ややふしぎなユダヤ教 – ④知恵の木の実を食べてはいけない理由

楽園追放

1ページ目からいきなり矛盾の『創世記』

ややふしぎなユダヤ教シリーズ4話目です。
シリーズ初回からお読みになりたい方はコチラから。
ややふしぎなユダヤ教 – ①

「知恵の木の実」とか「禁断の果実」とよく言われていますが、旧約聖書には「善悪の知識の木」と書かれています。

該当箇所を引用しておきます。

善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2:17)

なぜ食べてはいけないのか?なぜ食べると死んでしまうのか?

そもそも、「善悪を知ること」「知恵を得ること」は悪いことであるのか?

…こういう疑問が当然、湧いてきます。

ここを考える前に、『創世記』は信者の立場から見ても、「書かれている通りの事実」と考えるべきか?について検討してみます。

結論から申し上げると、「史実」と考えるには、大きな矛盾があることに気づきます。

まず、ちょっと気づきにくいことですが、創世記は2回語られています。

『創世記』冒頭に「天地の創造」(1-1)が置かれているのはお分かりですね。

そして、次に「エデンの園」の話が続きますが、じつはここの冒頭にも「天地創造」があらためて語られています(2:1-7)

ささっと読んでいると、物語の流れの”確認”のためにもう一度書かれているのかな?と思ってしまうのですが、

よくチェックしてみると、最初の天地の創造とは矛盾していることが書かれていることに気づきます。

詳しいことは、聖書をチェックして頂ければ、と思いますので、内容だけ箇条書きにしておきます。

第1章の天地創造

  1. 植物が先に創られ、人間が後に創られている
  2. 男女が同時に創られている

第2章の天地創造

  1. 人間が先に創られ、植物が後に創られている
  2. まず、男(アダム)が創られ、次に、そのあばら骨で女が創られている

…と、こんな感じです。

「史実」「事実」と考えると、どうしても矛盾が出てきてしまうのですね。

ここはほんの一例であって、聖書はそもそも矛盾した記述がけっこう多いのです。

なので、「事実」視点からみると、見誤ることになります。やはり、書かれてあることは何らかのメタファー(暗喩)であるとする「解釈」視点が必要でしょう。

これは私が勝手にそう思うわけではなく、聖アウグスティヌスも、「文字は殺し、霊は生かす」と述べて、旧約の事実的記載に対しては解釈学の方向へ向かっております。

さて、問題をもとに戻します。

なぜ、「善悪の知識の木」から食べてはいけないのか?

主なる神と、エヴァを誘惑する蛇の言葉を総合すると、

  • 食べるとかならず死んでしまう(*蛇の誘惑では「決して死ぬことはない」)
  • 神のように善悪を知るものになる

この2点です。

なぜ、食べると死んでしまうのか?

結論から申し上げると、

「食べると死んでしまう」は文字通りに解するべきではなく、永遠の生命=神の世界から離れてしまう、という方向で解釈すべきだと思います。

聖書独特の文学的表現です。

実際は、(神から見て)善人であれ悪人であれ、永遠の生命が有していることには変わりはありません。

ただ、個人の認識として、たとえば、「人間は死んだら(肉体の死)、そこで生命活動は終わってしまう」という唯物論的価値観を持っていると、

死後もその認識通りの世界が展開してくることになります。一種の”無意識状態”がしばらく続くということですね。

あるいは、そこから目覚めたとしても、天の国とはほど遠いライフスタイルを送ることになります。

このように、「本来あるべき姿」「本来性」から離れてしまう様を「死んでしまう」という言い方で表現しているわけです。

こうした表現法は、新約聖書でも頻繁に使われています。

一例を挙げておきます。

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)

「神のように善悪を知る」とは?

こちらも同様に、”メタファー(暗喩)”として解釈すべきでしょう。

つまり、人間が「神中心の世界観」から離れて、「人間中心の世界観」に至ってしまう。

そして、「善悪の価値基準を人間(自我)を尺度にして判断するようになる」という意味だと思います。

これは有名な”バベルの塔”の話と似ています。

人間が「神のように」なろうと傲慢な思いで、自我中心の世界を構築してしまう。

構築すればするほど、本来性=神の世界から離れてしまい、それは結局、不幸へ至る道に続いている、ということです。

ここ数年よく言われている「自分軸」などもそうです。あるいは、その反転形の「他人軸」。

結局、「人間」を中心に善悪を判断しようとすると、それが自分であれ、他人であれ、”善悪”そのものが相対化されて、普遍性から離れていってしまうのです。

かんたんに言えば、「自分の正義と他人の正義」は違いますよね?

ここに正義同士のぶつかり合いが生じて、歪みが生じていきます。場合によって戦争にもなります。

すべては、「神中心の世界観」から(自ら)滑り落ちて、「人間中心の世界観」を選択してしまったところに間違いの元があります。

そうした「滑り落ち」を「エデンの園からの追放」というふうに文学的に表現しているわけです。ここもメタファーです。

労働は”罰”か?

ちなみに、「エデンの園から追放されたおかげで人間は働かざるを得なくなった」という、”労働性悪説”ですね、

この労働性悪説も再考の余地があると思います。

主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(創世記2:15)

そう、エデンの園でも人は「耕し」働いているのです。

なので、エデンの園から追放されてはじめて義務的に「働くように」なったわけではありません。

ここのところも、

  • 神中心の世界観から働くか
  • 人間中心の世界観から働くか

の違いと解すべきだと思います。

むしろ、人間中心の世界観からの労働というものに転落したが「労働性悪説」そのものと言えるでしょう。

神中心の世界観に基づいた仕事は正当なものであり、これは「仕事を通じて神の栄光を表現する」というプロテスタンティズム、「世俗内禁欲」ですね、ここにも通じていると思います。

まとめとしては、

「善悪の知識の木からとって食べる」とは、人間が”神中心”の世界観から離れて、自我に基づいて善悪を判断するようになる、というメタファーであり、

「食べると死んでしまう」というのは、神の子としての本来性を失った状態に陥ってしまう、それは自ら死を選ぶのと変わらないのである、というメタファーである、

ということになります。

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