。現象に過ぎない(=無いとも言える)

…というふうに、空は

  • 現象にウエイトを置くと、「無い」といえる
  • 実在にウエイトを置くと、「有る」といえる

というふうに有無の中道で解釈していきます。

この”空論理の更新”については、下記の記事において詳述しましたので、参考になさってください。

*参考記事:上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを乗り越えるネオ仏法

ひとまとめで表現しますと、

真理は真理自身を発展の中におくために、その内部に個々の現象を創造し、現象相互に矛盾をあえて在らしめることによって、弁証法的な新たな付加価値を生じせしめている

ということになります。

これは、実体の定義そのものの更新、すなわち、

 実体=変化の背後にあって変化しないもの、永遠の存在

という従来の”実体の定義”をも更新していることに気づきます。ある意味で、西洋哲学史そのものを更新しています。

実体は、「変化の背後」にあるのではなく、自らを変化・自己展開させていくことにより、つねに新たな付加価値を生じさせ、持続的な発展を可能にしている、ということです。

ここでまた大きなおおきなポイントに気づきます。すぐ上の文章で、「つねに新たな付加価値を生じさせ」のところです。

つまり、付加価値がつねに生産されているのであれば、<実在>そのもののエネルギー総量もつねに増え続けている、ということです。

*これは超重要な考えであり、ネオ仏法の中心中の中心の論理です。

<実在>のエネルギー総量が増え続けているのであれば、「不増不減」ではなく、「増」であるはずです。

<実在>の側から観察すれば、ですね。ここのポイントが「般若心経の悟りを超えて」の第二段階に相当します。

今回は相当に難しかったと思います。

しかし哲学書をある程度読み慣れている方から見れば、それほど難解な論理展開ではないでしょう。むしろ、拍子抜けするほどかんたんに説明できていると思います。

あえて、傲慢に宣言させて頂くとすれば、

今日この一ブログで展開した内容は、2020年現在までの地球の文明の中で最高の知の到達点である、と自負しています。

この価値がおわかりになる方は、ぜひ参考記事も参照しつつ、繰り返し読んで理解を深めてみてください。

あなたの魂にとって、最高の”知の月桂冠”になることでしょう。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ⑬是故空中 無色無受想行識

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