悉有仏性と悉皆成仏の違いとは? – 天台本覚思想批判

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結果平等はやる気をなくさせる

ちょっと前に、とある小学校の運動会でこんなことが話題になりました。

「ゴールするときに、一等の子とビリの子がいるのは差別です。なので、仲良く手をつないでゴールインしましょう!」みたいな。

これは一見すると、平和なありかたのように視えますが、しかし、多くの批判があった通り、

頑張って練習して駆け足が早くなった子も、ずっとサボっていた子も、みんな同じ一等であるならば、これは当然、(本来の)一等の子はやる気がなくなりますよね。

努力しても努力しなくても結果が同じであるならば、やがて、「誰も努力しない」という世界になってしまいます。

これは運動会の例ですが、人間はもっと大掛かりに同類の文明実験をやっています。

そう、共産主義ですね。

旧ソビエト連邦では、計画経済のなか、「なにをどのくらい生産するか」を中央政府の官僚が決定していました。

たとえば、「今月中に机を合計100kg分作りなさい」という目標が来たとします。

この場合、一番ラクなのが、100kgの机を1個作ってしまうことです。

軽量で便利だからといって、10kgの机を10個つくるよりは、労力は1/10で済みますね。

しかし、…100kgの机なんて誰が使うんだ?という視点はまるで入らないことになります。

世の中の便利を考えて、いくら努力・工夫しても、「ハイ。あなたも100kg分作りましたね、OKです」で終わってしまうのであれば、当然みんな、やる気がなくなってきます。

「じゃ、オレも100kgの机、1個作るわ」となりますね。

で、「100kgの机なんて、誰が使う??」というふうに、粗悪品が市場に大量に出回り、だんだんと国際競争力もなくなると。

これは非常にバカバカしいたとえのように聞こえるかもしれませんが、旧ソ連にあった実話です。

要するに、「結果が同じであれば良い」という結果平等に焦点を当てると、みんながやる気をなくす/努力しない社会ができあがってくるわけです。

天台本覚思想の危うさ

運動会と、ソ連の計画経済の例を挙げました。

しかし、こうしたことは思想・哲学・宗教の世界でもけっこう起きていることです。

その一例が今回のテーマ、「悉有仏性(しつうぶっしょう)と悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」です。

それぞれの意味を整理してみると、次のようになります。

  1. 悉有仏性…人間はみな仏性を持っている
  2. 悉皆成仏…人間はみな仏になる

並べてみると、大差ないようですが、じつはこの二つは文字通り、天地の差(天国と地獄の差)があるのです。論の展開の仕方によっては、です。

それぞれについて、見ていきましょう。

1. 悉有仏性

「人間はみな仏性を持っている」というのは、

  • 仏と同じ性質を持っている
  • 仏陀になることができる

ということであります。

仏教学では、如来蔵(にょらいぞう)思想といいまして、原始仏教というよりも、後世の大乗仏教のなかで出てきた考え方、と捉えられていますが、

原始仏教(釈尊の仏教)でも、「修業によって阿羅漢(アラカン)になることができる」と説かれていましたので、これは同じことを言っているわけです。

釈尊の時代は、(少なくとも初期は)仏陀と阿羅漢をそれほど区別せずに使っていましたので。

この「悉有仏性」はもちろん真理です。

これがあるから現世に生まれて修行する甲斐もあるというもので、ただ洗濯機のようにグルグル輪廻しているだけではない、ということですね。

2. 悉皆成仏

問題はこの「悉皆成仏」です。

これがのちに、「天台本覚思想(てんだいほんがくしそう)」の展開とともに随分と危うい解釈に流れていきました。。
*詳しく申し上げると、本格的に危うくなったのは、「中古天台思想」以降です

本覚というのは、

  • 本:もともと
  • 覚:悟っている

という意味です。

「悉有仏性」のところで述べたように、

人間には仏と同じ性質(=可能性)が宿っており、修業によって磨き出せば、やがては仏陀になる(成仏)ことができる

という理解であればもちろん、正解です。

そういう意味であるならば、悉皆成仏は正解です。

しかし、下線で引いた「修業によって磨き出せば」というところがポイントで、これ抜きにして、「今、現に誰もが仏なのだ」という理解に行くと、これはかなり危ない世界が展開してきます。

ところが最澄以降、平安末期からですかね、悉皆成仏論は、このような危うい理解に傾いていきます。

修行論抜きで「みな、仏になれる」→「いや、すでに仏なのだ」という方向ですね。だんだんと危険領域に入っていきました。

これだと、最初にたとえに挙げた「子どもの運動会」「ソ連の机」と同じことで、まあ、結果平等ですよね。

「みんな仏」「すでに仏」であれば、誰も努力しない世界になってしまいます。

そうすると、最後には、「いくら悪いことをしても仏」などというところまで行ってしまいます。

道元など鎌倉仏教の開祖たちは、多くは若い頃に比叡山で修行をしておりまして、そののち疑問を持って下山をして独自に仏法の探求に入っていますね。

これはやはり一つには、「悉皆成仏論はおかしいのではないか?」という疑問から来ていると思われます。

とくに平安末期から鎌倉初期は、疫病・戦争・飢饉など、文字通り「末法」的な様相を呈していますので、「これで、みな仏、という理解はおかしいのではないか?」という疑問がでてくるのは当然のことでしょう。

この天台本覚論がいかに日本社会に毒水を流してきたか?

その影響力の大きさは、現在でも、刑事さんが被害者を「ホトケさん」と言う…慣用句レベルまで来ていることでわかります。

これは、「死んだら仏」という…、修行論もなにもあったものではない思想の「なれのはて」にある言葉です。

*刑事コロンボが「ホトケさんは」というと、「カミさん」と同じで味わいがありますけどね(閑話)。

ただ、「死後、仏になる」というのは浄土系の思想ですが、これは一概にわるいとは言えないと思います。浄土系の文脈における「仏になる」は、これは、「死後、極楽に往生する」あたりの意味でしょう。

信心している方もそれを望んでいるのであり、みながみな仏陀になりたいわけではないでしょうしね。

”利口バカ”な哲学思想に注意する

哲学思想というのは、「真理を論理的に整理・記述して、誰もが学び・研究できるようにする」という使命がありますが、これが中途半端であると、真理そのものを曲げてしまう危険性があります。

今回の「悉皆成仏」もそうです。

たとえば、

「仏(究極の実在)というのは、時間も空間も超越しており、かつ、それらを含んだ存在なのだ」

「ということは、修行の始点(菩提心:時間の初め)と終点(成仏:時間の終わり)の両者をすでに含んでいるのが仏なのだ」

「なので、仏と同じ性質=仏性を持っているということは、一人ひとりの人間も、すでに時間の始点と終点をすでに含んでいる存在なのだ、ゆえに、誰もがすでに仏であると言える」

とこんな感じですね。哲学的にはこういうふうに論を展開していくことも可能です。

とても「頭がよさそう」な思想ですが、しかし、私に言わせるとこれは「中途半端に頭がいい」という状態で、いわゆる、「利口バカ」というんですかね。

ネオ仏法的に言えば、上記の考え方は、「実在側からみた存在論/時間論」であるわけで。

存在/時間論は、実在側からだけでなく、現象側からもチェックしなければ片手落ちです

実在側からのみ、「すでにみんな仏」と言い切ってしまうと、この世があったり一人ひとりの個性があったり試行錯誤があったりする意味がまるでなくなってしまいます。

実在は「現象する」ことで実在そのものを自己拡大していきます
*参考記事:「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく」シリーズ

なので、「現象の側」からも真理をチェックしなければ本当の姿は視えないことになります。

つまり、私たちひとりひとりの実存から言えば、未熟な段階から成熟の段階へ努力して移行していくのがやはり真理であり、実在の一部であるところの私たち(現象)がそのように拡大していけば、全体であるところの実在も拡大していくことになりますよね。

これが、「実在は「現象する」ことで実在そのものを自己拡大しいく」ことの意味です。

なのでやはり、「悉有仏性」を認めつつ、修行論を込めて解釈していくのが中道の行き方でしょう。

このように、「利口バカな哲学」をきっかけに真理が曲がっていくことは洋の東西を問わず、よくある風景ではあるのですが、

あまりに行き過ぎていくと、鎌倉仏教の開祖たちやキリスト教の宗教改革者のような、「復古運動とともに、真理を時代に合致させるべく新しい理論・行動原理を作る」という「中興の祖」が現れてきます。

これが、霊格としての菩薩(天使)の仕事であり、ユダヤ教で言う「預言者」というのも本来はこういう仕事なのです。

思想改革が、場合によっては政治改革まで行ってしまうこともありますけどね。

結論的には、

「悉皆成仏」思想は、「誰もが可能性として、修業によって磨き出せば、やがては仏になっていくのだ」と理解すべきで、「すでに今ココで仏なのだ」というふうに解すると「悪平等」思想になってしまうということです。

「天台本覚思想の展開で真理が曲がっていった」と書きましたが、もともとの天台宗の「本覚論」そのものにけっこうな危うさがあります。

日本の天台宗の開祖、最澄と、それから奈良仏教の徳一(とくいつ)の間にもこのあたりを巡って熾烈な論争がありました。

「三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)」という論争ですが、今回は詳しくは立ち入りません。

しかし、結論的には本記事で書いてあることです。

正解は、

人間は誰しも仏と同じ性質を有しており(悉有仏性)、その点において、”機会の平等”が担保されている。そして、修行・努力によって、遠い未来において仏陀になることができる(悉皆成仏)という”公平な結果”が待っている。

ということです。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • コメントありがとうございます!

    可能性としての仏性がすべての人に備わっているのは事実で、
    その意味では、一定の時間的経過のなかで、「悉皆成仏」は真理だと思います。

    ただ、「いま現在すでに悉皆成仏している」という方向へ天台本覚思想は流れていったので、
    そこのところが、現状維持と堕落を生んだ、と解釈しているわけですね。

    成仏の因としては、浄土系の立場に立つのであれば、おっしゃるとおり、
    ”信”ということになりますよね。

    極楽往生ということであれば、それで正しいと思います。

    ただ、往生後、正確な意味で「成仏」「仏陀になれるか」というと、
    それは難しい、と当サイトでは解釈しています。

    参考記事:”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで救われるのは本当なのか? – 極楽往生にも段階がある

  • 草木国土悉く皆成仏す この一切有情の心に方便法身の請願を信楽するが故に(唯文意)
    修行を積んだら成仏できるというのは本当ですが、どういう修行かが問題。人間の修行ではどうしても阿羅漢、菩薩を越えられない。仏の手で完成した修行以外に手はない。それが仏の請願=修行を受け入れるという信心の働きではないでしょうか。

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