エロースは御存知の通り、もともとはギリシャ神話の美の女神アフロディーテの子どもで、恋や性愛を司る神です。ローマ神話では弓矢をもつキューピッドの姿で有名ですね。
キリスト教の神学、文脈においては、アガペーとエロースは次のように定義されるでしょう。
- アガペー:神の無限かつ無償の愛
- エロース:満たされない自己を満たそうとする欲求の愛(性的愛を含む)
*他に聖書には、「仲間を思う友愛」という意味で、”フィリア”が使われている
したがって、「見返りを求める愛か否か?」という観点では、アガペーとエロースは対義語の関係にあると言って良いでしょう。
このように、定義上は、エロースはワルモノ扱いになっているわけですが、本当にそんなに簡単に片付けられるのか?
今回は、キリスト教の文脈において、エロースを救いつつ、アガペーにつなげる方向を考えてみたいと思います。
アガペーとエロースの違い
ネオ仏法では、「愛」にも、
- 主体的愛
- 依存的愛
の二種類があるとご説明しています。
そして、「主体的愛」は文字通り、自らが主体的に、他者(家族・隣人・社会・国家・神)に対していかに与えられるか?という愛であり、「依存的愛」は逆に、「自分がいかに与えられるか?」という発想の愛である、
ということで、エネルギーの流れの方向が真逆になっています。
真理スピリチュアルの価値観では、天国的な愛というのは、前者の「主体的愛」が相当することは言うまでもありません。
実は、こうした”愛の区分”はキリスト教の中でも論じられています。
これが、タイトルに掲げている「アガペー」と「エロース(エロス)」です。
どちらもギリシャ語で、アガペーの方はラテン語の「カリタス」でも有名ですね。学校の名前にもなっています。
おおざっぱに言えば、
- アガペー:主体的愛
- エロース:依存的愛
と、当てはめることも可能ではあるかもしれません。
こういう区分法は、じつは学校の倫理の教科書にも反映されているようです。
実物にあたったことはないのですが、さる山川出版の教科書では、
- アガペー:与える愛
- エロース:求める愛
という区分で説明されているようです。
あるいは、Weblio辞書では、
- アガペー:捧げる愛
- エロース:求める愛
となっています。
私の「主体的愛」「依存的愛」の用語より、こちらのほうが簡略ですし、エネルギー方向がひと目で分かりますので、実践で使いやすそうですよね。
しかし、こうしたアガペー/エロース理解は、近年ではごく一般的な解釈ではありますが、キリスト教史の文脈では、そう簡単に区分できるものでもないようです。
が、ここに詳しく立ち入ると、本筋が見えにくくなりますので、今回は簡略化してご説明致します。
かんたんに言えば、このアガペー/エロース理解は、神学者であるA.ニーグレンの提唱した区分法です。
A.ニーグレンの分類をさらにまとめると、下記にようになるでしょう。
- アガペー…神の愛を本質とする、実在からの下降運動(上から下への愛)
- エロース…自己愛を本質とする、実在への上昇運動(下から上への愛)
*ただし、アガペーについては、A.ニーグレンは「実在」という言葉は使用しておりません。あくまで「神」です。
それから、アガペーとエロース以外に、「フィリア」という言葉もあります。これもギリシャ語で「愛」という意味です。
フィリアは「友愛」などと訳されることもあり、どちらかというと、「対等な愛」というニュアンスがあります。
したがって、隣人愛については「フィリア」でも良さそうですが、イエスの説いていた愛は「対等な愛」というより、「無償の愛」であったので、あえて「アガペー」が採用されたのだと思われます。
アガペーについては、聖書にはたとえば、下記の記述があります。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(「ヨハネによる福音書」第13章34−35節)
ちなみに、「哲学」というのは、ギリシャ語では
- フィロ:愛する
- ソフィア:知恵
の結合語「フィロソフィア」ですので、もともとは「知恵を愛する」「愛知」という意味なのですね。
下記の記事では、アガペー、エロース以外の愛に関する言葉もまとめて解説しておりますので、参考になさってください。
*参考記事:アガペー、ストルゲー、フィリア、エロース – 愛の種類と天使の愛のススメ
エロースをアガペーに転化させる
神への愛としてのエロース
私の「依存的愛」にせよ、A.ニーグレンの「自己愛」にせよ、どうもエロースは一方的に「悪モノ」扱いされているきらいがありますね。
理由の一つは、エロースが一般に、「性愛」を含むとされている、という理由もあるでしょう。
しかし、エロースを悪モノとしてかんたんに片付けて良いかどうか?もう少し、深く考察してみたいと思います。
というのも、この、エロースをいかに捉えていくか?実践面で活かしていくか?で、真の意味での信仰論、マクロ的には実在(神)とは?世界とは?という考察に関わってくると思えるからです。
ネオ仏法では、日々の習慣として「主の祈り」をお勧めしております。キリスト教徒の方はもちろん日々、唱えていらっしゃることでしょう。
「主の祈り」で、「われらの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ」というくだりがありますが、ここで、
主に対して「与えたまえ」というのは、なにやら主から奪っているようで、なんとなく心理的抵抗がある…」と思われたことはありませんか…?
私はあります(笑)。
しかし、あるときに、「主から奪っているという発想は、本来無限である主のエネルギー(神の愛)量に限定をかけている、という傲慢な思いにあたるのでは?」と思い至りました。
また、そもそも、「愛のエネルギーの循環」という観点から言えば、主から頂いた愛を隣人愛へ活かしていくのがむしろ正当な方向性である、ということを再認識いたしました。
そのように考えると、キリスト教で最も重要な2つの掟、
- 神への愛:「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
- 隣人愛:「隣人を自分のように愛しなさい」 (「マタイによる福音書」22章37節)
この第1の掟、「神への愛」をどのように捉えるか?というところですね。
神(主)と私たち一人ひとりが、
(天にまします)父 – 子
という関係(現象的なメタファーと捉えていますが)であるならば、
子が親に思いっきり甘えることはごく当たり前のことではないか?むしろ、親は子に甘えられることを喜びとしているはず。ゆえに、神に思いっきり甘える(求める)ことは、「神への愛」にかなう
と思うようになりました。
子(私たち)が未熟であればなおさらです。
未熟であるということは、
幼児 – 親
の関係にあたるわけですからね。
もっとも、甘えると言っても、「神のせいにする」といった甘え方は論外でしょう。
そうではなくて、もっと純粋に神を求めること、と言いますか、
カール・ヒルティ的に言えば、「”神への愛”は、いつも神のそば近くにあることをひたすら純粋に願うこと」ということだと思います。
聖書にも以下の聖句があります。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(「マタイによる福音書」11章28節 )
このように考え進めていくと、ネオ仏法の用語、「依存的愛」も救われます(笑)。
隣人に依存することはむろん幸福感の不安定化を招きますのでバツですが、
しかし、
神への依存。この場合は、神に托む(たのむ)こと、はむしろ、自己の幸福感という観点からも、また、「隣人愛への原動力」としても必須条件である
と言えると思います。
したがって、愛のエネルギーの循環としては、上述した「掟」の順序ですね。
- 神への愛:神の側近くにあることをエロース的にひたすら求める。そして、愛のエネルギーを頂く
- 隣人愛:神から頂いた愛のエネルギーを隣人へ与えていく
ということだろうと思います。
これはいわば、エロースのアガペーへの転化です。ここにおいて、エロースはアガペーの対義語であることから脱却し、むしろ、「エロースはアガペーによって完成する」とも言えましょう。
イデア界への憧憬としてのエロース
こうした神への愛としてエロースを把握することは、言葉は違っても、ギリシャ哲学(プラトン哲学)でも展開されている論でもあります。
プラトンは『饗宴』などの書物においてソクラテスに仮託し、「イデアへの憧憬としてのエロース」論を語っています。
エロースはきっかけとしては肉体・物質的なものへの美への憧れであるにせよ、美への欲求(エロース)は段階的に上昇し、ついには、イデア(真実在・知そのもの)へと至るのです。
つまり、エロースは美を媒介にしたイデア界への憧憬として把握されています。
イデア界への憧憬 – これはキリスト教の文脈に置き換えれば、まさに「神への愛」そのものと言えるでしょう。
無我な愛(anattā-Agape)
また、重要なところは、
隣人愛において、私たち一人ひとりが、新たな付加価値として愛を生産している、という観点もありうるということです。
むろん、この付加価値としての愛も、元は神から頂いたエネルギーと考えられます。
エロースは、基点としては、自己愛・自我に基づく愛ですが、私たち一人ひとりが地上に転生し、個性を獲得していることにはやはり積極的な神仕組みを見抜いていくことだと思います。
自我をいちがいに否定せず、「わるい自我意識にならないよう注意しつつ、自己を伸ばす方向で自我を整え、神の側近くにある原動力としてエロースを使う。そして、ほんとうの意味での個性を獲得する契機にしていく」
という方向性です。
このように自我を整え、自己を伸ばしていくうちに、逆説的ではありますが、これはだんだんと「無我」になっていく自分に気づいていくようになります。
それは、自分の個性・能力を神と人と世に役立つよう自利利他を永遠に展開していく道であり、これこそが王道中の王道の魂のありかたです。
個性というのは、自我意識のみで、たとえば、「こういうファッションをしているからオレらしいぜ!」みたいなインスタントなものではないと思います。
ちょうど、海の青がみずから青を作り出しているのではなく、ありのままで太陽の光を反射して青を見せているように、自分の個性を太陽(神)に向かって生かしていくときに、自然と現れてくる光、が本当の個性です。
ここにおいて、キリスト教的なアガペーと仏教的な無我は総合されることになります。
「無我な愛」(anattā-Agape)
です。
このように実現された愛は、聖書によれば下記の様態をとると考えられます。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(「コリントの信徒への手紙一 」13章4-7節)
今年(2020年)はキリスト教的な記事が増えていますが、ある程度、出揃った段階で、正式に(?)「仏教とキリスト教を総合する理論」をまとめていきたいと思います。
→2021年に下記の記事を執筆しました。
*参考記事:仏教とキリスト教の共通点を抽出する – “違い”を融合するネオ仏法
去年(2019年)は、「上座部仏教と大乗仏教を総合する」という方向性を採りましたが、仏教とキリスト教も同じように弁証法にかけていきます。
*参考記事:上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを乗り越えるネオ仏法
これがネオ仏法の使命であり、また、哲学→神学への弁証法的再帰、「スピリチュアル現象学」です。
以上、「エロスとアガペーの違い」の定義を整理しつつ、さらに「神への愛としてのエロースは隣人愛としてのアガペー(無性の愛)へと転化していく」という視点を提示してみました。
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