五蘊とは、存在を構成している5つの要素
前回(行深般若波羅蜜多時 – 六波羅蜜多をスパイラル状に実践する)の続きで、今回はシリーズ第5回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→摩訶般若 – 仏教的グノーシスの経典としての『般若経』
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
照見五蘊皆空
読み:しょうけんごうんかいくう
現代語訳:五蘊はあり、それらはみな空であると明らかに分かった
前回からの流れでいきますと、「照見五蘊皆空」は、般若の智慧を得たときに、一体なにが分かるようになるのか?その内容にあたります。
五蘊については、何度か触れたことがあります。
*参考記事: 自己価値の実現 – 「心イコール自分」を理解する
上記のリンクから記事を読んでいただいても良いのですが、今回なちょっと別の視点でまとめてみますね。
仏教ではすべての存在を5つの構成要素に分けて考えるのですね。これが「五蘊」です。
色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の5つです。それぞれの意味をまとめてみましょう。
- 色…物体/肉体/感覚器官
- 受…感受作用
- 想…表象作用
- 行…意思作用
- 識…認識作用
こう漢字がずらっと並んでいると、もうやる気をなくしそうですよね(笑)。
それぞれの「○作用」については、上記の参考記事でも書いておきましたが、今回は少し違った解釈で展開してみます。
存在というのは、おおざっぱに言えば、物質的なものと精神的なものに二分されますよね。
デカルトの二分法も、「精神と物体」でした。この二分法から、「物体を観察する私」という意識が生まれ、近代科学が育っていくことになります。
「デカルトなんて関係ないやー」と思っている人であっても、じつはデカルト的な思考の枠組みを受け継いで、日々を過ごしているわけで、このように考えると、思想というものの影響力のすごさに驚かされます。
この精神と物体の二分法をもう少し詳しく分類したのが仏教で言う”五蘊”なのです。
上記の色受想行識をそれに当てはめてみますと、
- 色:物体
- 受想行識:精神
という分類になります。
それぞれの定義から理解しようとしても難しいので、実際に、「私たちが外界をどのように認識しているのか?」辿ってみましょう。
たとえば、目の前に三毛猫がにゃん!と現れました。
即座に私たちは、「あ、猫だ!」と認識することができるわけですが、
この、
- にゃん!という鳴き声
- 三色の模様
を知覚してから、「あ、猫だ!」と認識するまでにどのような過程を辿るか?ということを考えてみるのです。
色
まず、私たちの肉体と感覚器官(目、耳など)がありますよね、これらが”色(しき)”です。対象である猫も、とりあえずは、色(しき)です。
受
そして次に、にゃん!という音と、三色の毛、全体のカタチ、(場合によっては)匂いなど…さまざま情報が私たちの感覚器官に飛び込んできて、その情報が脳に送られます。
ここの、さまざまな外界の情報を感知する段階が”受(じゅ)”です。感受しているから、感受作用です。
想
”受”で入ってきた情報はいまだ断片に過ぎませんでした。たとえば、「にゃん!」という鳴き声、「三つの毛色」とか、あとは外形、匂い…などはいまだ信号レベルです。
これら情報を、「にゃん!という鳴き声で、3つの毛色をもっていて、小さくしなやかなカタチをしているもの」という”まとまり”として、私たちのこころに表象されます。
表象されるとは、かんたんに言えば、ひとまとまりのイメージ(映像)が浮かぶということです。
ここのところが、想(そう)です。表象作用ですね。
行
さて、映像がこころに生じても、その映像が何であるか?興味がなければ、人はスルーしていきます。
道を歩いていても、周囲からやってくる情報をいちち「これは〇〇で、これは△△、…」と判断しているわけではないですよね。
あくまで、「興をそそられたもの」に対して心が動きます。「…これは何だろう?」と解明したい意思が働きます。なので、意思作用です。
識
ここまで来て、イメージと、自分の情報ストックをもとに推論が働き、「あ、三毛猫だ!」と認識します。なので、認識作用というわけです。
これら色受想行識をそれぞれ分解して理解すると、上記の順序になっているということで、実際はこららのプロセスは一瞬になされていますけどね。
カントの認識論より細かい五蘊
今回の五蘊の解釈は従来と違った解釈かもしれませんが、これも筋が通っていて分かりやすいかと思います。
こうした専門用語の解釈は、実際は宗派や時代によっても異なっていますので、「これが絶対」という統一見解はないのですね。
西洋哲学を勉強したことがあれば、「カントの認識論にそっくりだ」と気づかれる方もいらっしゃるでしょう。
カントの認識論では、感性→悟性→理性という3つのながれで人は物事を認識している、という分析をします(単純化すれば、です)が、五蘊は文字通り5つに分けて分析しているわけです。
分析が2つ多い!ということで、カントに先だつこと2千年以上前にこういう哲学的論議があったことは驚くべきことですよね。
というか、今回はカントの認識論に合わせて五蘊を再解釈してみました。
さて、「照見五蘊皆空」ですので、これを上述したことを含めて再翻訳してみると、
「<存在>は5つの構成要素で成り立っており、それらは空(くう)であることが分かった」
となります。
空(くう)については、今回はとりあえず、「実体のないもの」と理解してください。「存在は5つの構成要素の集まりに過ぎず、確固たる実体がないものである」という悟りです。
今回の”五蘊”、”空”については、般若心経のなかにのちほどまた出てきますので、そのときにまた違った角度から論じてみます。
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