「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の意味と解釈- なぜイエスは叫んだのか?

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(「マタイによる福音書27章46節)

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(Eli, Eli, Lema Sabachthani)」は、文語訳では「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給ひし」となっていまして、こちらのほうが格調は高いですね。

格調高いがゆえに、悲痛度も増している感がありますが、いずれにしても、福音書のなかのイエスの言葉としては、最もインパクトのある言葉のひとつでしょう。

この場合のインパクト、というのは、「イエスの神性に照らし合わせて、この言葉はどうなのか?」「人間イエスとしての叫びであったのか?」という疑問を読み手に喚起する点にもあるでしょうね。

ひとつの見方としては、「人間イエス」が垣間見えるがゆえに、福音書の物語に奥行きを与えているという文学的な側面もあるかもしれません。

上記の引用の次に、次の一節があります。

そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。(「マタイによる福音書」27章47節)

イエスの神性を担保するならば、むしろこの、「エリヤを呼んでいるのだ」というふうに持っていったほうが良いのは当然です。

そうすると、書き方としては、

  • 群衆のなかには、「イエスは、神がかれを見捨てたことを叫んでいる」と言う者もいた
  • しかし、じつはイエスはエリヤを呼んでいたのだ

という流れのほうがむしろ自然に思われますよね。

しかし、冒頭の引用では、「イエスは大声で叫ばれた」と書かれているわけですから、これは、「聞き間違えではない」ということをわざわざ補強しているようにもとれます。

ちなみに、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(Eli, Eli, Lema Sabachthani?)」はヘブライ語です。

実際にイエスが使っていたと考えられるアラム語では、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と表現します。マルコ福音書ではこちらが採用されています。

目次

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は旧約聖書「詩篇」からの引用

しかしまあ、結論的には、聖書をよく勉強している方はご存知かと思いますが、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」は、旧約の詩篇22章からの引用である、というのが本当のところでしょう。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。(「詩篇」22章2節)

これは、ダビデの言葉の冒頭の部分ですね。

ここからダビデの言葉(詩)がずっと続いていくのですが、この22章の結末部分では、

わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを來るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。

という「主への賛美」で終わっています。

なので「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という言葉は、この詩篇22の内容を下敷きとして、まあ和歌の「本歌取り」みたいなものですね、

そのようなダブルイメージ、ダブルミーニングで解釈していくほうが、「イエスの神性」ということでは説得力がありそうです。

つまり、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」は、ダビデの後継者、すなわち、「メシアとしてのイエス」を補強していく伏線になっているという寸法です。

ダビデの後継者

それから、詩篇22の次の詩篇23は「ダビデの讃歌」として、ユダヤ教・キリスト教で祈りの言葉として使われています。

その冒頭部分に「主は私の羊飼い」という句があります。

そこのところも、

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(「ヨハネによる福音書」10章11節)

に照応しております。

また、イエスの刑死について、ヨハネによる福音書では、

「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(「ヨハネによる福音書」19章30節)

となっていますので、やはり、

成し遂げられた=旧約の予言の成就

という文脈で解釈をすることができます。

マーケティングとしての福音書

それでは、実際のところはどうであったのか?ということを考えてみたいと思います。

そもそもの前提として、福音書は、「イエスはメシアであるという証明」のために書かれていると言っても、あながち大げさではありません。

たとえば、今回引用したのは、「マタイによる福音書」からですが、このマタイは新約聖書の冒頭にありますので、「新約聖書でも読んでみようかな」と思った人が、まず読み始めるところですね。

ところが「マタイによる福音書」は最初の1節めから、「イエス・キリストの系図」で始まっています。

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによって、ベレツとゼラを、……(後略)

これが延々と続いていきますし、またユダヤ人の名前に馴染みがないと読みにくいことこの上なく、「なんだなんだ!?」ということで、聖書を読むのを断念してしまう人も多いかもしれません。

わざわざ福音書の冒頭に「ダビデの子、イエス・キリストの系図」が書かれてあること自体が、

 ダビデの後継者=メシア=イエス・キリスト

という図式の証明ですね、これを目的として書かれていることが分かります。

エリエリレマサバクタニ 聖書

イエス在世中はもとより、イエスの死後しばらくは、そもそも「キリスト教」という概念はなく、「ユダヤ教のナザレ派」という立ち位置にありましたので、

「マーケティング」の対象も、当然、まず第一に「ユダヤ人」ということになります。

つまり、一般のユダヤ教徒にアピールしているわけです。

ユダヤ教の流れの中で、ナザレ派こそが正統である」「それは、イエスがダビデの後継者、”メシア”であることによって証明される

というふうに。

こういうふうに書いていくと、「福音書は一言一句、無謬(むびゅう)である。聖霊によって書かれている」という”福音主義”を否定する方向へ行ってしまいますが、

これは私はもう致し方ない、と考えています。

というのも、「福音書は無謬である」立場を貫くと、近現代人にとっては信仰を損なうリスクのほうが大きくなっています。

これは、「キリストの復活」についてもそうでしょう。

やはり、ゾンビのように肉体が復活した、というのがなんとも「非合理的で信じられない」、という見方をする人の方が今後ますます増えいくでしょうし、そうすると、それはキリスト教の衰退につながっていきますよね。

*参考記事:イエス・キリストの”肉体の復活”は本当か?アストラル体で解読する

しかし、ネオ仏法の意図としては、

  • イエスが神の子であり
    *もちろん、見方によっては”神”そのものである、と言ってもよいのですが、この点については「三位一体」の論考で取り上げる予定です)、
  • イエスの教えは永遠の真理である

ということを、現代以降に残るようにキチンと整合性をつけていくところにあります。

そういうわけで、

初期の大乗仏教の経典も、当時の小乗仏教(主流派仏教でもありました)へのアンチテーゼとして、マーケティング的な意図で記述されている側面が強い、と書いたこともありましたが、

それは、釈尊の一番弟子の舎利弗(シャーリプトラ/サーリプッタ)を一種の「道化役」として描いていることからも伺えます。

『般若心経』でも、観自在菩薩が舎利弗に説法しているという体裁をとっていますが、これは、「大乗のほうが小乗よりも悟りが深いんですよ」というアピールですね、マーケティング的な意図がやはりあります。

キリスト教の福音書も同様に、当時のユダヤ教主流派(パリサイ派)に対するマーケティングでもあり、

さらに言えば、新約聖書に限っても、なぜわざわざ4つ福音書があるのか?

共観福音書

とくに、マルコ – マタイ – ルカについては、「共観福音書」と呼ばれていて、内容的にはかなり重なっているところがあります。

「マルコだけでいいじゃないか?」という考えもありますが、わざわざ他の福音書が編纂されたということは、キリスト教(ユダヤ教ナザレ派)の内部でも、お互いに牽制しあっていた側面があるということですね。

マタイ派、ルカ派、ヨハネ派、というふうに。

ユダヤ人への憎しみを越えて

そして、実際のところ、福音書の物語では、パリサイ派・サドカイ派などのユダヤ教主流派が、(かんたんに言えば、)「悪役」として設定されすぎている、のも事実です。

イエスの思想と行動は、ひとつの大きな革命でしたからね、たしかに、ユダヤ教主流派から大きな反発を受けたことも事実ではあるのですが。

福音書の記述では、ユダヤ教主流派の人々に「サタンが入った」という文脈で書かれています。

*参考書籍:『悪魔の起源』(エレーヌ・ペイゲルス著)

悪魔の起源

これは、後世にもかなり影響を残しているのは想像に難くないことで、潜在意識・顕在意識ともに、ですね、欧米人(キリスト教徒)の「ユダヤ人への憎悪」をあおってきた面があります

それが、ナチスの強制収容所などにも連なってきていますし、これは本当に根深いものがあります。

なので、

「マーケティングとしての福音書」もひとつの側面として認めていくことが、ユダヤ人への偏見を解消していく道になるだろう、と私は思っています。

というわけで、

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」から少し離れていったようですが、こうしたマーケティング的な意図もあったということで、実際の現場はどうであったか?はちょっと分からないですね。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」なんて言ってませんよ、というと身も蓋もないのですけど。

やはり、十字架刑ということで、野次馬も含めてかなりごったがえしていましたし、イエスも体力は当然奪われていますので、何かを言ったとしてもつぶやくのが精一杯であり、あまり聞こえるようなものもなかったのかな、と思いますけどね。

ただ、マーケティング的な流れはあるにしても、

イエス自身の意識としても、「メシアの証明」としてあえて十字架につく、という意識はあったと思いますので、大筋としてはやはり真理である、と受け取るべきだと思います。

2千年も福音書が読まれ続けて生きたのにはやはり、それなりの霊的真理のパワーが含まれているということです。

多くの人々の魂を揺さぶってきましたし、それはこれからもそうでしょう。

ただ、近現代から今後の文明への流れでは、非合理的に思える部分/マーケティング的な記述については、「そういう経緯だったのか」ということで納得して頂いたほうが良い、と私は思っています。

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